アメリカの報道と日本の報道 公平性をどう考える? 音好宏・上智大教授
3月のテレビ朝日「報道ステーション」でのコメンテーターの「暴走」発言問題や、昨年末の総選挙にあたって、政権与党が放送局に、報道内容についての要請文書を送りつけた問題など、政治とメディアの関係が議論される機会が増えているようだ。その際に、政治の側からは、報道の公平、中立を求める声が強く出される傾向にある。
新聞における公平、中立
報道が公平、中立であるというのは、自明なことではない。「中立」とは、一見、聞き心地のよい言葉だか、具体化しようとすると曖昧さがつきまとうのも確かだ。「中立」を標榜することで、言論の多様性を損なうことになってしまったのでは、本末転倒だ。それでは、民主主義に必要不可欠なジャーナリズムの機能を衰えさせることにもつながりかねない。 日本新聞協会が定める「新聞倫理綱領」には、「報道は正確かつ公正でなければならかい」と記述されているが、「中立」をうたってはいない。中立という概念が公正と異なるのは言うまでもない。欧米の新聞ジャーナリズムにおいても、その編集方針に「中立」を掲げているのを見たことがない。 4年に1度行われる米・大統領選挙において、米国の新聞各紙が支持候補を表明すること(Presidential Endorsement)を考え合わせれば、中立という立場をあえて忌避していることが解ろう。
放送メディアにおける公平
他方、放送に関してはどうだろうか。日本の放送法では、その第4条で「政治的に公平であること」が明記されている。 新聞など、活字メディアに接する読者は、見出しを見て、その記事を読み込むという過程をたどることからもわかるように、記事内容には、選択的接触が行われている。他方、放送は、時間のメディアであり、視聴者はどの場面から番組内容に接するかわからない。 加えて、放送事業者は、免許制度の下でサービスを行っている。放送は、有限な資源である電波を使って、不特定多数に番組を提供するわけで、誰もが放送免許を手にいれることができるわけではない。公共性、公益性を担保できる事業者にのみ、放送免許が与えられるわけである。報道に引きつけて言えば、誰もが簡単に報道番組を提供できるわけではないのだ。それゆえに、放送事業者は、多様な意見を提示することが求められるわけである。 放送のメディア特性ゆえに、制度上、「政治的に公平であること」が定められているが、先に活字メディアについて説明したように、公平、中立を強く訴えることで多様な意見の提示や、自由な論争の場を損なうことは忌避しなくてはならない。それゆえに、1つの番組内において、意見の公平性を担保しようとするのではなく、その放送局の放送番組全体のなかでバランスを取るべきというのが、識者の通説である。もちろん、真実ではない事項を放送したり、個人の権利を侵害する放送を行った場合には、訂正、または取り消しの放送をしなければならないことが制度化されている。