ローマ社会における(パンとサーカス)剣闘士をめぐって

第274回 イタリア研究会 2003-02-19

ローマ社会における(パンとサーカス)剣闘士をめぐって

報告者:東大教授 本村 凌ニ


第274回イタリア研究会(2003年2月19日 六本木・国際文化会館)

報告者 本村 凌ニ 東大教授

「ローマ社会における(パンとサーカス)剣闘士をめぐって」


第274回イタリア研究会を始めたいと思います。今日の講師は東京大学教授の本村凌ニ先生です。教養学部の方というか、外交官なんかが育つそうですが、あちらの方の駒場で教授をされてまして、「ローマ人の愛と性」という本を書かれています。実は私、この本途中で投げ出して、あわてて読み直したら、後ろにものすごくごろんとひっくり返るような結論が出てまして、びっくりしました。そういう読み方をだいぶさせたい方がいらっしゃるのではないかと思いながら僕も読ませていただいて、非常に最後になると面白かったという感想を持ちました。それから、大変馬が好きで、「馬の世界」というのをやはり書かれていますので、これもやはり前書きだけ読みますと、ミラノの北側の村でたいへんなサラブレッドの伝説的な馬が育った話から始まってますが、世界史の中の馬の役割という非常に面白いところ、この2つとも非常に面白いテーマというか、普通の感覚ではない書き方がされていると私は個人的に思いまして、非常に後でびっくりしたというのが私の正直な感想です。ということで、本村先生にお願いをしたいと思います。


本村  本村でございます。この研究会に来る2週間程前に、前回お話になられたそうですが、陣内先生とある研究会でお会いしたら、この会は大変怖い会だというふうに言われまして、相当私も覚悟して、つまりイタリアに非常に詳しい、現地に詳しい方がたくさんいらっしゃるから、カルチャーセンターでしゃべるような気分で行ってはだめだというふうに言われたので、少し覚悟してきたのですが、その前にお話になった青柳さん、陣内さん、非常に昔からお付き合いがある方々なので、イタリア通の彼らがそういうふうに言うのだから、非常に大変な会ではないかと思って、少し不安な気もするのですが、ただ、話題が2000年前の話なので、たぶん少しくらいごまかせるのではないかと思ってやるのですが、それはともかくとしまして、私はとりあえず古代ローマ史の専門家といいますか、そういうことになっておりますので、そういう話をお話してみたいというふうに思っております。

その中でも今日話題に取り上げますのは、パンとサーカスという、名前だけは非常に有名なのですが、なぜそういうものが今更、あるいは、今だからこそ話題になるのかということもありますし、専門家の立場から1つの意見として言わせてもらいたいと思うのですが、たまたま僕が、今講談社現代新書の本2冊紹介していただいたのですが、たぶんこれから皆さんと少し接触する機会があるとしたら、週刊ダイアモンドに月に1回連載をしておりまして、歴史の交差点というコラムがありまして、その中で、来週の月曜日に発売のところで書くことになります。今まで、去年の秋からその連載を始めたのですが、それでたまたま、僕はビジネスマンではないですから、本来なら週刊ダイヤモンドなんかあまり見ないのですが、たまたまそういう連載をしているということがあって、毎週、週刊ダイヤモンドが送ってくるのですね。今週号を見ていたら、浅田次郎さんの連載が今週の週刊ダイヤモンドから始まったというので、それは彼がカジノの、あの人はものすごく、僕は個人的に先ほど馬の世界史の紹介がありましたが、僕は浅田さんとは競馬場での知り合いなのですね。その関係があって、少し彼のことは個人的には知っているつもりなのだけど、その時に、今週から世界カジノめぐりみたいなもの、特集といいますか、連載を始めるということがここに書いてありまして、もちろん今カジノというか、遊びの極地みたいなギャンブルの話なわけですから、彼はその中で、おそらく今のご時世にギャンブルの連載なんかを始めるのは非常に気が引けているらしくて、弁解をしているところがあったのですが、それは要するに浅田さんからすれば、週刊ダイヤモンドにしろ、あるいはエコノミストとか東洋経済とか、いろいろな経済雑誌がありますが、こういう10年来の日本の不況を考えれば、それも今こんなどん底のところまで来ているのに、今時遊びの話とか、ギャンブルの話とかをして、しかも連載するなんていうのは顰蹙もいいところだというそしりをまねきかねないということを弁解してあったのですが、その中で彼が言っていたのは、逆に別の考え方をすれば、日本人はあまりにも一生懸命やりすぎたのではないか。一生懸命やりすぎた結果が、今みたいな時代を導いてしまったのではないか。つまり、よく学び、よく遊べとは言うけれど、実際に日本人は、よく学べということはやったかもしれないけど、よく遊びということを本当にやったのだろうかというようなことを、彼はその冒頭で書いておりまして、それは確かに、日本人はよく学び、よく働けということはやったけど、本当はそれよく遊べということをやらなかったのではないか。

今日のお話は、パンとサーカスの社会史というので、少し遊びにかかわる、しかもイタリアも2000年近い前の古代ローマの話になりますので、遊びが持っている世界史的な、あるいは文化史的な意味、文明史的な意味といったものを少し考えるような機会にしていただきたいということと、それから、その中でも特に剣闘士のことを後半では取り上げるのですが、その剣闘士というのは、これはある意味ではちょうど2~3年前にグラディエーターという映画が世界中でとりあげられましたし、実際にアカデミー作品賞をとったわけですから、戦後の映画の中で言えばベンハーにつぐくらい古代ローマが非常にクローズアップされた映画であるわけですが、そういう剣闘士というものが、よく考えてみれば、ローマというのは、最近ではよくアメリカのあり方といろいろなテレビ番組や雑誌などで比較されておりまして、そういう意味でも、いわゆるローマの平和という非常に数百年に渡って平和な時代を続けてきた、大雑把に言えば紀元前2世紀から紀元後の5世紀くらいまで、途中にもちろんいろいろな辺境での国境での小競り合いがあったり、あるいは、ちょっとしたいわゆるゲルマン民族の侵入があったり、それから内乱があったりしますが、全体としてみれば、およそ500年くらいの間、比較的平穏な時代を続けたという意味では、しかも、ある狭い地域が、隔離されていた狭い地域がそれが続くのはいいのですが、ローマのように現在のEUよりももっと大きいくらいの地域が、500年来比較的平穏であったというのは、やはり世界史を考える上で、非常に大きな意味があるのではないかというふうに思います。

それから、皆さんご存知だと思いますが、かつて戦後のオピニオンリーダーといいますか、政治学者として非常に有名だった丸山真男という大先生がいらしたのですが、この方が、僕が学生時代、大学院生のとき、ある対談の中でおっしゃっていたことが、非常に今でも、その時僕は大学院生だったので,もう古代ローマ史を専攻していた博士課程くらいに行っていたときだったと思うのですが、思い出してみると、その対談の中で丸山大先生が、古代ローマ史の中にはほとんど人類が経験することがつまっているということをおっしゃってまして、つまり、先ほどお配りしたレジュメの4枚綴りになってます一番最後のところに、ローマ史の年表が書いてあります。これはもちろんローマ史をどこからどこまで数えるかということであれば、もちろんいろいろな考え方があるのですが、非常に常識的なことで伝説上の紀元前753年というこのときに、ロムルスにより建国がなされたというこの年代から、それから西ローマ皇帝が、これも偶然の一致か、西ローマ皇帝がロムルスというので、よくローマはロムルスからロムルスへというふうなことで言われるのですが、およそこの間には1200年くらいの月日が流れる。つまり非常に部族、部落と言っていいような、あるいは村落と言っていいような小さな集落から、どんどんどんどん勢力を拡大していって、イタリア半島全域の覇者になり、やがてカルタゴを滅ぼして西地中海の覇者になり、それから、東の方に向かって、ギリシャオリエントといったローマ人よりも先進的な文明国を滅ぼし、やがてカエサルの時代になると、また西の奥地の方にガリアとか、それからブリタニアとか、そういうところまでどんどん制覇していくというそういうことをやっていきながら、とにかくこのいわゆるパクスロマーナと呼ばれる時代を現出し、それを数百年続けていくと。広い地域を征服するということは、ある意味で別に、例えばアレクサンダーがどれくらいの地域を領域に治めたかとか、それからローマからすれば千数百年後のモンゴル帝国がどのくらいの地域を、少なくともモンゴル帝国については、絶対的な地理的な空間からすれば、モンゴル帝国のほうがローマ帝国より広いわけですが、モンゴル帝国というのは、せいぜい長く見積もっても3世代しか続いていない。ところが、ローマ帝国は非常に長い間続けておりますし、それからいわゆるビザンチン帝国といいますか、東ローマ帝国の時代まで数えれば、1453年にいわゆる今のイスタンブールがオスマントルコによって征服されるという時代まで数えれば、もう2000年以上を経過しているわけです。

