全日本プロレス旗揚げ50周年 スーパールーキー・ジャンボ鶴田のデビューと苦悩


 1972年10月21日に、全日本プロレスが旗揚げしたが、その10日後の10月31日に後にジャンボ鶴田とリングネームを改める鶴田友美が入団した。

 鶴田は1951年3月25日生まれで、高校ではバスケットで活躍、当初はバスケットでオリンピック出場を目指したが、中央大学に進学後は「バスケットより日本代表を目指しやすい」ということでレスリングに転向、1972年にレスリングで日本代表の座を獲得し、ミュンヘンオリンピックに参加した。メダルは獲得ならなかったが、オリンピックが終わると相撲、プロレスによる”鶴田争奪戦”が始まったが、鶴田はアマチュア・レスリングの協会・会長の八田一朗氏にプロレス志望の意向を伝えた。

 八田氏は”日本レスリング界の父”と言われ、東京オリンピック招致にも尽力した人物で、プロレス界でも国際プロレスにヨーロッパの外国人ルート開拓を薦めるなどしてプロレス界にも影響力を持っていた。黄金ルーキー争奪戦には日本プロレス、新日本プロレスも加わり、新間寿氏は特に獲得に熱心だったが、猪木が鶴田を「木偶の坊」として評価して獲得に乗り気ではなかった。

 八田氏や中央レスリング部監督である関二郎氏はジャイアント馬場と面談させ、馬場の人柄に魅せられた鶴田は即決で全日本プロレス入りを選択した。鶴田が全日本を選んだ理由は周囲が「(崩壊寸前の)日本プロレスは先が見えている。新日本では猪木に利用されるだけ」と薦められたのもあったが、馬場の人柄だけでなく「(全日本プロレスが)出来たばかりのピッカピカ」だったことも決め手で、全日本も旗揚げはしたものの日本人選手が不足しており、即戦力の選手を欲していた。鶴田は会見で「進路についてはいろいろ考えましたが、自分に最も適した”就職先”として、馬場さんの全日本プロレスを選択しました」とコメントしたが、プロレス評論家である菊池孝氏は入団を就職と表現した鶴田を見て「つくづく、時代は変わったんだな」と思ったという。

 入団した鶴田は早速マシオ駒など所属選手をコーチ役に据え、また馬場自身も自ら指導することもあった。1973年3月に中央大学を卒業した鶴田はファンク・ファミリーがいるデキサス州アマリロへ武者修行へ送り出された。これまでなら巡業に帯同させて下積みを経験させることが慣例だったが、これまで日本プロレスに新人が入ってもしごきやパワハラなどで辞めていくケースを多かったことから、鶴田には下積みを経験させず、いきなりデビューするにあたって身体も出来ていたこともあって、実戦を経験させることで鶴田を育成しようとしていた。

 アマリロに送り込まれた鶴田は10日目でエル・タビア相手にデビューを果たしてサイドスープレックスで勝利を収め、レス・ソントン、サ・ビーストら相手に快進撃を続けたが、デビューして2ヶ月目となった5月20日、ニューメキシコ州アルバカーキでNWA世界ヘビー級王者だったドリー・ファンク・ジュニアの挑戦者に抜擢、鶴田にとって初タイトル挑戦だったが、いきなり世界最高峰のベルトに挑戦となった。
 NWA王者への挑戦を薦めたのはテリーで、馬場の要請でもあった。日本では日本プロレスが崩壊して残党となった選手らを全日本が引き受けることが決定事項となったことから、大木金太郎や上田馬之助が加わると、鶴田は立場がなくなる可能性があり、またドリーも自宅の牧場でトラクターを運転中に転倒事故を起こし、両肩脱臼で長期欠場して復帰してしまい、NWA王者としても長くないとされていたことから、鶴田に箔をつけるために早急にベルトに挑戦させたかったのだ。
 鶴田本人にNWA王座挑戦を知らされたのは会場へ移動する車中で、鶴田は車中で寝るつもりが、驚きと緊張で全く眠れなかったという。試合は1本目は鶴田がダブルアームスープレックスで先取するも、2本目はドリーが必殺技スピニングトーホールドでギブアップを奪いタイスコアとなる。3本目は鶴田も果敢に攻めたが、ドリーが回転エビ固めで3カウントを奪い王座防衛で、鶴田は王座奪取は出来なかったものの、世界王者から1本を奪ったことで鶴田は自信を深め、ドリーも4日後の24日のカンザスでハーリー・レイスに敗れて4年に渡る長期政権に終止符を打った。

