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『北斗の拳』強さとは何だ? 愛と哀しみが何になる? ラオウの生と死は問い続ける

北斗四兄弟の長兄にして、圧倒的な拳の力を誇るラオウ、彼が本当に求めた強さは愛と哀しみの先にありました。ラオウの本質や覇王の道を選んだ理由について振り返ります。

拳王を名乗り、荒野に覇を唱えるラオウ

ケンシロウとの最終決戦に臨むラオウ。哀しみを知り「無想転生」を得て、その表情にかつてのギラつきはない。画像は『北斗の拳』第132話「あえて愛を絶つ!の巻」より
ケンシロウとの最終決戦に臨むラオウ。哀しみを知り「無想転生」を得て、その表情にかつてのギラつきはない。画像は『北斗の拳』第132話「あえて愛を絶つ!の巻」より

「拳王」を名乗り、無法の荒野を暴力でまとめ上げようとしたラオウは、北斗四兄弟の長兄にして圧倒的な拳の力量を誇る野心家です。

 本稿執筆にあたり、原作者である武論尊先生へ、初めて読む若い読者に「ラオウ」というキャラクターの注目してほしい点について伺ったところ、「乱世を“暴力”という圧倒的な力による制圧を目論む。短絡的ではあるが、必要悪と信じ、自分の信条のために生きる悲しいまでに一途な生涯」との回答を得ました。

 すなわち彼が求めたものとは、非情で無敵の世紀末覇者になることである一方、それが必要悪であることも自覚しており、そして敢えて必要悪であろうとしていた、というのです。

 ラオウが求めた強さとは、彼の本質とは、どのようなものだったのか、順を追って振り返っていきます。

●世紀末覇者拳王

 恐怖の代名詞として多くの拳法家から恐れられるラオウは、『北斗の拳』における最強のライバルキャラです。初登場時は誰も敵わないほど強大な存在として描かれていました。しかしケンシロウが数々の「強敵(とも)」と戦い、その想いを背負っていくにつれ、ラオウの優位性は揺らぎます。

 そして南斗五車星のエピソードでは、遂にケンシロウとその力量が逆転しました。ユリアを手に入れた後のラオウはケンシロウの強さを脅威に感じ、悪夢にうなされて飛び起きていたほどです。

●愛と哀しみの正体とは?

 ラオウはその強さゆえに哀しみを知らず、自らに芽生えたユリアへの愛を野心と誤解するほどプライドの高い人物ですが、傷ついたトキを背負って片手で崖を登るなど、長兄としての責任感と愛情に満ちた人物でもあります。

 そのようなラオウだからこそ「情は拳を曇らすのみ」「涙をおのれの拳と野望にかえて」暴力に基づく恐怖で乱世の統治を目論見ました。しかしラオウが切り捨てた人の情念こそ、人を強くするものだったのです。それに最初に気づかせてくれたのは弟トキでした。

 武論尊先生は、「ターニングポイントはやはり兄弟愛」といい、物語初期のラオウは「自分の信条に愚直なまでに生きる」のみでしたが、登場人物との関わりを経て、彼もまた変化していく、としています。

フドウの眼差しにケンシロウを幻視し恐怖するラオウ。画像は『北斗の拳』第129話「栄光ある敗者!の巻」より
フドウの眼差しにケンシロウを幻視し恐怖するラオウ。画像は『北斗の拳』第129話「栄光ある敗者!の巻」より

 ラオウは病に侵された身で残り少ない命を削ってまで戦いを挑んでくるトキに涙し、とどめを刺しませんでした。また自分の命を捨ててまで子どもを守ろうとするフドウの気迫にケンシロウの哀しき眼差しを幻視します。

『北斗の拳』では愛や哀しみといった感情について言葉で解説することはしません。それは愛を失って世界への復讐者になってしまった「強敵(とも)」たちや、ケンシロウの生き様などで十分に語られています。

 しかしあえて『北斗の拳』における愛や哀しみを別の言葉で言い換えるとするなら、愛とは「自己犠牲を含む他者への労り(いたわり)や世界への信頼感」であり、哀しみとは「自己限界の自覚と愛に基づく覚悟」のことだと思われます。この感情こそ作中で無法の荒野のメタファーとして描かれた、厳しい世間を生き抜いていくために本当に必要な人間らしさなのです。

【もはやこれまで】ザコをやめるザコ(5枚)

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