それから、例えばビザンチン帝国などで、いかにそれがある広大な地域を長い間平和な安定した時代として治めたかというと、皆さん例えばドルですね、ダラーというドルが、ドルなのになぜSなのかというふうにお思いだと思いますが、あれはビザンツ帝国の貨幣がソリドスという貨幣を、コンスタンチヌスの時代に創設された金貨なのですが、その金貨が非常に長い間、広大な世界で安定した貨幣力を、貨幣力といいますか、その通用力をもって、そのためにドルというのはソリドスのように広い地域に長い間安定した力を持つということを思いを込めて、そのSにつけているわけで、そういうふうにローマというのは、とにかく狭く数えても1200年くらい、それからビザンチン帝国まで合わせると、2000年以上に渡って、非常に広い地域にわたって安定した支配を続けたという意味では、やはり世界史的にも稀有な存在であるし、丸山大先生がおっしゃったあの小さな部落からやがて都市国家にあり、イタリア半島を制覇し、地中海世界全域を、その時にそこに住んでいた人にとってはもう世界と言えるところはすべて征服して、ローマは永遠であるというふうに思われていながら、やはりそれでも数百年の平和を保って、やはり没落へと向かっていったというその歴史の中には、人類が経験することはほとんど詰まっているというようなことであるし、それから、そういうことがありますから、塩野七生さんのローマ人の物語がやはり広くいろいろな読者層に受け入れられるのではないかという。我々専門のローマ史家から見れば、いろいろな批判がありますが、それはあくまでも専門家から見た批判であって、しかしそれをやはり読者層としては、そういうやはり1つの現代に生きる人間にとって、そこから何か学ぶべきものがあるからこそ、ローマ人の物語が、あるいは塩野さんのローマ人の物語がそれだけ説得力があるものじゃないかというふうに思われるわけですが、その話はまた別にしまして、今日はパンとサーカスの社会史というので、ローマが一番平穏な、いわゆるパクスロマーナの時代に、人呼んでパンとサーカスと呼ばれるほど非常に太平な世の中を築いた、そのことの持っている意味、それからその中でも特に剣闘士興行というものが、世界史の中で唯一ある意味で公認の殺人競技といいますか、よく考えてみれば、もちろんちょっとした臨時のものであるとか、そういうことであるのですが、剣闘士興行というのは、安定した社会の中で非常に長く続けられてきたそういうものとしてあったということの意味を少し考えてみたいというふうに思っております。

まず最初に、人によくパンとサーカスという言葉が平和な時代の、ある意味では堕落した、大衆化した社会の代名詞みたいに使われるので、そのことを振り返りながら、少しイタリアの古代史としてのローマ史の中でどういうふうにいえるのかということを振り返ってみたいと思うのですが、そもそもパンとサーカスと言う言葉はどこから来たかと言いますと、これはローマの紀元1世紀から2世紀はじめにかけての詩人でユウェナリスという人がおりまして、この人のサトゥライという風刺詩の中にこういう言葉があるのですが、ローマ人はかつては非常に軍事とか政治とか国家とかいうことに対して、非常に気を使っていたのに、なぜ最近といいますか、平和な時代が来たときに、パンとサーカスだけしか興味がなくなってしまった。もうみんないわゆる萎縮してというようなことを言っていますけれど、萎縮して、パーネムエスキリケンセスという言葉を使っているわけです。このラテン語からいわゆる有名なパンとサーカスという言葉が来ているのですが、この言葉が近代になって、非常にこの太平の世の中、平和な時代になると民衆が堕落してしまうのだということの代名詞みたいによく使われるようになって、現代でも、バブル経済の平和なときも使われるし、バブルが崩壊して、非常に危機的な時代になっても、日本人はそれを自覚しないというので、やはりパンとサーカスみたいなのを使われたりして、そういう代名詞として使われるのですが、そのことを少し果たしてそうなのかと。本当にただ民衆が堕落したというふうに考えていいのかということを考えていきますと、そもそもローマ人の社会の中に、これは現代でも残っていると思うのですが、地中海世界全体について言えることは、非常に保護庇護関係といいますか、平たく言いますと、保護庇護関係というのは親分子分関係が非常に強いというような印象をしばしば、学者も指摘しますし、いろいろな人が指摘しているわけで、例えば、有名なゴッドファーザーなんかで代表されるマフィアというのがよくイタリア、特にシチリアで盛んに言われてますが、それは別に特殊なマフィアではなくて、イタリア社会、あるいはもっと広ければ地中海沿岸地域にそういうところが非常に強い傾向があるのではないか。僕は現代においてもいろいろな例を聞いてますし、それからイタリアを旅行してましても、やはりそういうことを非常に感じるところがあるのではないかと思うのですね。例えば、僕も10年位前に、ニースからちょうどローマか何かに行く列車に乗っているときでしたが、やはり今は女性が強くなったと言っても、例えば荷物を降ろすときに、最近はもしかしたら違うのかもしれないけど、男性が悠然と構えていて、女性が一生懸命になって荷物を降ろしていても、男性は平気な顔でいるというのが、なにかイタリア人というのはまだそういう男性女性の考え方が、10年前ですから違うかもしれませんが、ところがこれがドイツやイギリスなんかへ行くと全然違いまして、いわゆるアングロサクソン、ゲルマン系の国へ行くと、やはり男尊女卑ではない、レディファーストと言いますか、女性を重んじる、女性がちょっと重いものを持つと必ず持ってあげるとか、そういうことの気風が非常に早くから出来上がっている。別に男女関係でなくて、いろいろな私が知っている友人でも、フィレンツェの話なのですが、フィレンツェへ行って銀行口座を作ろうとしてもなかなかできないと。あるときパーティでちょうど銀行の幹部と知り合ったので、そのことを愚痴をこぼしたら、翌日には作ってくれたというような話を聞いたのですが、それくらい非常にそういう個人的なコネクションが今でも強い社会だというふうに言われている。それはおそらくどこまでそういうことをさかのぼるかといったらきりがないのですが、よく言われるのが、本当に古代からそういう傾向が非常に、地中海沿岸地域には強いと言われておりまして、それがラテン語で言えばパテロキニュームクリエンテーラと言いますが、これは保護者パトローヌスですね。いわゆるパトロンと、それから、庇護民、保護される側のクリエンテ、これはクライアントという言葉に英語だったらなるのですが、そういう保護者と庇護者の関係が、古代ローマの時代から非常に濃厚に出ている。つまり、非常にいわゆる信頼関係を結びつきとした親分と子分の身分関係というものが、非常に地中海沿岸地域では強い。これなぜ強いのかと言ったら、本当にきりがないくらいなぜそうなったのかとか、じゃあ他のところでは本当にそう強くないのだろうか。これは今文化人類学の中で非常にテーマにされています。一概に強いと言われているけど、本当に強いのだろうか。そういう資料が、古代ローマ史は、まだ他のところに比べればそういうものが残っているから、強いと言われているわけで、親分子分関係なんていうのは、今現代日本だってそれはあるわけでして、もちろん制度的には部長と平社員が一緒に例えば飲みに行ったときに、部長が割り勘だとやはりなんとなくさまにならない、本来なら全部おごってやるとか、それができないなら、半分ぐらい出すとか、そういうことをしないとなんとなく格好がつかないということは、どんな社会でも実際にはあるわけです。私だって学生と飲みに行くときに、学生と割り勘にはできないという、そういうことがどんな社会にでも言えるのではないかと思うのですね。

そういう社会生活の全般において、この恩義を施す側と、それに対して奉仕する側がいて、これは本当に具体的な例を話すときりがないくらいいろいろな例があるのですが、非常にもともとは血族関係にあった、本当に親分子分関係なんていうのも、元をさかのぼっていくと、どうも血族関係に、広い意味での親族とか血族関係にあって、それが例えば1世代2世代たどっていくと、どこかの、たぶん年配の方は今でも例えば田舎、今から50年前とか、あるいは60年前を振り返ってみると、どこかに本家があって、本家の人が非常に羽振りがいいから、他の分家の面倒を見るとか、そういうことはどんな社会でもあっただろうというふうに考えられるわけです。

それは別に現代日本、現代というか近代日本、それから他の地域でもあるし、ローマでもあった。ところがローマの社会の場合は、なぜそれが非常にクローズアップされるのかというと、そういった血族や親族を離れても、非常に自由な関係としてもっと離れた関係でも、そういう保護庇護関係、あるいは、親分子分関係というものが、いわゆる氏族制が崩壊しても、ローマの場合、広く言えば古代地中海沿岸地域、これ内陸部に入っていくとまた少し違ったことが起るのですが、特に沿岸地域ではそういうことが非常に傾向として強いというふうに言われているのですが、そのことを考えて、つまり、保護庇護関係というのは、非常に氏族制、血縁関係というものが非常に結びつきがなくなっていって、そこに書いたレジュメでは、血族関係による社会集団がある程度解体してしまう、そういう結びつきが非常に弱くなってくる。それでも、広い地域に渡る中央集権化がなかなかできない、そういう環境があるときに発生しやすい。つまり、中央集権化ができてしまえば、非常に全体を管理するシステムができるのですが、それにはそこまで至らない。そういう非常に中途半端なところでこの保護庇護関係が生まれるということが、これは非常に抽象的な、理論的な考え方ですが、言えるわけです。

