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プリパラ3rdシーズン分析②聖書(福音書)の物語から読み解くジュリィ

福音書のジュリィ

 前回、ジュルルとらぁらの物語が貴種流離譚の亜種であったことを説明しました。

 今回は貴種流離譚という類型からさらに一歩入り込んで新約聖書の福音書をもとに読み解いていきます。

 このプリパラ論考の目的は神話と聖書の構造からプリパラ三期が描こうとしたことをもっと掘り下げることにあります。私は聖書を意識してこの脚本を書いたと思っていますが、「他人の空似」であったとしても(そう読んでいただいても)本質的なところは変わらないので構わないです。

聖書をもとに

①なぜジュリィは消滅する(運命にある)のか?

②なぜジュリィがいなくなるとプリパラが崩壊するのか?

③なぜ復活したジュリィは目に見えないプリチケ配達者になったのか?

④なぜ140話でファルルが現実世界に降臨したのか?

を読み解いていきます。

前回は疑似的な母子関係によってジュリィかららぁらに神性が継承されたことを示しましたが、今回はそこらへんのことは置いておいてください(ややこしくなるので)。


①罪を背負って死ぬ

 ジャニスとの和解がかなったのにジュリィ自身が消滅することになるという展開について、「①なぜジュリィは消滅するのか?」ということを聖書の物語から語っていきます。キーワードはです。
 ジュリィがシステムから消えるのはアイドルを守護する女神でありながらアイドルになってしまったルール違反、によってと説明されましたね。システムから消えるというのは要するに死を意味します。

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 そしてその罪を背負った(アイドルになった)のはジャニスにアイドルと向きあうことの大切さを伝えるためでした。この「アイドル達のためを思って罪を背負い、死ぬ」という構図をちょっと覚えておいてください。

 新約聖書のイエス・キリストは神の子でありながら人の子として産まれた存在で、現在の解釈では(4世紀ごろの後付け設定によって)イエス自身そもそも神、つまり神の別形態であったと考えられています。

 そしてなぜイエスが死んだかというと弟子のユダが裏切ったから……というのは直接要因で、「人間の罪を背負った」というのが真の理由です。これがどういうことかは難しいうえにやや解釈が分かれるので説明しにくいですが、この死(と復活)によってすべての人間と神との間に契約(これを新約と呼びます)が更新され、人間が救われたということになっています。(「ローマの信徒への手紙」などに詳しく書いてあります)

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 16世紀のラファエロによる磔刑図。(天使が水芸みたいに血を拾ってる器がいわゆる聖杯。)
 人間が死んだあと、世界の終わりにすべての人が復活し、そこで裁きのすえに善き人は天国に行き、永遠の命を得られるというのがキリスト教における死生観、浄土観なのですが、それは「キリストが一度全人類の罪のために死んだ」ためにそれが可能になるという筋書きです。
 どういうことかというと、人間は原罪を持っているため基本は死ぬしかないのですが、キリストの死と復活によって一度清算されて、世界が一度終わったあとに永遠の命が約束されるってことです。

ちょっと長くなりましたが、イエスの死は「人々のためを思って罪を背負い、死ぬ」という構図だったわけです。聖書を読むとわかりますが、イエスはユダに裏切られることを知ったうえで無抵抗でそのまま磔まで行ってしまいます。つまりすべては宿命だったわけです。
 ①なぜジュリィが消滅するのか?聖書の構造から言えば、人々の罪を背負った代償だからです。

 「守るべき存在のために罪を負って死ぬ」存在。この時点でもジュリィの存在の描かれかたはイエスとそっくりです。周囲の人間は嘆いているのに当の本人は死を受け入れているという点もつながります。
 「みんなのために英雄が死ぬ」という点で言えば英雄神話の類型の一つですが、という言葉が明確に出された点で、ジュリィの描かれ方はキリスト教的な感じがあります。


②神の死

②なぜジュリィがいなくなるとプリパラ世界が滅ぶのか?
について。139話のジュリィがいなくなってプリパラ全体(どころか現実世界すら)が崩壊しかけるというディザスター映画じみた描写について説明します。