 8月9日には後に全日本で対戦することになるスタン・ハンセンと組んでドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンクのザ・ファンクスの保持しているインターナショナルタッグ王座にも初挑戦、インタータッグ王座は日本プロレスが管理していた王座だったが、崩壊寸前にフリッツ・フォン・エリック&キラー・カール・クラップ組が大木金太郎&上田馬之助組を破って王座を奪取しており海外流出していた。日本プロレス崩壊後は大木が保持していたインターヘビーやアジアヘビーを除く王座は封印されたが、インタータッグ王座は海外に流出していたため封印は免れていたことから、それに目をつけた馬場はインタータッグ王座をPWFの管理下にするため、ドリー・ファンク・シニアにベルトを一旦アマリロの管理下に置くことを依頼し、王座はアマリロに渡ってファンクスが王者となっていた。初めての王座挑戦は3本勝負で行われ、1本目は鶴田がドリーからフォールを奪い先取したが、2本目はテリーが鶴田を、3本目はドリーがハンセンからフォールを奪って1-2で敗れたため、王座奪取はならなかった。

 10月に鶴田は凱旋帰国を果たすが、この頃には柔道で金メダリストのアントン・ヘーシンクもプロレスラー転向を果たし、全日本プロレスでデビューすることが決まっていたことから、注目は鶴田よりヘーシンクに集まっていた。鶴田は6日の後楽園大会でムース・モロウスキーと対戦して4種類のスープレックスを披露して勝利を収めて凱旋初戦を勝利で飾り、そして10月9日の蔵前国技館大会でザ・ファンクスの保持するインタータッグ選手権に馬場が新人の鶴田を抜擢して挑戦する。挑戦にあたり旧日本プロレス側から年功序列を優先して元王者の大木を起用すべきだという声もあり、またマスコミからも「たかが半年、150試合のアメリカ修行で一体どれだけ成長出来るというんだ。プロはそんなに甘いものじゃない」と反発があった。しかし馬場は鶴田のパートナーにすることを押し切った。馬場も新人・鶴田を抜擢することで、日本プロレス界の慣例や常識も全て覆したかったのかもしれない。

 1本目はファンクスの同士討ちを誘発させた師弟コンビがテリーに、馬場が32文ドロップキック、鶴田がドロップキックと立て続けに浴びせ、鶴田がジャーマンスープレックスホールドでテリーから3カウントを奪い1本先取。
 2本目も馬場のリードで鶴田がテリーをコブラツイストで捕らえるが、コーナーに鶴田を直撃させたテリーがローリングクレイドルで捕らえ、逃れた鶴田がショルダータックルの連打に出たところで避けたテリーが後方回転エビ固めで3カウントを奪いタイスコアに持ち込む。
 3本目も一進一退の攻防となり、ドリーがバックドロップに対して、馬場はネックブリーカーで応戦するが、テリーがカットに入ったところで60分フルタイムで引き分けとなるも、鶴田は大器の片鱗を見せたことで、周囲も鶴田を認めざる得ず、鶴田も晴れて全日本No.2の地位につくことが出来た。

 鶴田は27日にリングネームをファン公募でジャンボ鶴田に改め、その後も馬場は鶴田だけでなくアマリロに遠征していたカンフー・リー(グレート小鹿)、韓国のパク・ソンとパートナーを変えて挑戦するも王座奪取できず、1975年2月のテキサス州サンアントニオで鶴田とのコンビで3度目の挑戦でやっと王座奪取に成功、インタータッグ王座も全日本マットに定着した。 

