次々と「道ならぬ恋」に溺れて逃亡生活を送っていた島崎藤村(写真:近現代PL/アフロ)

 女優の広末涼子とシェフの鳥羽周作氏が「道ならぬ恋」につき進んで話題になっているが、文豪たちのやらかしに比べたら、かわいいものかもしれない。何かとトラブルを巻き起こしては、人生の困難から逃げまくる。そんな文豪たちに注目したのが、偉人研究家の真山知幸氏が上梓した『逃げまくった文豪たち 嫌なことがあったら逃げたらいいよ』(実務教育出版)だ。本書のなかから、とりわけヤバい逃げ方をした島崎藤村について、一部抜粋・再構成して紹介する。(JBpress編集部)

教え子に恋して授業どころではない教師

『逃げまくった文豪たち 嫌なことがあったら逃げたらいいよ』(真山知幸著/実務教育出版)

 島崎藤村の「初恋」という詩を一度は目にしたことがあるだろう。七五調のリズムが心地よく、声に出して読みたくなる名作である。

「まだあげ初そめし前髪の林檎のもとに見えしとき前にさしたる花はな櫛ぐしの花ある君と思いけり」

 初恋の初々しさを表現したこの詩は、佐藤輔子(すけこ)という女性がモデルとされている。しかし、藤村が輔子に思いを伝えることはなかった。

 藤村は学校卒業後に文学を志すが、生計が立てられずに断念。20歳のときに明治女学校高等科英文科の教師となる。輔子は藤村の教え子だった。輔子にはすでに婚約者がいたこともあり、この恋は諦めるほかなかった。

 藤村は16歳のときにキリスト教の洗礼を受けていたが、許されない恋心を抱いた自分を責めて、教会から籍を抜いている。そればかりか教師まで辞職し、関西へあてのない流浪の旅に出てしまう。仕事まで辞めてしまうとは、なかなか豪快である。

 藤村が教壇に立ったのは1年足らずだったというから、いきなり一方的に恋をして、人知れず失恋して、勝手に行方をくらませたことになる。生徒からすれば、何をしにきたんだ、と言いたくもなるだろう。

 半年にわたる放浪の旅でも藤村の傷心が癒えることはなかったが、帰京後は文芸誌『文学界』に参加。詩や小説、評論と多岐にわたる分野で執筆を行っている。翌年には、再び明治女学校で教鞭をとった。

 放浪の旅で心機一転できたのか……と思いきや、衝撃的な知らせが舞い込んでくる。輔子が婚約者と結婚したあとに、病死したというのだ。藤村は計り知れないショックを受ける。

「大地がゆらぐように感じられ、あたりが黄色く見えた」

 授業にも身が入らず、生徒からは「先生はもう燃え殻なのだもの」とまで言われてしまう藤村。明治女学校をまたも辞職している。生家も没落するなど、自殺を考える夜もあったが、人生を投げることはなかった。『春』では、こう綴っている。

「ああ、自分のようなものでも、どうかして生きたい」

 漂流することこそが、藤村にとっては、創造そのものだったのかもしれない。

 苦難の生活から逃れるべく、東北学院の教師として、仙台に赴任。この地で25歳のときに『若菜集』を刊行し、詩人としての地位を確立していく。

(イラスト:高栁浩太郎)