マスコミの原点? 江戸庶民が大熱狂した「かわら版」とはどんなもの?
江戸時代後期の印刷技術
しかし、である。残されたかわら版を眺めると、決して劣悪な刷りとは言えないのではないか。そう反論する向きも、おそらくあるはずである。 このことを判断するために、実際のかわら版と、同時代に作られた錦絵(江戸の浮世絵)を見てもらいたい。 上にあるかわら版は、護持院ヶ原で起きた敵討を報じたものである。発行年は1846(弘化3)年。掲載したのは、2枚組のうちの1枚目である。
次の多色刷りの絵は「きたいなめい医難病療治」と題された錦絵で、作者は不世出の絵師・歌川国芳(1797~1861年)だ。こちらは、3枚組のうちの1枚目を掲載した。版行されたのは、1849(嘉永2)年である。よって、2枚は近い時期に作られている。 このように見比べると、クオリティの違いは明らかである。刷り色の数、描線の美しさ、そして、絵自体のレベルまで、どれも両者の間には大きな差がある。国芳の絵を見た後だと、敵討のかわら版は、「これは木版ではなく、粘土版で作ったものではないか」という陰口を叩かれたとしても、不思議ではないように感じられる。 江戸時代、特に後期における日本の木版印刷技術は、驚くほどの高みに達していた。これは、江戸時代の美術愛好家による、主観的な発言ではない。黒船を率いて日本に来航した、かのマシュー・C・ペリー(1794~1858年)提督も、日本の印刷物について次のような感想を記している。 「われわれの手元にある日本美術の別な見本は、いわば一種の絵巻物であり、木版で紙に色刷りしたものである。そこには先に述べた巨大な力士が並んでいる。芸術的見地から見て、この絵が興味をそそる主な点は、色刷りのすばらしさもさることながら――ちなみに、この印刷工程はわが国でも最新の技法である――線がのびのびとして、力強いことである」【宮崎壽子監訳『ペリー提督日本遠征記(下)』(角川ソフィア文庫)、430~431ページ】 これは1854(安政1)年、日本に再来航した際、ペリーが箱舘などを視察した上で書き残したものである。当時の日本の多色刷り技術は、彼の目から見ても、アメリカと同等のレベルに達していたのである。極めて美麗だったほかの印刷物、特に錦絵と比べると、残念ながら、かわら版の刷りは荒かった。これはもう、認める以外にない。 しかし、逆にかわら版の方が優れていた点もある。まずは、記事が作られてから、売られるまでのスピードだ。だから、かわら版が荒々しいことの第一の理由は、作成する時間が短いことにある。そしてかわら版は、1枚当たりの値段が極めて安かった。かわら版が盛り上がる江戸中期以降であれば、1枚当たり4文が相場である。江戸中期の1文は現代では20円程度、後期は10円~15円程度の価値だろう。よって、4文であれば、現代の40~80円相当と思ってよい。2枚組の敵討のかわら版であれば、8文で80~160円ほどである。 腕の良い彫師に木版を依頼したり、見目の麗しさを求めて多色刷りにしてしまったりすると、原価が一気に跳ね上がり、結果的に売値も上昇してしまう。かわら版は、簡素で安価、大量に売って儲けるのが原則なのだ。まさに、「庶民のための情報媒体」だったのである。 それでは、このようなかわら版が誕生したのはいつ頃で、一体いつまで存在していたのだろうか。次回は、そういった「かわら版の歴史」から話を進めたい。 【連載】「かわら版」が伝える 江戸の大スクープ(大阪学院大学 経済学部 准教授 森田健司)