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 ご存知の通り処刑の三日後にイエスは復活したわけですが、それは神の力、愛の象徴です。もしイエスが復活しなかったら神に人々が見放されたことになるわけで世界の終わりが来かねません。

 というのも黙示録や旧約聖書の預言書では神を信じるものが激減したときに世界の終焉が来て、救い主メシア(キリスト教ではイエス・キリストのこと)が現れて神を信じるとされています。プリパラの崩壊はそういった「世界と結びついた神」としてのキリスト教的世界像を想起させます。

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エル・グレコ「第五の封印」(1614年)。黙示録における世界の終焉の一場面。神によって不要とされたこの世はすさまじい災厄に見舞われて終わり、その後に最後の審判が来ます。


 ②なぜジュリィがいなくなるとプリパラが崩壊するのか?聖書の展開をもとに言うならば、「ジュリィ自身が世界だから」と言えます。


③救世主の復活

 ③なぜ復活したジュリィは目に見えないプリチケ配達者になったのか?
 らぁら達の奮闘によって女神ジュリィは復活、プリパラは復旧しますが、ジュリィは元通りの存在ではなくなります。ジュリィ曰く「いろいろあって体質が変わったかも」ということで消えていき、透明なプリチケ配達者として世界に存在するようになります。どういうことだ?

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 これはイエスが復活して天に上げられたことに相当します。復活後の展開は福音書ごとに違いがあるのですが、福音書の続編的なポジションである「使徒言行録(使徒行伝)」によると、イエスは復活してある程度の期間弟子や知り合いの前に現れて、いろいろと伝導に関する指示をした後に、

こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。(新共同訳聖書 使徒言行録1章9節)

という感じで神のもとに行きます。それは死んだのではなく神の世界に行った的なことを意味しています。

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(18世紀のジョン・シングルトン・コプリーによる昇天の絵。アメリカの画家なのでなんか背景がアメリカっぽい。)

 復活後のイエスがどういう存在であるかは後の時代に異端審問に発展するくらいには難しいのですが、「空気のように存在して人々の心によりそう存在になった」という感じでおおむね正しいと思います。つまりジュリィの「大丈夫、いつも一緒だよ(139話最終盤)」というセリフと同じです。

 地上世界をこれまで補佐していた弟子(使徒)に任せ、自分は空気のように世界に恩寵を与えながら、世界の終焉の救済のため待機しているわけです。

 ここまで書けばジュリィの変化もよくわかりますね。プリパラ世界を妹にして弟子であるジャニスに任せ、自分は空気のように世界に恩寵(プリチケ)を与える存在になっているわけです。

 となると消えるときに「また会えるよ」と言ったのはジュリィもまたプリパラ世界の終焉には人間体で復活するってことになりそうですが、そこはよくわからないですね。プリパラ世界は終わらないので……。

④奇跡

 さて復活、昇天後の140話。ファルルがなぜか現実世界にあらわれるという展開でしたが、それについても説明しましょう。

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 復活したイエス・キリストは空気みたいに存在しているだけではなく、実はいろいろできるみたいなのです。

 ということで再出現したイエスの伝説が語られるのが聖書最後の文書「ヨハネの黙示録」ですね。

 ヨハネという謎の著者の前にイエス・キリストが現れて世界の終焉をネタバレしてくれる話なのですが、最初に父なる神ヤハウェと同化したっぽいイエスが現れます。

 この黙示録が書かれた時代は(諸説ありますが)、キリスト教がローマ帝国に認められる前の激しい弾圧の時代に書かれ、その内容も弾圧と結びつけられて考えられています。今は苦しいけど俺たちは報われるってイエスが奇跡で教えてくれたよって文書なわけです。

 後述する様々な民間伝承のなかにもあるように、キリストは、復活後から世界終了までの期間(ここ数千年)もヤバいときには奇跡を起こしてくれる存在であるとされています。

 そういうことが聖書にあるので、カトリック(最大派閥、ローマ教皇の一派)は聖人にまつわる「奇跡」を認定しています。

 がんばってる信仰者にイエス(神)からあたえられた奇跡パワーが宿り、奇跡が起きるという論理です。最近の例だと「2008年、マザーテレサに祈ったおっさんの脳腫瘍が神とマザーテレサの聖なるパワーで治った」として奇跡に認定されています。蛇足でしたかね。

