ジャンボ鶴田になれなかった男…谷津嘉章


 1980年10月23日、レスリングでモスクワオリンピック代表の谷津嘉章が新日本プロレスに入団することが発表された。谷津はモスクワオリンピックでフリー100キロ級に出場する予定で、76年のモントリオールオリンピックで8位になったことから、メダルの期待がかかっていたが、米ソ冷戦の影響で民主主義国がこぞって出場をボイコット、日本もアメリカに同調してボイコットしたため、谷津は4年後のロスオリンピックまでには待てないとして、日本レスリング協会の会員だった福田和昭氏の仲介で新日本プロレスに入団を決意した。

入団会見の際にはシリーズ途中ながらのアントニオ猪木、坂口征二も駆けつけ、谷津の入団を歓迎し、谷津も会見の際には「アメリカの大学でレスリングをやっていた頃は1度も負けたことがない、僕も全米チャンピオンと何度が闘ってますけど、たいしたことはないと思ってるんですよ、だがらプロになって全米チャンピオンがどれだけ強くなっているか、早くバックランドと勝負してみたい」と当時のWWFヘビー級王者だったボブ・バックランドに対してビックマウスを叩くなど、即戦力ルーキーとして期待を見せつけていた。 

  なぜ新日本プロレスは谷津嘉章を求めたのか?営業部長だった新間寿氏がジャンボ鶴田のような体格のあるレスリングのエリートを求めており、鶴田がプロレス転向の話が出たときは、猪木に獲得を進言するも、猪木は鶴田を「木偶の坊」と評して乗り気になれず、鶴田の代わりに同じレスリングでオリンピック代表だった長州力を獲得したが、新間氏も長州は同じレスリングエリートでも、体の小さい長州は望んでいた存在ではなく、その後も新間氏は鶴田個人に接触して新日本移籍を持ちかけたが、鶴田は動かず、また東京スポーツから「鶴田を引き抜こうとするのは何事か!」と一喝されたこともあった。  

 シリーズに帯同した谷津だったが、当時若手だった前田日明や高田延彦、ジョージ高野らがエリート扱いを受ける谷津に敵愾心を示した。新日本の若手は道場から下積みを経ているだけに、新人ながらも下積みを経験せず、エリート扱いを受ける谷津に対して面白くない感情を持っていたが、また谷津も「日本のレスリングの頂点にいる俺が強い」と前田らを見下していた。新間氏はWWF会長の座を利用して、道場での育成ではなくアメリカのWWFに送り込み、11月17日MSGのリングでデビューさせ、谷津は藤波がWWFジュニアヘビー級王座を奪取した相手だったカルロス・ホセ・エストラーダと対戦し。フロントスープレックスことワンダースープレックスで3カウントを奪い、大舞台で堂々のデビューを飾った。これまでの新日本はカール・ゴッチのいるフロリダへ送り込まれることが慣例となっていたが、新間氏は谷津は基礎的な部分はマスターしているとして、実戦で経験を積ませることを重視したのと、この頃の新日本はNWAの会員にもなり、これまで呼べなかったNWA系の選手も参戦するようになったことで、新日本の中ではでゴッチは不要な存在としてされつつあった。また鶴田が全日本入団と同時にアメリカのファンク一家に預けられてアメリカでプロレスを学んだのもあって、谷津に鶴田と同じコースを歩ませたい意図もあった。

 谷津はWWFエリアでプロレスを実戦で学んで、わすか半年で帰国、6月24日 蔵前国技館で行われた「3大スーパーファイト」で谷津は日本デビューが行われることになった。、当初の予定ではメインは猪木、ダスティ・ローデスvsスタン・ハンセン、タイガー・ジェット・シンが組まれていたが、ローデスがNWA世界ヘビー級王座を戴冠したため来日をキャンセル、シンも全日本プロレスに引き抜かれたため、カード変更を余儀なくされ、新日本は猪木のパートナーに凱旋したばかりの谷津が抜擢、ハンセンのパートナーも全日本から移籍したばかりのアブドーラ・ザ・ブッチャーに変更となった。いきなり猪木と組んで大物タッグとの対戦は、それだけ谷津を即戦力ルーキーとして期待をかけていたということだった。また当日は通常のワールドプロレスリングではなく『水曜スペシャル』の特番枠で生中継されることも決定していたことから、谷津を売り出すには恰好の舞台が整っていた。