その時に、地中海沿岸地域の立地条件を考えていきますと、そのことが非常にそういうことを生み出しやすい環境というものがそこにある。というのは、もう皆さんご存知だと思いますが、イタリアよりもさらに、例えばギリシャなんかに行けばもっとそういう傾向が強いわけですが、非常になだらかな平野部なんかなかなかない。山があり、丘があり、それから谷間があって、盆地があって、だいたいそこに人間の集落ができる。あるいは、丘があって、その丘の上に集落ができるといった、だいたいそういうのがギリシャにしろ、イタリアにしろ、そういう自然環境にある。そういうところでは、せいぜい山の頂上にしろ、それから盆地にしろ、都市というくらいの規模でしか社会集落、人間の集落が成立しない。それ以上なかなか発展していかない。例えばローマについても、ローマは7つの丘と言いますが、ローマの場合は最初は7つの丘の天辺部の方に集落ができるというふうに言われているわけです。

ここに持ってきたのですが、マグネットがうまくいかないのではれないのですが、これはだいたい紀元4世紀くらいのローマを1つのコンピュータグラフィックみたいな感じでモデル化したものですが、ちょっとお見せしますが、こういうふうに、いわゆるパンピドリエの丘です。それからこれがパラティーノの丘です。それで、皆さんに覚えておいて欲しいのは、この辺に池があります。この辺は後になるとコロッセオができた。こういうふうに非常に早い時代には、丘の上に集落ができていて、だんだん排水ができるようになって、それがだんだんうまくいくようになって、下まで集落が広がっていって、いわゆる古代ローマができたことになるわけです。

ちなみに、分かりやすいので今すぐ見せておきますと、これは観光写真なので、皆さんもご覧になった方が。これはムッソリーニが紀元4世紀のローマを再現させたその都市の、このローマが紀元前4世紀くらいですが、このローマが1年後にはこういうふうになってしまうという。いかに最初は丘の頂上に、そういうふうに非常に狭い立地条件からして、非常に丘の上、あるいは盆地といった、アテネなんかは逆に盆地に集落ができるということで、都市的な規模でしか集落が成立しない。その面で非常に小さな規模で集落が成立しますから、政治的な自立というものに対しての意識が非常に強い。小さな集落で強い。それから、他から直接は攻撃されないというそういうメリットもあるわけで、そういう意味での都市の政治権力が非常に形成されやすいという面で、今度は逆に広い平野部がない、それから穀物をいかにして獲得するかということすらおぼつかないということで、これはギリシャ史やローマ史を勉強された方は、意外と見落としがちですが、実はああいう都市国家というのは、いろいろな民主制とか、多党制とかいうことをめぐって、権力闘争を繰り返しているように見えますが、一番肝心なことは、彼らがいかにして穀物を安定して、政治家たちが自分たちの人脈の中で、いかに他の地域から安定して穀物を供給させるかということができた人が為政者になっているということなのです。そのくらい、この経済的自立というものが非常に弱い、そういう自然環境の中にあって、つまり外部地域に対して,生活財を依存し、そこから確保しなければいけないという、そういう政治的には非常にまとまりやすい環境にあるのだけど、経済的な自立性は低いというのが、ギリシャ、ローマについて言えることではないかと思います。

そういう中にあって、やはり非常に先ほど言いましたように、血縁関係的なものはだんだん失われていくけれども、中央集権化が狭い地域でしか集落化ができないというその2つの特徴の中で、結局その保護庇護関係というものが、親分子分関係というのが、非常に他の地域に優れて強くなっていくと。

そういう環境の中で、おそらくこのパンとサーカスというものも成立したのではないかというふうに考えられるわけですが、それはどういうことかということがレジュメの中の4から5にかけて書いてあるのですが、最近はそのパンとサーカスを、フランス語でエベルジェデジズムという言葉でしばしば言われております。このエベルジェディズムというのは、エベルゲテスというのは、ギリシャ語で保護者とか、それから守護者ということ、それから、エベルゲテインというのは保護するとか、守ってあげるとか、そういう内容を表す、そこからきているのですが、そういう何か自分たちよりも弱いものに対して、それをほごするということが何かそこには潜んでいるのではないか。つまり問題意識としては、太平の世の中の民衆の堕落といったそういう見方をする、もちろんそういう面もありますよ。それは全然ないというわけではなくて。だけど、もっと地中海沿岸地域、イタリア半島なり、ギリシャなりに見られる、それが特にイタリア半島には強くなってくるわけですが、そういうものの中で、パンとサーカスというものが、非常に特徴あるものとして取り上げられるようになったのではないか。

パンとサーカスと一口に言いますが、パンというのは、これはもちろんいわゆるパンではなくて、穀物のことを表しているわけで、小麦によってパンが作られるという琴で象徴的に表しているわけですが、これはギリシャというのは紀元前の5世紀とか4世紀に最盛期になるわけですが、それ以後、アレキサンダー大王以後、紀元前の4世紀から紀元前の1世紀くらいの時代を、ヘレニズム時代というふうに呼びます。ヘレニズムというのは、これはギリシャ人は自分たちのことをヘレネス、それからギリシャ本土のことをヘラスというふうに呼んだので、それに由来して、ギリシャ的な文化が広い地域に浸透したというので、ヘレニズム時代と呼ぶわけですが、このヘレネスの文化が広く浸透していった中で、やはりある程度お金持ち、あるいは都市の王様なり富裕階層というのは、常に民衆に対してある程度穀物の援助をするということが、別にローマに限らず、例えば、ギリシャのサモス島の碑文の中にも、もうすでに紀元前3世紀くらいから、穀物を安く供給する、場合によっては無料で施すといったことが行われているのですね。それくらいどうもこの地域には先ほど言いましたように経済的自立性が低いものだから、やはりもてるものが何か援助してやるという傾向がもともとあったみたいで、それが特にヘレニズム時代に出てくるのです。

それが、ローマにそういう慣習が受け継がれていったのかというよりも、おそらくどこが始めたとかそういうことではなくて、おそらくアレクサンダーが出てくるような紀元前4世紀くらいの時代に、貧富の差というか、そういうものの格差が大きくなる中で、持てる人が持てない人に対してどういうふうにしたらいいかというシステムが、共通して出来上がってきたのではないかと思うのですが、そういう中で、ローマも、特に紀元前2世紀のグラックス兄弟の改革と呼ばれる時代に、穀物がある程度やすく供給するようなシステムができます。それがだんだん過激化していって、やがて無料で穀物をローマの市民に対して供給するという、それが制度化されてきます。だんだん制度化されるというのは、常設の役人が登場してきて、それでそれを年に何回かは、あるいは年に一定量のものを民衆のためにやる。これはテッセラという穀物給付のためのカードみたいなものをみんなに配るわけですが、だんだんこれが1人例えば10枚配るとなると、お金を持ってない人はそれをかたに借金するとか、そういうことも実際に行われていたようですが。

システムとしてはいろいろなその時代に応じて工夫がされていくわけですが、1つはいわば食料としての穀物の供給、もう1つはそのパーナメントキュリケンセスのサーカスというふうに訳されるところです。サーカスというと我々はいわゆる曲芸的なものを思い出しますが、これはラテン語でパーネンメスキリケンセスという、キリクスという言葉です。これは例えば英語ですと、サカムスタンスという言葉に残っています。キリクスというのは、もともとは戦車競争のコースのことですね。楕円形のコースのことをキリクスというふうに呼んで、周囲のとか周りのとかいう意味で、サカムスタンスなんていう言葉、環境とか、そういう言葉が生まれてくるわけですが、そういう戦車競争に代表される円形競走場ですね。それから、剣闘士興行、演劇や黙劇といったそういうものの劇場といったものがたくさん作られた。

そしてそれがいわゆる見世物、娯楽として、お祭の最中に提供される。だいたい農作業や軍人にかかわるお祭がローマで行われて、一番マルクスアウレリウス紀元後の180年くらいの時代を想定していただければいいのですが、その時代には、135日が祝日だった。3分の1が祝日なのですね。でも考えてみれば、今の日本だってだいたい土日が休み担ってますから、そんなにかわりは、100日くらいは休みになっているわけです。ローマ人の場合は、一番祝日が多くなったときにはそれくらいあって、その中でいろいろな見世物興行、娯楽が行われたわけです。

