梅原 龍三郎(うめはら りゅうざぶろう)

梅原龍三郎『桜島』

著名人との出会い

梅原 龍三郎は1888年(明治21年)3月9日に、京都府京都市下京区で生まれた日本の洋画家です。1914年(大正3年)までは、梅原 良三郎(うめはら りょうざぶろう)と名乗っていました。

京都府立第二中学校(現 京都府立鳥羽高等学校)を中退、伊藤 快彦(いとう よしひこ)が開く画塾の鍾美会を経て、浅井 忠(あさい ちゅう)が主催する聖護院洋画研究所(現 関西美術院)に入りました。
同時期に洋画家である安井 曾太郎(やすい そうたろう)も学んでいました。後に梅原は安井とともに昭和洋画界の双璧をなし、新しい芸術を開拓していくことになります。

1908年に入りますと、梅原は後に美術史家となる田中 喜作(たなか きさく)とともにフランスに留学し、パリに滞在。アカデミー・ジュリアンに通い、翌年にはルノワール(フランスの印象派の画家)の指導を受ける機会を得ました。同年、ルノワールに勧められブルターニュに赴き、同地で斎藤 豊作(さいとう とよさく)、和田 三造(わだ さんぞう)と交友、秋からはアカデミー・ランソンに通いました。1910年、ルノワールやパリの芸術について雑誌『白樺』に寄稿しています。

1911年にピカソの存在を知りますと、梅原はアトリエを訪問します。また、プラド美術館で模写などを行いました。翌年から帰国直前にかけ、梅原は旺盛な制作に取り組みました。

昭和洋画界を担う梅原龍三郎

帰国直前の1913年に、ルノワールの影響を示す初期の代表作『首飾り』が完成。同年梅原良三郎油絵展覽会が、東京千代田区三崎町にて白樺社主催により開催され、梅原は滞欧作110点を出品、画壇に衝撃を与えました。

帰国した翌年の1914年に二科会の設立に関わり、また、新設された巽画会洋画部の審査員もつとめています。この年に梅原は洋画家・亀岡 崇(かめおか たかし)の妹の艶子と結婚しました。

個性に悩まされていた梅原でしたが、1916年に製作した『ナルシス』で独自の画風をつかみました。

その後は、1922年に春陽会の設立に参加するも、数年後には離れます。
1925年には土田麦僊(つちだばくせん)の誘いから国画創作協会に合流し、洋画部の第二部を設置しました。3年後に協会日本画部の第一部が解散することになりますと、洋画部は独立して国画会となりました。

梅原は東京美術学校(現:東京芸術大学)の教授でもあり、後進の育成も務めていました。

1953年に入りますと、梅原は軽井沢にアトリエを設け、1957年には日本芸術院会員を始めにさまざまな役職を辞し、以後は渡欧を繰り返すなど自由な立場から制作に励みました。