伊藤博文を美人局でハメた「全身刺青」女盗賊の驚くべき遺言「皮膚を剥いで…」

「私の皮を残してくれ」

 そんな遺言をした、全身に刺青を入れた女盗賊が、幕末の大阪を荒らし回っていた。彼女の名前は、雷お新という。

 お新は体の一部などではなく、全身に豪華絢爛な刺青を施していた。背中には溪斎英泉の浮世絵「北条時政」、臀部には竜、股から太腿にかけては岩見重次郎の大蛇退治の図、腹には「水滸伝」に登場する梁山泊の豪傑・九紋龍史進、そして右腕には金太郎、左腕には4人の人物画が描かれていたという。

 嘉永三年(1850年)、土佐藩の武士の家に生まれたお新は、近所で評判の美少女だった。18歳で嫁いだが、すぐに離縁されて家を出て、大阪に流れついたと伝わっている。

 大阪では親類縁者や頼る者がいない彼女は、生きるために万引や恐喝などの悪事に手を染め始めたという。そして、2、3年後には盗賊「雷お新」の名前が大阪中にとどろき始め、多くの子分を従えて「姉御」とまで呼ばれるまでになっていた。

 その彼女が思い立ったのが当時、男性の間では流行していたという、全身に刺青を入れることだった。この刺青が、さらなる悪事の道具となっていく。

 美貌を武器に金持ちを宿に誘い、着物を脱いで刺青を見せて脅すという美人局だ。初代の内閣総理大臣・伊藤博文も被害者だったといわれている。

 だが、いつまでもそんな悪事が続くわけがない。明治七年(1874年)、強盗の罪で逮捕され無期懲役で監獄に入れられる。25歳だったという。

 だが、明治十五年(1882年)に脱獄。翌年、再び逮捕されたものの、のちに赦免されて、東京へ拠点を移したと伝わっている。だが東京でも強盗や恐喝を繰り返し、再び逮捕されたという。

 彼女は40歳になった明治二十三年(1890年)、流行り病でこの世を去った。その遺言は「全身の皮膚をナメシ革にして、私の自慢の刺青を永遠に残してくれ」と、度肝を抜くものだったという。

 実際に遺言のとおり、全身の皮膚は標本として大阪医科大学に保管され、大正時代には警察主催の展覧会などに出展されている。

(道嶋慶)

2023/3/12 17:59

この記事のみんなのコメント

3
  • ばんび 

    3/12 22:27

    怖いわ!(((((゜゜;)

  • トリトン

    3/12 21:54

    伊藤博文がハルビンに行くかどうかで迷ってたとき妾の女の行ってきたらの一言で行くことを決めて暗殺されたからこの妾がこの女だったのかな?

  • グレイス

    3/12 21:27

    「ブラックジャック」に、ヤクザの親分がBJに死んだ後、刺青した皮膚を剥ぐ依頼をした話があったな。傷を一切つけないという条件で。後で親分の息子が傷をつけないなんて不可能だ、少しでも傷が見つかったらただじゃおかないと脅すも一切傷は無かった。BJの卓越した技術に驚嘆したという話。モデルの実話があったのね。

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