で、それを、パンとサーカスというものが一体どういう意味があるのだろうかというふうに考えたときに、今までは公職候補者が、公職候補者というのはコンスルとか、プラエトールとかですね。それからクワエストールとか、アエリーリス。クワエストールというのは財務官というふうに訳されます。アエリーリスというのはジョウエイカンというふうに訳されます。

これはローマの役職であって、地方都市に行きますと、例えばポンペイなんかでは、コンスルに当たるのがドゥオビーリ。ドゥオビーリというのは二人委員というふうに訳されますが、これはローマにならって、ローマは先ほどの配りました年表で行きますと、紀元前の509年に共和制国家を成立させたということで、これはそれまで、皆さんご存知のように、ローマは一番最初の時代は、7代の王様の時代が続いて、このレックスと呼ばれる王様たちが君臨して、独裁者が君臨したので、独裁者を追放して、特にエトルリア系の独裁者を追放して、それで、ローマ人の国家を作るわけです。このときに彼らが作ったのが、レスプブリカという王様の国家でしたので、王様を追放した国家でしたので、彼らはそれを、要するにレスプブリカというのはラテン語でそのまま訳せば、公のことという意味です。レスというのは事とか物という意味ですね。プブリカはパブリックということです。レスプブリカが今縮まってレパブリックとかというふうに言われて、ブッシュ大統領がいる共和党というのは、レパブリカンというのはもともとローマ人が自分たちの国家のことを、彼らにとっては、ローマ人にとってはもう独裁者、王が存在するものは国家ではないのだ、国家というのは公のその存在というのはレスプブリカしかありえないのだというので、ローマ人はそれをレスプブリカと呼んで、それが今からすればいわゆる共和政体であった。つまり、お金持ち、貴族たちが集団的な主導体制を持つ、そういうのが国家として一番ふさわしいあり方なのだというので、そのレスプブリカを作ったのが、紀元前の509年だと言われているわけですが、その国家を作ったときにコンスル、1人の支配者にはしない、王、独裁者を廃したコンスル2人によって、このシステムはイタリアだけではなくて、ローマ人が支配した各地方都市でもかなり踏襲されていくのですね。そのためにドゥオビーリという人がだいたい都市の二人委員ですから二人で行政に当たる、そういうシステムができあがっていくわけです。それに代表されるような公職候補者が、彼らの選挙での票を集めるために、そういうパンとサーカス、穀物を無料、あるいは安く供給したり、剣闘士興行、演劇、黙劇といったものを提供したりしたのだというふうによく言われるわけです。だから、非常に人の心を、民衆の心をつかむために、人気取り政策として行われた。その事によって、民衆がもう政治そのものに関心を持たなくて、自分たちに、日本で言えば、今ふうに言えば公共投資をしてくれて、かつての田中角栄のような人というのが一番いい政治家で、優れた政治家であるといった、そういう施しものをやってくれる人たちがいいのだという、そのことによって政治家をすべてそれで判断するようになってくる。つまり、そこでは政治の腐敗が起こったのだということで、パンとサーカスがそういう大きな流れの中で考えられてきたということが今まで言われてきたのですが、しかし、イタリアの社会や、あるいは広く言えば地中海沿岸地域の社会を見て行くと、単にそういうことで言えるのだろうかということが、最近というか、ここ20年くらい前から言われるようになりました。それは先ほどから言いましたエベルジェティズムという言葉で言われるように、エベルゲテウスという守護者、保護者というギリシャ語の使い方から考えて、恩恵を施してあげる、その事が非常に大きな意味を持つのです。我々が近代において思っているよりも、もっと大きな意味を持っている。それで単に選挙で選ばれるとかそういうことではなくて、為政者であるということは、民衆の幸福を目的としているということを常に明示してあげなくてはいけない。それは今風に言いますと、社会資本というものを充実するということになるのですが、このテーマはものすごく大きなテーマでして、実は日本が1980年代のバブル経済の時に、お金を一体どこに使ったのだろうかということがよく言われます。日本は繁栄した時代が短かったからそれに失敗したのかもしれませんが、実はあのときには社会資本がものすごく充実していたわけですね。あのお金をもっと、あのときはおそらくもっと繁栄した時代が続くから、その時にはその時でそれなりの投資をすればいいのだろうと思っていたのかもしれませんが、例えば実は文化とか学術とかそういうことに関して、僕は毎年夏はイタリアよりも、気候がいいということもあってイギリスにだいたい2ヶ月くらい行くことが多いのですが、その途中にちょっとイタリアへ行ったり、イタリアは割りと春の3月くらいに行くことが多いので、イギリスにはそんなわけでここ20年くらい毎年2ヶ月くらい行っていますから、通算すれば4年くらい行ったことになるのですが、その中でイギリスという社会を考えると、イギリスは日本の人口の半分くらいしかない。国民総生産とか、経済力といったって、日本よりもそんなに強いとは言えないのに、なぜあれだけ、例えば世界の国際政治の中で、あるいはいろいろな文化学術の中、例えばケンブリッジ大学は今でもノーベル賞を出した数では一番多いというふうに言われているわけですが、それがなぜできるのかというのは、やはりビクトリア王朝期とか、20世紀初めくらい、いわゆる大英帝国と言われた時代に、彼らはやはり相当なものを社会資本として投資している。つまりお金を儲かった人たちが、単に自分の金儲けのために投資するのではなくて、やはりもう少し文化とか、それは例えば今ローマにはエコールフランセロームとか、ブリティッシュスクールとか、アメリカンアカデミーとか、たくさんローマの町にはそういったイタリア以外のところが研究所のシステムを持っています。これは19世紀、もちろんイギリスやフランスが最初に始めているのですが、そういう自分たちの文化の源泉を探っていくのには、そのやはり地域にきちんとした研究所を持たなくては駄目なのだというのが。ところが日本はないのです。いまだにないです。文部省が多分ちょっとしたところで何とかセンターを作るけども、1人くらいの事務職員がいて、たいしたことはやっていない。また、たいしたことをやっていないからたいした成果が上がらない、だから、ある程度時期が過ぎるとすぐに引き上げてしまう。ところが、イギリスやフランスやドイツと言うのは、そういうところに長い間、もちろん彼らは文化の源泉でもあると言うこともありますから、そういうところに1つの拠点を設けて、それももう百何十年続けている。そうすると、そこで獲得される情報量とか、それから、そこにイギリス人が実際に来て、ローマにこういう拠点を持っているのだと言うことで、いろいろな情報の交換、それから情報の信頼度とか、そういうことにもかかわってくるわけです。ところが日本は、いまだに多分総務省のお役人は、そういうことが全然意味がわからないだろうし、たぶん我々がいくら言っても、説明しても、そこのところはわかってもらえない。もちろんそういう公的なところがリーダーシップをとるということも大事ですが、それ以前に、イギリスなんかだと、社会資本としてあったものがそういうところにたくさん投資されていて、むしろ最初はプライベートに出来上がったものが、だんだん公的なところが吸収していくと言う形で成り立っていることが多いのではないかと思います。それくらい、いわばそういう社会資本というものが、儲かった人が単に自分のおもしろおかしく楽しく過ごすことではなくて、福祉、それから文化投資と言うものを、再分配的なもので行うということが、もうシステムとして出来上がっていくということをたどっていくと、どうもローマの時代までさかのぼっていく。

たとえば、神殿とか、道路とか、公共建築物だって、相当な分が国家が投資しているのではないです。国家なんてそんなに予算、おそらくこれはローマに限りませんけども、フランス革命以前のアンシャンレジームの時代、つまり1800年くらい、大雑把に言えば1800年くらいより以前の国家なんていうのは、ほとんど国家予算の大半は軍事費が占めている。後は官僚を雇うお金とかやっていけば、そんなにいろいろな公共投資を行うようなお金はほとんどない。それは結局金持ちたちがそういうところに投資すると言う形で行われるわけですが、それが社会資本、大きく言って社会資本と言っていい。

そのことによって、皇帝といえども結局個人として、権力者として自分が持っているものを投資する。元老院議員だってそうです。それからポンペイと言う町の有力者がそれを投資すると言う形で、さまざまなパンとサーカス、広い意味でパンとサーカスと言うのは、だから単に穀物の供給や見世物だけではなくて、公共投資も全部行うと言う意味で考えれば、それは恩恵を施すことによって、彼らの政治と言うものの、自分たちが為政者であると言うことは、これだけ立派なことをしてあげるのだからということで、民衆が、彼らが持っている権威と言うもの、単に権力ではなくて、やはりラテン語で言えばアークトリタスというふうに言いますが、オーソリティというものを認識すると言うことが行われる、その舞台としていわゆるパンとサーカス、特にサーカスと言うのが大事なわけです。