 鶴田は1976年8月に全日本プロレスが旧日本プロレスからUNヘビー級王座の管理権を取得することに成功すると、鶴田とジャック・ブリスコの間で王座決定戦が行われ、鶴田はブリスコを破り、初のシングルのタイトルを獲得、名実ともに全日本NO.2となった。

 しかし、その鶴田にも苦悩があった、鶴田は下積みを経験せず、いきなりトップを取ったことで、プロレスとはどういうものか充分にわかりきっておらず、そのたびに鶴田は指導役のマシオ駒から叱責やアドバイスを受けていた。駒は馬場の側近で、全日本での鬼軍曹的な立場におり、鶴田が調子に乗って生意気な態度を取って先輩レスラーから反感を買うような言動をあったときは、キツく叱ったこともあったが、旧日本プロレスから移籍した選手らは鶴田のことをよく思っておらず、また鶴田もマット界における上下関係を知らないこともあって、人付き合いもあまり得意でもなかったことから常に孤独だった。
 駒が死去すると、鶴田にサムソン・クツワダが取り付くようになり、新団体設立を持ちかけた。クツワダは「馬場、猪木の時代はいつまでも続くようなことがあればマット界の将来はない」と考え、馬場と猪木に多額な功労金を渡して強制的に引退させ、鶴田を中心とした新団体設立を目論んでいた。
 クツワダは馬場以外の選手にも声をかけたことで、新団体設立計画が露見し、クツワダは強制引退という形で全日本どころかマット界から追放され、鶴田はお咎めなしとされるも、悪い虫が付かないようにと常に馬場との行動を共にすることになり、馬場の作った全日本の関連会社の役員にも据えられ、他の選手からも距離を取らされるようになった。そのせいか鶴田を慕う後輩はあまりおらず、後から追い上げてきた天龍源一郎を慕う選手が多かったという。

 馬場は後年、和田京平レフェリーに「オレがこの会社を辞める時がきて、次の社長はどうするかって考えると、プロレスのことをいつも考えている天龍だよな」 と自身の後継者は鶴田ではなく天龍に身の後継者と考えていた。理由は「鶴田さんは本当に優等生でした。リング上では、馬場さんの教えをそのまま実践していましたし、技や試合展開についても馬場さんが何も言わなくてもすぐに覚えました。ただ、いい意味で野心がない人で、そういう意味では本当に”サラリーマン”でした。だから鶴田さんは、自分の仕事はきっちりこなすけど、例えば若手選手や社員、後援者とかを引っ張っていくことはなかった。馬場さんは『ジャンボにはそれだけは教えられなかった。もうちょっとプロレスを真剣に考えてほしかった』」と答えていたが、鶴田が社長にならなかった理由はクーデター事件のいきさつもあってマット界の政治的な部分には係ることを避けていたからだった。
 天龍が全日本を去り、鶴田が三沢光晴ら超世代軍の壁と立ちはだかって対戦したが、自分はこの頃になって鶴田が”オレがトップだ”という自覚がやっと出たと思っているし、「ハルク・ホーガンとも対戦したい」や、SWSで悪戦苦闘する天龍にもエールを送るなど、やっとトップとしての自覚が出てきたと見ている。しかしやっとトップとしての覚醒した矢先に病魔に倒れて、一線を退かなければならず、1999年に引退、2000年に死去した。

 1980年代になると猪木の後継者は藤波、馬場の後継者は鶴田と誰もが目されていた。しかし藤波と鶴田は優等生だったことでマット界全体変えようとするまでは考えることなく、後から追いかけてきた長州力や天龍がプロレス界全体を変える存在となっていた。もし、藤波と鶴田が馬場や猪木の期待通りに後継者となっていたら、馬場と猪木の時代はまだまだ続いていたのかもしれない。

(参考資料 ベースボールマガジン社「日本プロレス事件史Nol.20 入団・退団」GスピリッツVol42 「特集ジャンボ鶴田」)

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