 ジュリィがボーカルドールであるファルルを一定期間現実世界に存在させたというのはまさに「奇跡」であり、姿が見えなくなっても世界に潜在していることの証なわけです。

 とはいえファルルが顕現する必然性は無いので、なぜそういう展開が入るのか?という問いに対しては英雄神話類型で語った方がいいかも。桃太郎が鬼ヶ島から宝を持ち帰ったり、一寸法師が打ち出の小槌を拾ったり、スサノオが雨叢雲剣を得たりする、そういうシメ方だと言う方がストレートな回答かもしれません。

 ちなみにこの「存在しないはずの存在が一定期間現れる」というパターンは聖母出現というカトリックの伝説と似ています。世界中の(キリスト教の多い)都市で、信者(子供なことが多い)の前に聖母が現れて予言をする、という現象が結構認められています。ファティマの預言などは厨二病作品でよく出てくるので聞いたことあるんじゃないでしょうか。


まとめ

 ということでジュリィという存在は生まれから消滅、復活に昇天、奇跡に至るまでキリスト教のイエス・キリストの物語にそっくりなことがご理解いただけたでしょうか。

 前回の内容とまとめてみましょう。

 ジュルルという存在を拾い、「ママ」となることで神聖な存在の血脈がらぁらに流れ込む。そしてジュルルが罪を背負って死ぬことが神の子(貴種)としてのらぁらに試練として現れる。
 らぁら達が努力によってキリスト(救い主)であるジュリィを復活させることでジュリィは救い主として真に神として昇天し、救済を達成した英雄として真中らぁらが神アイドル(=英雄)に認められる、という物語構造でした。


意識して作ったのか、結果的に似たのか


 聖書を意識して作ったのか、それとも結果的に似たのかという疑問について。私は実際に聖書を意識して脚本を作っていると思います。

 物語構造について前回は貴種流離譚をもとに語りましたが、同じような類型に「英雄の旅(Hero's journey)」というものがあり、おそらくこちらで語ることも可能だと思います。これは欧米の神話研究の歴史の中で文学者ジョセフ・キャンベルが体系化したもので、貴種流離譚と被るところが多いのですが、より詳しくパート分けされている特徴があります。これは「スターウォーズ」制作時に大々的にプロット構成に利用され、それ以降いろいろなハリウッド作品に物語の教科書として使われているそうです。

 このメソッドは訳本や大塚英志らによる翻案のうえで日本にも輸入されています。というか私のこの論の元ネタが大塚英志が「キャラクター小説の作り方」等で語っていた「英雄の旅」についての解説です。

 聖書の物語は日本人にとってはなじみ薄いと思いますが、こうした経緯がもあって、プロの脚本家が物語のひな型として新約聖書を参考にするのは全く普通のことだと考えられます。そういう点もふまえてプリパラ3rdシーズンは意識的に福音書の構造にしたのだと思います。というか意識してないとここまで巧く神話の構造持ち込めないのでは?

 翻って考えますと、ジュリィという飛び道具的な存在をうまく地に足ついたキャラにするため、ジャニスがいたと言えます。神による人類愛とか言われてもえ?って感じですが、妹を想う、という明確な形をとることでジュリィ自体を人物として描けていたように思います。

 神話的モチーフを持ってきて長期にわたったシリーズを完結させた脚本術は見事というべきでしょう。もともとは3回の予定でしたが、これで十分だと思ったので締めさせていただきます。

 ジャニスとちりに関しても物語類型から色々言えると思うけど、なかなか難しいんだよな…。

 

 ※今回紹介したキリスト教の説明は主流の解釈から外れてはいないと思いますが、いろいろな解釈があるうちの一つです。サムネはイコン(東方正教の聖像)風ですがなんの知識もない雑な絵です。

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