というのは、穀物を供給するのはみんなが集まってません。ところが、サーカスの舞台では、戦車競争にしろ、それから剣闘士にしろ、みんなが集まってくるわけです。そこで、富裕者なり、元老院議員、それから皇帝なりがそこにやってきて、私がこれをみんなに提供するよという、そういうパフォーマンスをやる場所があるわけです。そこで民衆は、我々例えば今は、20世紀と言うのはある意味で異常な時代で、ジョージ・ブッシュにしろ、サダム・フセインにしろ、会ったことのない人間を、顔でも何でも、例えばここら辺の道で彼らがいたってすぐにアージェントファイできるような、そういうところにあるわけですね。それは人類の歴史で考えれば、ものすごい異常なことで、会ったことのない人間が、その場ですぐわかるというのは、ものすごくおかしい話なのですね。つまり、ローマの皇帝だって、多くの民衆はどんな顔をしているのか知らない。知るというのはせいぜいサーカスの舞台に出てきて、遠くからあんな顔だと。それだって近くには見えません。だから彼らが一番知る機会はコインに刻まれた顔なのです。コインに顔が刻まれていてそれで、あるいは街中に建っている彫刻、彫像、そういうもので判断するという。でもかなり理想化されているから、現実の皇帝に会えば、本当にそうなのかなということになるのではないかと思うのですが、そういうふうにして、皇帝なり、権力者、為政者、町の有力者を実際に見る舞台として、そういうパンとサーカス、特にサーカス、戦車競争や、剣闘士興行の場所があったということになるわけです。

その中でも、剣闘士というのは、先ほどから言いましたように、人類の歴史、世界史を考えたときに、非常にエキゾチックと言うか、人と人が大勢の前で殺し合うことが1つの見世物として成り立っていたというのは、なんと言うか、非常にものめずらしいものとしてあるかもしれないけど、よく考えてみると、それがなぜ人類史の中でももっとも長く平和を続けたローマ帝国の中で実現していたのか。つまりパクスロマーナ、500年くらいの平和が続いたローマの中でこそ公認の殺人競技が人類史の中で唯一認められていたと言うことは、なにかやはりその間に偶然ではなくて、もう少し人間の歴史を考える上で何か意味があるのではないかというふうなことが今、私自身の問題意識もそうですし、そういう古代史といいますか、歴史学の中でも、今までは剣闘士興行なんていうのはものめずらしい見世物としか興味がなかったのに、もっと深い意味を考えようという動きの中で起こってきております。

そのことは最後にまた取り上げることにして、とりあえずたくさん剣闘士に関するスライドを用意してきましたので、ここで少し40分くらいの間話して見たいと思います。

1枚目のこれは、現在はナポリの国立博物館にありますヌケリア人の反乱という絵画、これはわかりづらいので模写したやつなのですが、よくものの本によっては、ポンペイの闘技場における剣闘士興行と書いてありますが、よく見ればわかりますように、いろいろなところで戦いが起こっております。これはポンペイと近くにあるヌケリア、現在チェッラといいますが、ここの市民とが、模擬試合で市民同士の、その時は真剣勝負ではなくて、木刀か何かを使って戦うような、それがやって、いわばサッカーの競技なんかで非常にフーリガンが騒いだりするようなことを想定してもらえばいいのですが、そのポンペイ人とヌケリア人が争った、ちょうどそれがエスカレートして市民同士の暴動になったのが、紀元59年に起った事件があるのですが、これがタキトスの年代記の中にこの事件について書かれております。結局この事件が原因で、ポンペイでの剣闘士興行が10年間停止しろという、ちょうど皇帝ネロの時代ですが、そういう指令が出されたと言う、そういうことがタキトスの中に書かれているわけです。

次は、ここの中にちょうどポンペイに落書きがありまして、そのときの事件で、カンパニア人よ、お前たちは勝利したにもかかわらず、ヌケリア人とともに消え去ってしまうのかというのが、これはヌケリア人が処罰の対象にされたのですね。暴動を起こしたと。その時にヌケリアに味方したカンパニア人のことについて、ちょうど落書きが下に書いてあります。この落書きの訳をそこに書いておきましたが、だから、この59年のヌケリア人の反乱というのは、前のここの絵画にも、ポンペイの壁画にも残っているし、次のグラフィティの中にもその痕跡が残っている。それからタキトスの文献資料の中にも残っているという、地方都市の事件としては、いろいろな痕跡を残しているそういうものなのですが、それが剣闘士興行の中で、こういう図柄も入れたものして落書きが残っている。

これは皆さんよく行かれるポンペイの円形闘技場ですが、ポンペイの円形闘技場は2万人くらいを収容することができたので、これはあとでコロッセオのときに言いますが、だいたい外側で見れば150メートルくらい、それから楕円形の長い軸で考えれば150メートルくらいあります。それから、楕円形の狭い方で見れば100メートルくらいが、だいたいポンペイの闘技場の大きさで、2万人を収容した。ポンペイについてはずいぶん乱暴なことがあって、昔、ポンペイというのは人口が2万人くらいだと言われたのは、円形闘技場の収容力が2万人くらいだからそうだと言うふうに推定したらしくて、今はきめ細かく見ると、だいたい1万人くらいだったのではないかと言われています。

なぜ1万人の都市が2万人の円形闘技場を持っていたかというと、周りのところから集まってくるのですね。そのころは本当に楽しみがありませんから、だから、回りから何時間かけてでも、朝早く出て、3時間でも4時間でもかけて、それほど先ほどのノチェエラ、ヌケリアからやってくるとか、ノラからやってくるといった形で集まってくることになっていたわけです。

これは剣闘士の入口のところです。

これはリビキナ門といいまして、西側にだいたいあるのですが、これは東側の方を写してしまったので、反対側の影になっている部分ですが、そこに、ちょうど今人がいるところですね。あそこにこういう門があって、だいたい殺された人の遺体が運ばれていくところです。西側と言うのはつまりだいたい黄泉の国をあらわすということで、西側にだいたい作られていることが多かった。

これは大劇場ですね。テアトログランデと、それから小劇場、テアトロピッコロのすぐ横にある剣闘士の営舎というふうに言われています。ここで剣闘士たちが試合の前に練習していたと言われているところです。

これはそれを近くから撮ったものです。四角い区画の中でおそらく練習していただろうと。

これは、その周りのところが部屋になってまして、2階建てです。だいたい下に2人、2階に2人という形で、個室は作らない。基本的に1部屋に2人が住むような形なのですが、これは再現されてまして、木で作ったテラスみたいなのは、現代になって再現されたものです。普通は剣闘士のこういう営舎というのは、2階でも窓がないと言われていて、本当に暗いところです。でも、ポンペイについては、おそらく内側に窓を作っておけば脱走する危険が、外側に作れば脱走する危険があるわけですが、内側ですから、門さえ閉じておけばそういう危険はないということで、ポンペイの場合には、ある意味例外的にこういうもの、あるいは、他のところでも残っていませんから、だいたいまったく真っ暗なところに作っておくというこの方がむしろ不自然ではないかという気がするのですが、文献的にはよくほとんど真っ暗なところに作られていたというふうに言われています。

これは、近代のまったく闘技場に集う人を描いた絵画です。

これは、ローマのコロッセオです。

これは、コロッセオの内側を見たところで、こういうふうにアレーラがその上にあって、その下に地下があるわけです。地下の構造についてはいろいろわからないことがあって、これもアレーナの地下の部分ですが、地下にはどういうのがあったかという、どうぶつがかなりこういうふうに、これは再現したものです。こういう形で動物が飼われていただろう。例えば、トラとかライオンが飼われていて、それが剣闘士興行というのは、だいたいメインイベントで人間と人間が戦うというのは、剣闘士興行の中では午後のイベントになっています。午前中は、動物と動物、あるいは動物と人間が戦うというのが普通に行われていたのですが、しかし動物というのは獰猛ですからね。それをいろいろなシステムを使って、部屋から一切人間が関与しないでアレーナの舞台まで、例えば、ある窓を自動的に開ける。それから階段が自動的に降りてくるといった、そういうシステムを通じて、ライオンなりトラなりが、他の人間が介在することなく、自動的に上まで上がってくるような、そういうシステムがおそらくできていただろうと言われていて、それを再現したものの1つです。

