"ニューヨーク公共図書館"と、日本の公共劇場

少し前から気になっていたドキュメンタリ映画『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス (原題:EX Libris:The New York Public Library)』を先日やっと観ることができた。
http://moviola.jp/nypl/aboutthefilm.html

タイトルのニューヨーク”公共”図書館。ニューヨーク”公立”図書館ではない。
公式サイトに以下のような記載がある。
"名称に「パブリック(public)」と入っているが、独立法人であり、財政的基盤は市の出資と民間の寄付によって成り立っている。ここでいうパブリックとは「公立」という意味ではなく、「公共」(一般公衆に対して開かれた)という意味に当たる。"

publicという言葉の用法を見ると、public footpath(個人所有の農場・放牧地などの一部を、誰でも通っていいオープンにしている歩道。英国などで見られる。)や、public transport(誰もが使える乗り物(運営母体が私企業であっても))というように、「多くの人に開かれているかどうか」がpublic(公共)かどうかの境になっている。

このニューヨーク公共図書館(NYPL)は本館のほか、研究目的の4つの研究図書館と地域に密着した88の分館からなっているそうだ。マンハッタン島に90以上もの図書館があるという・・。
https://www.nypl.org/locations/map

本編を観ていると、いわゆる「図書館」ぽくないことも多く行なっているのがわかる。地域の人びとに「本を貸す場所」というだけの認識でなく、次のような取り組みも行なっている。インターネットアクセス(情報へのアクセス)の保障、リテラシー教育、孤立やホームレス問題に対する「居場所づくり」への取り組みなど。これらに取り組むために地域に密着した分館が数多く存在しているのだ。

更には、ホールで音楽会を行なってみたり、演劇の手話通訳に関するトークが行われていたり、表現芸術作品のライブラリも整備するなど、その範囲は「本」に限ったことではない。
NYPLの目的は「知の収集」、「研究」、「後世に残す」ということもさることながら、それを活用して人びとが「よりよく」生きていく「手助けをする」ということだと感じた。つまり、本や建物やスタッフが主なのではなく、その地域に暮らし、働き、集う「人びと」が主なのだ。

あるシーンではスタッフが利用者の相談にのっていた。
その利用者は自分につながることを調べてるように見えた。おそらく先祖が米国に渡ってきたのだろう。
そうした利用者に「この資料はもう調べてみた?」「船が着いた正確な日がわかれば、入国の公的書類にいろいろな記載があるかもしれない。それがわかれば・・」というように、「調べ方、調べる先」についてのアドバイスをして、「じゃあ調べてみてね」と、おおよそこんなことを言っていた。
このように自発的に人々が何かを「知りたい」「学びたい」と思った時に、「どのように」「どんなことを」調べ、学べば実現できそうかの手助けをするというのはとてもいい方法に思えた。「寄り添い手伝うが、代わりにはやらない」というスタンス。

また、この映画では閲覧室で静かに本を読んでいる人々がずっと映っているわけではない(それでは映画にならないという理由もあるだろうが)。誰かと「対話すること」や、誰かが「近くにいること」も重要な価値となっている。エデュケーションプログラムも非常に多いことも印象的だった。

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僕がこの映画を観ながらずっと頭に浮かんでいたのは、岐阜県可児市にある「アーラ」という公共劇場だ。(https://www.kpac.or.jp)
市民の居場所をつくり、孤立を減らし、それぞれの人がよりよく生きていくために「経験」のチャンスを提供する場所。演劇や音楽はホールで「見聞きする」だけのものというわけではない。

アーラや市内の学校などで1年間に536回(2018年度)行われた「まち元気プロジェクト(https://www.kpac.or.jp/data/report/machigenki2018.pdf)」は、「つながりの貧困」を減らすためのプログラムだとある。プログラムによって対象と目的は異なり、各プログラムに人々が参加し、体験し、対話し、経験し、学んでいく。それは「知識を獲得する」のとは異なるが、「経験する」というスタイルの「学び」である。ちなみに認知心理学者の佐伯胖氏は『「学び」を問いつづけて』という教育分野の書籍の冒頭にこう記している。
“ここでいう「学び」とは、人間の、最も人間らしい営みとしての学びである。むしろ、「よく生きること」とほとんど同義である ——“ (「学び」を問いつづけて、佐伯胖、小学館、2003年)


さて、アーラの考え方はNYPLの「地域の人びとが主」なのと似ていると思う。まち元気プロジェクトでは音楽や演劇、身体表現が「上手にできる」ようになるのが目的ではないはずだ。プログラムに参加し、体験することを通じて、例えば他者と協働し、コミュニティに貢献することを経験し、それによって自己効力感を得たり、非認知能力が向上したりする。そのことで「つながりの貧困」を減らし、より「よく生きる力」につながっていく。社会的に見れば「孤立」という問題に対するアプローチといったところだろう。


NYPLとアーラの活動をざっくりと3つに分けて、構造を比較すると割と似ていると感じている。(とはいえ、分析などで得た結果ではなく、単に映画を観た後の個人的感想だが・・・)

[NYPLで行なっていること]
1.保存できる知(書籍・ディスクなど)を収集、分析、分類、研究すること。それらを講演などのスタイルで、人びとに伝えること。
2.書籍などを貸し出すことで、「知識を獲得する」というスタイルの学習を支援すること。
3.さらにそれらをありとあらゆる形で活用して、地域の人びとが、それぞれよりよく生きるための手助けをすること。

[アーラで行なっていること]
1.映像記録などでしか残らないけれども「身体知」や「他者との協働」に関しての知(音楽や演劇や身体表現)などを分析、研究、制作すること。また、それらを公演という形で公開し、考えるきっかけを人々にギフトすること。
2.舞台制作体験を共有することで、表現の方法を知ることなどで「知識・技術の獲得」というスタイルの学びを、また、他者と協働することなどのプロセスを通じて、「経験を重ねる」というスタイルの学びを支援すること。
3.さらにそれらの表現芸術をありとあらゆる形で活用して、地域の人びとが、それぞれよりよく生きるための手助けをすること。

これもまた個人の考えに過ぎないが、アーラのウェブサイトに載っているプロジェクトを例に挙げると、およそこのような感じになるのではないかと考えている。
1.→「ala collectionシリーズ」など
2.→「市民参加プロジェクト」など
3.→「まち元気プロジェクト」など

さて、NYLPでもアーラでも「いいこと」を行なっているのは感じるが、なぜそれを公共図書館、公共劇場が行なっているか、ということについてはここでは一度に言い切れない。それはまた次の機会に書きたいと思う。


この映画、観きるのに4時間近くかかるが、観終わったあとも相当な時間かけないと消化しきれない・・。

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