 試合は60分3本勝負で行われ、1本目から谷津が先発でハンセンと対峙、谷津はヒップトスからショルダースルー、ドロップキックと果敢にハンセン相手に攻めるが、ハンセンのエルボーとニーを浴びると失速、交代を受けたブッチャーの地獄突きや頭突きを浴び、ハンセン組にタッチワークの前に蹂躙される。谷津はやっと猪木に交代、猪木はハンセン組の勢いに押されつつも、猪木がアリキックでやっとブッチャーの動きを止めてお膳立てし、谷津に託したが、ブッチャーの頭突きを受けてまた失速、場外戦となるとハンセン組のダブルでの鉄柱攻撃や、ブッチャーのビール瓶攻撃を受け大流血してしまう。谷津はリングに戻るがハンセンにやられ続け、ウエスタンラリアットの前に3カウントを喰らって1本目を取られ、カットに入った猪木にもウエスタンラリアットを浴びせた。

  2本目に入ろうとするがインターバルとなるが谷津は起き上がれず、焦れたハンセン組は猪木組を襲撃、二人がかりで谷津を痛めつけため、反則負けとなり1-1のイーブンとなるが、3本目となると谷津にお膳立てをしたにも係わらず、自分の思う通りに動かない谷津に猪木がキレ、ビール瓶を持ち出し、制止するメインレフェリーのユセフ・トルコ、ミスター高橋にもビール瓶で殴打、ハンセンやブッチャーにも殴打したため反則負けとなった。中継は放送時間内で試合が終わらなかったため、途中で終了となったが、大舞台でしかもTVの生中継という舞台を与えられながらも血だるまにされて何も出来なった谷津を見て、ファンは「ダメなヤツ」とレッテルを貼り、凱旋デビューの失敗は谷津のレスラー人生にも大きく影響した。

  谷津は後年「自分が血祭りにされることが猪木の目論見だった」と猪木を逆恨みしていたが、猪木と師弟コンビとしてよくタッグを組んでいた藤波辰爾は「タッグというのは普通、交代できるから楽と思われるじゃないですか。僕の場合必ず猪木さんがいるわけだけど、やっぱり気が抜けない、猪木さんにタッチする時、タイミングが悪いとタッチしてくれないですからね。『帰ってくるな、行け!』ってやらされたね」と話していた通り、猪木は自分のタイミングでないと交代に応じないことが多く、藤波だけでなく黄金コンビとして組んでいた坂口征二も、ここで猪木の出番だと考えて、猪木に交代していた。それを考えると入団からいきなりアメリカへ送り出されたことから、猪木とは十分にコミュニケーションをとっておらず、自分が試合を見た限りではアメリカではセオリーどおりのプロレスを学ぶも、谷津の対戦相手にはハンセンやブッチャーのような狂乱型の選手がいなかったのもあり、また猪木も馬場さんのようにセオリーを学ばせるより、実戦で学ばせるタイプだったこともあって、ハンセンやブッチャーと対戦させることで経験を積ませようという考えもあり、序盤は敢えて谷津を引き立てていた。だがブッチャーも全日本から移籍したてで新人相手にまずい試合をするわけにはいかず、またこの時点で全日本に引き抜かれることが内定していたハンセンにしても商品価値を落とすわけにはいかなかった。それを考えると谷津の相手にハンセンとブッチャーは荷が重すぎた組み合わせで、どちからのパートナーに若干ランクが下ながらも、谷津に合わせられる選手と組ませるべきだったのではないだろうか? また谷津自身も猪木への理解度も足りなかったのも要因だったのではないだろうか…

 凱旋マッチで失態を演じた谷津は再調整のために2度アメリカへ送り込まれ、3度目に帰国したときは長州力率いる維新軍団の一員として凱旋したが、新日本ではブレイクすることはないままジャパンプロレス、そして全日本プロレスへ移籍、全日本マットで鶴田と対戦、後にタッグを組んで五輪コンビを結成し世界タッグ王者にもなったが、鶴田の上へいくことはなく、SWSへ移籍してからは様々な団体を渡り歩いた。1度は引退するも、2015年から復帰、地方インディーを中心に活躍している。 谷津は新日本から鶴田のようなレスラーになるように求められたが、鶴田にはなれないどころか越えられなかった。 

(参考資料 ベースボールマガジン社 日本プロレス事件史Vol.16 猪木 谷津vsハンセン ブッチャーは新日本プロレスワールドにて視聴できます)

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