これは、コロッセウムの平面図で、下のほうは断面図になっています。これはスタンドの断面図を見てますが、ものの本によって、コロッセオは4層になっていたと言われています。もちろんここに、この部分ですね。この部分はちょうど一番貴賓席と言いますか、元老院議員、町の有力者とか、もちろんその中でもさらにいいところには皇帝やコンスルといった人たちが座るわけですが、ここが1つあって、その次にはだんだん階層に応じて、こういうふうに次の階層、それからその次の階層というふうになるのです。よく4層だと言われるのですが、この断層を見れば分かるように、1番上のところですね。これは多分木で作られたそういう、常設ではないけれど、そういうスタンドがあって、非常に込み合う場合には上の方に、いわゆる劇場で言えばバルコニーみたいなものがあったのではないか。だから、コロッセオはよく普通では5万人くらい収容できたと言いますが、ある人に言わせれば、あれは8万人くらい収容できたと。これは1番上の部分を、こういう木造のスタンドとして作っていけば、7万人とか8万人くらいまで収容できるようなものであったわけです。しかし、その高いところからアレーナを見れば、ずいぶん小さくしか見えませんから、その戦いの様子などは、例えば剣闘士の表情とか、そういったところはあまりよく見えないようなものだったわけです。

これは、どういう材質でできているかと。一番下がコンクリートになってますが、石灰岩とか、いろいろな材質の種類があそこに書いてあります。

これは、ポッツォーリというのは、ナポリのすぐ近くの円形競技場で、そこは地下の設備が非常に良くわかります。で、古い時代の、たとえばポンペイというのは、今現在残っている円形競技場の中では一番古いのです。紀元前70年代にできたものが今現在残っていまから、イタリア半島に残っている円形競技場の中では一番古いと言われている。ポッツォーリなどは、その後、紀元後になってできたものです。ところがポンペイは古いところですから、あまり地下設備が、あまりと言うか地下がほとんどありません。ポッツォーリになるとこうやって、先ほどのコロッセオもそうでしたが、観客席、あるいはアレーナの下にこういうものができていて、非常にそれもいろいろな例えば動物、あるいはもしかしたら剣闘士たちを収容するような場所が地下にできていた。

これは、円形競技場が先ほど言いましたように、公認の殺人競技として、ローマの中ではたくさん行われていたと言いますが、いったいどのくらい数があったのかと。これも、イタリア半島だけで、少なくとも80くらいの常設のスタンドがあったのではないかと。地中海地域だけでは、おそらく300とか400くい。これは常設のスタンドだけで。例えば、私が知っている限りでは、イギリスのマンチェスターとかリバプールに近いところにチェスターと言う町がありますが、ここにも円形闘技場が、イギリスと言うのは地中海世界から考えるとはるかに北のところですが、そのイギリスの中でも北のほうに位置するチェスターのような町でも、およそ5000人くらいを収容する円形競技場があったというわけですから、それは発掘されたもの、あるいは、そこに遺跡があるというふうに今現在分かっているもので、200とか300くらいある。もう少しだから常設のものでも多かった可能性があるし、それからこういうものは必ずしも常設がなくてもいいわけです。年にそんなにしょっちゅうできるものではないわけですから、お祭のときですとか、そういうときにみんなが楽しみにして行うわけですから、広場とか、あるいは集会できるようなそういう場所に仮設のスタンドを作ってやるなんていうことは、おそらく他の都市でも、そういう常設のものを持たないような都市でも各地で行われて、それまで考えると1000と言う大台を超えるくらいのものが地中海世界であったのではないかというふうに言われているわけです。

これは、フランスのマルセイユとかモンペリエ、アルルとか、そういったところに近いニームの円形闘技場です。

これは、その闘技場を空中から見たものですが、ニームではないけれども、アルルにもやはり円形競技場が残っています。ニームほど大きくなくて、もう少し小さな規模でしたけれども、そこでたまたま、もう十数年前ですが、夏のときに、アルルの円形闘技場に行ったら、その日はやってなかったのですが、闘牛をどうもやった宣伝のポスターがはってあったのを見ました。ただ、闘牛と言ってもフランスでやるわけですから、実際に牛を殺すのではなくて、牛の角につけたリボンを取るとかそういうものらしいのですが、とにかく今でもそういう形で夏の催し物がそこで実際に行われる形で使われていたわけです。ニームのものなんか非常にまだ保存度がいい形で残っています。

これは、北アフリカのエルジェムというところに残っているのですが、北アフリカと言えば、アルジェリアとか、モロッコとか、チュニジアとかいう、昔のここは地の果てアルジェリアと言う歌がありましたが、そういうところにあるくらいの、それでもこれだけの規模の円形競技場が残っているわけです。

先ほど配った、暗いので見えないと思うのですが、ここにニームとか何かの大きさが書いてあります。エルジェムの場合は、150メートル、125メートル。非常にやはり規模としては比較的大きい。ローマのコロッセオが187メートル、155メートルです。ポンペイが140から105といった、先ほどのものでしたら、ニームが133から101ですね。アルルの方は、僕の印象ではアルルの方が小さいような印象だったのですが、ここで見ると、ニームの方が保存度がいいから、なんとなく大きいようなイメージを持ったのですが、ここで見るとほとんど同じ規模ですね。そういう中でも、エルジェムは北アフリカのものですが、非常に大きな円形競技場を残している。

これはポンペイにヴェスビオ門側に残っている墓碑の中に、22歳で死んだ息子のために母親が製作を依頼して、二人の魚兜闘士というふうに書いてます。これはラテン語では、メルミッロと言います。これは先ほど配った4枚綴りのレジュメの3枚目のところに、剣闘士のいくつかのパターンが載っていますが、後でご覧になってください。魚の兜をした、魚の図柄が兜の一番上の方にあるので、それでムルミッロというギリシャ語からきているのですが、そういうものです。剣闘士の要するにスタイルにはいろいろなものがあったと。後でそれは話します。

これは、イタリアのアドリア海岸のキエティのレリーフで描かれた剣闘士の場面で、紀元前1世紀のものです。要するに、剣闘士のスタイルというのは、盾が非常に小さなもの、それから、盾が大きいものとか、それから、剣が短いもの、長いもの、剣がまっすぐなもの、曲がったものといった、いろいろなスタイルのもので、単に1つのものではなくて、いろいろなスタイルで戦っていると言う特徴があります。

これは、お墓に描かれた浮き彫りなのですが、上のほうに名前が書いてあります。試合の結果を示したものというふうにそこに書いてありますが、それはどういう事かと言いますと、これはおそらく描いた上に、ここにMという数が見えると思いますが、これはミッススという言葉の訳でして、この人と闘った人がいて、ここはよく判読できないのですが、たぶんVという字ではないかと思われるのですが、これはヴィクトリーと同じですね。勝った。つまり、この2人が戦って、こちらが勝って、こちらがミッススというのは許されたという意味です。これは、戦って負けたのだけど、命を奪われなかったというような意味です。

ここのところはちょっと分からないです。これは、ここにもやはりMというミッススの記号がのっているのですが、ここにギリシャ語で言うとテータですね。テータというのはタナトスというのの略。タナトスというのは死という意味です。この人がもしかしたら許されたのだけど、その後また戦って殺されたのか何か、そういう記号で残っているのかもしれません。

これは、剣闘士にはいろいろなスタイルがあると言いましたが、トラキアというのは現在のブルガリアです。実は、スパルタクスの反乱で有名なスパルタクスもトラキア出身だったと言われていて、トラキアの闘士であるアンタイオスという人の墓碑の中に描かれたこの、完全な防御体制になっている、自分を防ぐスタイルをとっているのですね。描いているものです。ルーブル美術館にあります。

これは、ロンドン博物館にあるのですが、紀元3世紀のものです。剣闘士の中にはいろいろなスタイルがあって、これは網闘士。レタリウスと言いますが、網を投げる。そして、一方で、三叉の矛を持ってまして、これは、左手に持っているのが網なのか、ちょっと先の方がわからない。彼は網を持っているから、盾を持っていない。非常に防具が少なくて、例えばヘルメットなんか全然かぶっていない。だから、自分を防ぐと言う意味で果たしかに弱いかもしれないけども、防具をつけてないというのは身軽に動けるという。そういういろいろなスタイルをもうけて戦わせるというのは、そういうそれぞれがハンディを、防具をつけてないから危険だと言っても、それだけ身軽に動けるということもあるし、防具をつけて大きな盾を持っていれば、防ぎやすいけれども、今度は攻撃しづらい、身動きがとれないというところもある。

これは、上の方に文字が出ているのですが、アステロパリオスという非常に重装備をした闘士と、それからドラコンと言う先ほどから出てきていますトラキア、トラキアスタイルとか、サムニュームスタイルとかありますけれども、それはローマがかつて征服したときに、その地域でやっていた武装のスタイルを取り入れている。と言っても、もちろん剣闘士興行になると、ショービジネスですから、だからかなり正確にそれを再現すると言うよりも、非常にショービジネスとしておもしろいようにいろいろ工夫されているのではないかと思いますが、そういうお互いに2人とももうこの時点では、本来ならば盾を持っているはずなのに、盾を持っていない。

これはいろいろな理由があるのですが、もちろん相手の剣によって振り払われると言うこともあるし、それから、長い間重い盾を持っていると、自分のほうもだんだん疲れてくると言うので、場合によってはそれを自分から捨ててしまうと言うこともありうるのです。

これは、アレーラの中にこういった橋といいますか、高い台をもうけて、そこにはしごをかけて、そこに、この図では、レトアリウスという網闘士です。三叉の矛と網を持った人が上の方に立って、それを下の方でセクトールと呼ばれる、追撃闘士と呼ばれるスタイルの人が、それに攻撃しようとしているところです。

これはめったにないのですが、女性同士が戦った例が。これはブリティッシュミュージアムにこういうものが。本当に女性が戦うなんていうのは、よく風刺詩なんかで出てきますが、それほど実際にはなかったのではないか。

これは、今度は彫像、テラコッタで残っている戦闘態勢をとる剣闘士です。

それから、これはモザイクですが、ドイツで出土したそのサムニューム闘士の対戦というのは、サムニューム人と言うのは、ローマがイタリア半島を征服していく過程、つまりポエニ戦争が始まる前です。だから紀元前の4世紀くらいですが、その時期に、中部から南部の方にかけて、サムニーテスと呼ばれる連中がいて、この連中を征服するのにローマは100年くらい費やすくらいてこずっているわけです。で、これらをやっつけたときに、彼らを今度は剣闘士の1つの武装の形で、いわば自分たちの笑いものにすると言いますか、そういうことで、古い時代の剣闘士の興行の中では、サムニューム闘士の戦いと言うのがしばしば。後の時代にはだんだんローマ人も、イタリア半島にサムニューム人がいたというか、もう自分たちの中に同化されてきますから、もうそんなことはだんだん100年たち、200年たつと忘れてきてしまうわけで、だんだんサムニューム闘士というは、そういう名前では呼ばれなくなってきたというふうに言われています。

これは、4世紀のボルゲーゼ公園ですね。ローマのボルゲーゼ公園の中にある美術館。長大なモザイクとして残っているところですが、このアスティーヌスという人物は、やはりここのところにタナトスの記号が残っているということは、死を意味しますから、彼は負けて殺されたのだということがここからわかる。

これは4世紀のもので、全部敗者がほとんど殺されているということが、このモザイクを解明した人が言っているのですね。これは後で出てきますが、ポンペイなんかでは、本当に剣闘士は負けたらどのくらい殺されたのだろうかということが言われているのですが、どうも、ポンペイが79年に埋没しますが、あのころはたいしたことなかった。5組に1組、つまり5組というのは10人が戦って1人くらいが殺されていたのではないかといわれる。ところが、だんだん時代が進んでくると、負けたやつが殺される確立が高くなってきているのが、全体として言えるのではないかと。

これもやはりボルゲーゼ公園ですが、クピロという下にねっころがって、タナトスの死を意味する記号がそこに入って、これもやはり負けた人がこういう風に描かれています。

これは逆に勝った人が、非常に勝ち誇っている様子を描いています。

これは、マドリッドの考古学博物館にスペインで見つけられたモザイクが。同じ4世紀ですから、地域が離れていても、様式なんかは非常に似ている。ただ、いわゆる剣闘士の裸とか、あるいは剣闘士らしいトラキア騎士とか、セクトールとか、ムルミッロといったそういうことをしてないで、ローマの平服を着たそういう連中の剣闘士の試合。これが要するにヘルメットと盾だけつけて、あとは普通のローマ人がやっているような服装で戦っている。

これは、マドリッドの考古学博物館にあるのですが、網闘士クメンディウスというのは、ここにあります。クメンディウスという形で名前が出ています。この人が、こちらに網をかけてしまっているわけです。こちらが網闘士ですが、投げた網がこちらにちょうどうまくかかってしまった。だから、網闘士クメンディウスの網にかかった追撃セクトールのアステュナクス。これは全体ではなく、最後の尻切れとんぼになってますが、こういう名前の断片が見えます。そうすると、網闘士、こちらの方が網にかけていかにも勝ったように見えるわけですね。

ところが、ここを見るとタナトスの、つまり死を意味する記号が載っていると。それはもう1つの図を見るとわかるのですが、どうも網をかけられてしまったけれども、網をかけられたやつががんばっちゃって、網闘士の先ほど言いました長い槍、三叉の槍を、払い落としたか、叩き落して、こういうふうに。網闘士は網と槍を持ってますが、腰に剣をさしています。だから、槍が落とされてしまうと、残されたのは剣しかないわけです。先ほどのセクトールから槍を叩き落されたか何かして、もう自分の短剣で戦うしかない。それでもう形勢不利になってしまって、こうやってしりもちついている図が載っていますが、結局でも最終的に、ここでタナトスの記号がついているということは、彼は殺されたのではないか。Mというミッススではなく、殺されたのではないかということが、この図柄からわかる。要するに、逆転されたというやつですね。

これは実際にトラキア闘士の兜がポンペイの剣闘士の宿舎から出土して、今現在はナポリの考古学博物館に残っています。

これは剣闘士の脛あて。これはポンペイの剣闘士の宿舎からあって、左足の方にはいわゆるポセイドンの絵が描いてあって、それから右足の方にはジュピテール、ジュピターが描かれています。

これは、短剣です。もちろん刃は鉄で、柄は骨でできている。

これは現代そういう残っている資料から、どういう格好をしていたのだろうというのを復元したものですが、先ほどセクトールと言いましたが、これがもう本当に兜を目いっぱいかぶって、小さな穴からのぞいているという。それから非常に大きな盾を持っている。それに対して右側の網闘士は、非常に腰に巻いているだけで、ヘルメットも何もかぶっていないという、だけどそのために盾も持ってませんから身軽であるということが言えるわけです。

これは、ムルミッロと呼ばれる魚兜闘士が左。魚兜闘士は、非常に大きな盾を持っています。だいたいこの盾は6キロから8キロくらいあったと言われています。だから、それを片手に提げているというのは非常に防御にはなるけれど、長い間持っているとつかれきってしまうというので、中にはそれを捨ててしまうということも起ってきている。今、トラキア闘士の方は、盾はそれに比べれば半分くらいの小さなものになっている。

これもやはりムルミッロですが、先ほどの左側と同じように、大きな盾を持っているにもかかわらず、このときは比較的、大きな盾を持っているから防御はしやすいのだけど、それだけに身動きができなくて、網闘士に絡められてしまうということも往々にして起っている。

これは、魚兜といいますか、ムルミッロが左側に、大きな盾を持っています。

それから、重装備闘士という、名前こそ重装備闘士ですが、これは要するに盾は小さいのですが、いろいろ防具を足や手につけているのが特徴です。

これは、剣闘士の中には馬に乗って活躍する人もいて、そういう人たちは少し高貴な服を、裸身ではなくて、それなりの貴人の格好をして出てくるということもあったようです。

これは、先ほどのムルミッロに近いプロボカトールと呼ばれる、ムルミッロの盾よりも少し軽いのですが、とにかくローマはこういうふうに、自分が征服したところの地域の住民の武装形態をそのまま採用するけれど、しかしそれでは面白くないからと言って、ショートして、だからどこまで忠実にかつてのサムニューム闘士やトラキア闘士の格好をしていたかわからない。あとはショービジネスとしてかなり面白いように作り上げていったのではないかというふうに考えられるわけです。

それからこれは、ポンペイの壁画にはいろいろなものが残っていて、これはそういう見世物興行の宣伝の1つです。天幕が、ラテン語でここにベッラという言葉がありますが、このことでつまり地中海は非常に日当たりが強いから、特に夏の期間は天幕を張って影を作っておかないとみんなが集まってくれないというので、天幕が張られますよというこれが1つの宣伝文句になっているらしいです。

これもやはりそういう剣闘士興行の宣伝文句です。特にわかりやすいのは、これなんかそうです。これはカエサル アウグスツスの皇子ネロの終身神官ゼキムス、ルクレチウス、サザノルス、バレンス、20組の剣闘士の戦いと、彼の息子ゼキムス、ルクレチウス、バレンス10組の剣闘士の戦いが4月8日9日10日11日12日、つまり5日間連続してポンペイで開催される。公認の野獣狩りがあり、天幕も張ってあるだろう。そういうものが張ってあったり、公認の野獣狩りというのは、野獣というのはやはり扱うのが難しいから、何らかの公的な認可が必要だったのだろうということと、それからここに注目すべきは、ここに赤で書かれたところです。この赤でかかれたところは、ラテン語ではここに当たります。スクリベリッタエメリウスケレールという、これはアイメリウスケレールという人がポスター描きの職人なのです。自分のことをこの宣伝文句を言いながらちゃっかり宣伝している、私のところにポスターのお願いがあったらまたお願いしてくださいと、自分の宣伝文句まで入れているというので、これはアイメリウスケレールのこういうものが他にもいくつか残っています。

これは、やはりそういう剣闘士興行の宣伝です。

これは、ランプに残った衣装としてトラキア闘士なのですが、なぜこんなものが、もう数限りなく、みなさんもたくさん美術館などでごらんになったと思うのですが、要するに人気がある、我々で言えばプロマイドとか、そういう写真集というような形で、こういうランプなどに人気のある剣闘士の図柄が描かれて、それでみんながそれを盛んに買った。それくらいポピュラーな競技であったということが言えるわけです。

これもやはりそういうものです。

これはグラフィティの中に残っているのですが、これはそこにマルクスアッティリウスが戦って、1回勝利を治めた。それで、1回というのは数の上で本当に1回なのですが、1回戦って1回勝利を治めた。その後にまた勝利を治めた。この人は本当は2回戦っているのです。その後、ルキウスラエティリウスフェリクスが12回戦って12回勝利を治めたのだけど、その最後の上の段は、ビーキッドとかミッススとありますが、後で付け加えているのですね。つまりそれまでは、上の人物は一戦一勝だと。それから下の人物は、12戦12勝だと。それにもかかわらず、2人が戦ったら、上の人が勝ってしまった。ビーキッド、ビクトリー。上の人はミッススですから、負けたけれども許されたというのが、そこに描かれている。あとでビーキッドとかVとかミッススのMというのが落書きの中に、最初は対戦の様子として描かれているのに対して、あとでこういうものが付け加えられている。

これも、そのトラキア闘士のマルクスアッテリウスが勝利を治め、それからヒラルスが14回戦って13回勝って、今回はミッススだったという、負けたけど許された。

これは、トラキア闘士のマルクスアッテリウスが勝利を治めた。図柄がたくさんあります。これ長くなるので説明しませんが、誰と誰が戦って、周りの方にいるのは、剣闘士興行というのは、楽器を演奏しながらやるのです。だから、そういう舞台装置、演出効果が行われていて、そういう中で例えば非常に試合が単調になってくると、周りで音楽をはやし立てて、もっと派手にやれというようなことを書き立てたりすることが行われたようです。

これも、だいたい図柄で倒れている人は、ここにT、倒れてますけどTの記号がありますが、テーリッドという倒れる、失われるという言葉になります。ここはひっくり返っているけどVですね。こちらが勝った。

これは最近非常に話題になった落書きで、何が話題になったかというと、グラフィティの中で、このSCという文字です。なぜこれが話題になったかというと、従来は上の2人の人物が戦っているのですね。それでどうもここで見ると左の人物が盾を落としたので負けたらしい。で、右の人物が勝っているのですが、このSCを従来はスカウルスというふうに訳していました。次は補うわけです、欠けている部分を。その時にスカウルスというのは、剣闘士養成所にスカウルスというのがあるので、スカウルス養成所のアルバーヌスが勝利したというそういうないようだと考えられたのが、SCをスカエバと訳した方がいいのではないか。スカエバというのは左利きのという意味です。サウスポー。これよく見ればわかりますが、右側の剣闘士は剣を持っているのが左手です。これは剣闘士というのは、左利きの剣闘士はものすごく有利なのです。数が少ないのです。左利きの剣闘士はだいたい右利きの剣闘士とやっていますから、自分は別に右利きとやるのは当たり前だと思っているけれども、右利きの連中は、左利きの連中とやるのは非常に数が少ないから非常に不利になってしまう。で、たぶんこれはSCというのは、そういうふうにしてよく剣闘士興行の中では、こういうグラフィティが番組取組み表で彼らをギャンブルの対象にしていたと言われます。そういうふうにした中で、左利きの連中は有利だということを前もって情報として流していたのではないかというふうに言われているわけです。ここにも倒れているこちらが負けたとすぐわかるのです。こんなものがとにかくたくさん残っています。

今度は、ここで墓碑がたくさん残っております。とにかく、ここにあげておきましたのは本当に代表的なもので、剣闘士のこういった数多くの墓碑が残されているということなのですが、これは近代になって描かれたジェロームという人が、剣闘士興行を想像して、こんな様子だったのではないかと。これはムルミッロという先ほどから魚兜の剣闘士が勝った、誇らしげに勝っている様子を描いた場面です。

こういう剣闘士興行がなぜ行われたのかということで、先ほどもう時間もありませんし、最後に2枚目のところをあげておきましたけれども、ローマというのは、やはり長い、紀元前の長い過程の中で、軍人国家として彼らはローマ国家を築き上げてきた。その中で、やはり常にローマの中に、その中にゲキマティオというのを書いておきましたが、これは10という意味です。ローマの軍隊が負けた場合には、例えば敗退して、非常に弱腰になって逃げた場合には、10人に1人が抽選で殺されるという、そういうシステムをローマは作っている。これは別に一番最初に逃げたやつが殺されるのではなくて、勇ましく戦った連中もとにかく無差別にその中に、例えば50人であれば5人が無差別に殺される。だからこそ、集団として、組織として生きていくためには、みんなが戦わなければそういう目にあうぞということを、ローマはそういう軍団のシステムを作っていたらしいのですが、そういうものがやはりパクスロマーナの中で失われていく過程の中で、常に人工の戦場としてのコロッセオを作っていく。そういう中で、自分たちが軍人として、つまり死というものを厭わない。そして、敵に対して残虐であるというそういう精神を常に養うような、そういう場として、剣闘士興行の場があったのではないか。

先ほど触れるのを忘れましたが、実は皆さんご存知のコロッセオというのは、イタリアの円形競技場の中では非常に遅れて、ポンペイが埋没した次の年に完成するのです。だから、非常にポンペイはそれよりも150年位前に常設のスタンドを持っていた。ところが、ローマにはそれから150年後になってやっとできた。これはおかしいじゃないかというふうに思うかもしれませんが、これはやはりローマという町の特質を考えると、つまりそういうものを作ると暴動がおきやすいから、そういうものはよほど安定した時期になって、ネロが亡くなった後に、やっとベスパスヤノスという皇帝が作って、チトゥスという皇帝の時代に完成するということになったわけです。ある日本の有名な作家が、コロッセオの舞台にはじめて行った時に、ここでずっと耳を澄ますと、かつて皇帝ネロの時代にキリスト教徒が迫害されたあの声が聞こえてくるような気がしたというのが書いてありましたが、実はあの時代にはまだコロッセオはできていなかった。よく調べて書かないと、本人は別にうそやでたらめで書いたのではないでしょうが、そういうことにも、ローマだからいつでもあるだろうというわけにはいかなくて、ネロの時代にあそこは先ほど言いましたように池でしかなかったのです。そういうことがコロッセオについてもエピソードとしてあるのです。

いろいろお話したいことがたくさんあったのですが、最後は本当にかいつまんだ話になってしまいましたけど、時間ですので終わりにしたいと思います。


司会  本村先生、ありがとうございました。あまり時間がありませんので、質問をまとめて聞いて、答えていただくという形を取りたいと思います。質問のある肩、お願いします。


本村  殺されたというのは、本当に先ほどありましたように、VとかPとかMとかいう記号、統計なんか残っていませんから、ただそういう断片的なものを残してやっていくと、どうも紀元後の1世紀くらいだったら、せいぜい10人に1人、5組に1人くらい。ところが3世紀とか4世紀には、ボルゲーゼ公園のあのモザイクもそうですし、ソレカラ、ミントルナイというラッティオの、ちょうどカンパニアの境目くらいにある町で、249年の碑文に、訳が残っていますが、このときは11組やって、全部11人殺されたというのが残っています。どうも後になってくると、だんだん悲惨になってきて、なぜ平和な時代が続くとそうなっていくのだろうかと。これは現象としてはわかるのですが、原因というのはまだ、原因というか、そんなことは精神的、心理的な要因ですからわからないけど、現象としてはそういうことがはっきり出ている。それからやはり自由人が増えてきたということは、やはり圧倒的には奴隷なのです。だんだん、例えば貧困になったり、それからどんな時代でもそうですが、剣闘士というのは、ある意味では非常に人気がある。一種の大スターなのです。特に格好のいい剣闘士というのは、非常に女性に人気があって、女性たちがひっきりなしに剣闘士の営舎を訪ねてきて、実際にポンペイの中にも貴婦人と一緒になって死んだ形跡がある。というのは、宝石がたくさん埋もれたところに、人骨の間にあったので、たぶんこれは鎖につながれた剣闘士が逃げられなくて、一緒にそばにいたのだろうというのが。それくらい人気がある人たちですから、自由人の中に、特に貧乏人になったりすれば、ここで一旗上げようという人たちが実際にある程度増えてきたということは現象的に言えるけども、しかしやはりそれが逆転、奴隷がかつては10人いて、自由人が1人だったのに、それが逆転したとか、そういうことではなくて、自由人の数が若干増えてきたというくらいでしかない。


司会  それでは、2次会で質問されたい方はしてもらうという形にお願いしたいと思います。本当に今日はありがとうございました。