#トカラ列島 - 日本国土の土地所有権

皆さんは、吐喝喇(トカラ)列島という名をご存知と思うが、島嶼群を構成する10島を言える人は皆無だと思う。

鹿児島県本土から南へ60kmの屋久島と約 380kmの奄美大島の間に点在する12個の島々(7つの有人島と5つの無人島)からなる列島で、最も大きな島である中之島でも、面積が約35平方キロメートル(周長30km)で人口が158人。7つの有人島の総人口は 684人。

行政上は、トカラ列島のみで鹿児島県鹿児島郡十島村(としまむら)を形成している。村役場は鹿児島市泉町である。

 

 

 


私が、半世紀以上も脳裏から離れない事件がこの近海で発生しているからである。

私はベトナム戦争時代に米軍基地でIBM社員としてコンピュータで戦略を練っていた。

先の投稿でも述べているが、1965年12月5日にブロークン・アロー事件(核の紛失)が発生したのだ。北緯27度35分2秒・東経131度19分3秒である。米空軍の核搭載機パオロットのダグラス・M・ウエブスター中尉の水爆搭載機A-4Eスカイホークが核と共に艦船タイコンデロガから墜ち水没したのである。(当時、ニクソン大統領が核使用を主張していた)

日本では1989年5月24日第114国会・外務委員会で与野党の議題にあがった。国防省は以後約20年完全に隠ぺいした。

ウエブスター中尉の名すら米政府は隠ぺいしたのだ。

以降、この事件に関しての一切の質疑はなく、未だに隠ぺいされたままである。

日本は日米地位協定下の米の植民地である。メディアも一切手を出せないのだ。

故に、私は米軍基地を知ったこの事件が半世紀以上も頭にこびり付いて離れないのである。

折から、台湾問題で中国がどういう戦術で沖縄嘉手納基地を攻略するか?

悪夢から阿鼻驚嘆の正夢に転じるのか・・・。

なお、沈んだ水爆は広島型の約70倍である。ただ南海トラフに連動すれば日本の半分は沈む・・・。これ以上の記述は恐ろしいので控えておこう。

 

私は余命幾ばくである。こうしてここに多少とも書き残しておこう。

 

 

日本国土破滅のリスク



さらに、日本は中国の島は買えないが、中国は日本の島々を買えるのだ。

勿論、日本本土の土地も中国人は購入できる(土地所有権を登記でき、ある中国人は日本は既に中国の一村だと豪語している・・。

日本は専守防衛が我が国の防衛の基本的な方針であると国会で叫んでいるが、日本国土は心臓部から瓦解しているのが現実である。

日本人目線とは??

因みに、日本人は視線を避ける文化があるが、欧米語には”退陣恐怖症“という語はない。

ベトナムの南シナ海の無人島の南沙諸島(スプラトリー)に中国が既に強引に島を埋め立て巨大な飛行場を構築してしまった(プーチン流である)。

空母さえも入港できるのだ。OBORの一環だ。
近隣の国々は戦々恐々中である。
空母とミサイル基地で近隣諸国も手も足も出せなくなった。

 蛇足乍ら、ベトナムではかつてボートピープルが発生し、漁船などで
大挙して海外へ脱出したが、約7割は太平洋の藻屑となっている。
これが日本人ならどうなるであろうか?まず漁船がないから海に飛び込むしかない。

 なお、西沙諸島(パラセル)は1974年に奪取されている。

この(日本の?)トカラ諸島がこの南沙諸島の二の舞を演じるのでは??

現在の日本の現行法規では土地所有権の対抗力が一切無いからだ!
「自由に使用、収益、処分ができる権利」なのだ。
何故、日本国民はこの国土(?)に平然と生存していられるのであろうか?

 一つの国は国土が存在する故に存立している。しかしながら、日本はその国土が世界に解放されている。金次第で土地が誰でも買えるのであるから、単純に日本は“国家”ではないとだ極言できよう。

東南アジアの諸国ですら、すべて借地権であり、所有権は外国人には与えないのが常識だ。

海外目線では、日本島嶼は無人島と何ら変わらない、トカラ島嶼が北に拡大したに過ぎないとも言えよう。これは暴言ではない、疾呼だ!

このままでは、いずれ日本島嶼は世界地図から消尽されよう。
危機感を共有して欲しいのだ!
私はベトナム在住で海外目線しかない。
半世紀前のベトナム戦争で銃撃戦を生き延びた者である。

 時に、ある中国人女性が沖縄本島から約20キロにある無人島、屋那覇島を2年前に購入済みという事実を中国のSNSで明らかににした。購入したのは島の51%だという。
親族が東京都内で不動産業や金融業を営んでいるとか。

女性は自身がこの無人島をバックに船に乗ったり、上陸して浜辺を歩いたりする動画を投稿している。すると、中国のSNSでは「やった!領土が増えた」などの反応があったのだ。

対する松野官房長官は“法律的には問題ないが、これから注視していく・・”と釈明したのみであった。

再々、因循姑息の答弁だ、私はこれ以上述べたくない。 

唯、所有権者の彼女がこの島から“(殺されそうだ)助けて!”と中国本土に向けて叫んだ場合に、習近平がどう出るかだ・・・。沖縄本島から僅か60kmである。プーチン流なら何でも有りだ。

 どうして、私以外の日本人が誰もが疑懼の念を抱かないのであろうか? 

日本の国土が外国人によってズタズタになってきた!

これ以上乱獲されては日本国土は消滅する。

A級戦犯は、一般国民大衆であろう。誰もが自分と自分の家族の安寧と豊かさが保証されれば、その他のことについては考えない。これ以上

頑張る理由が解らなくなっている。

何はともあれ、一刻も早く、不動産登記法を改正しなくてはならない。
(なお、私はキャリア40年以上の宅建士である)

ウクライナ・ロシア報道で明け暮れている余裕は日本にはない。

日本は、国家衰亡の最終段階に突入しているのだ。 

前記のニューズから既に約2週間経つが、メディアも沈黙だ。
他国のウ・ロ紛争の方が視聴率を稼げるのだろう。 

御存知のように、土地所有権は「自由に使用、収益、処分ができる権利」のことである。つまり、簡単にいえば自分で使ったり、他人に貸してお金を得たり、勝手に売ったりすることができる排他的権利なのだ。

このような無人島が日本の島嶼には無数に存在する。中国政府は易々に日本列島を占拠できよう。 

日本においては、諸外国に見られる外国人向けの規制、または永住権や日本国籍の有無、ビザの種類による規制もなく、土地・建物共に外国人の不動産所有が認められいる。 所有権の期限は無く、自由に売買することができ、贈与、相続させることも可能なのである。 

海外での借地権では、あくまでも所有者から土地を借りられるだけなので、所有権と違って「自由に土地の使用、収益、処分が行えない」という点で国土を保守している。 

他国の戦争を毎日ワイワイ報道する余裕はない、直ちに民法改正だ!世界でこんな無様な国はない。だからスパイ防止法も超ザル法だ。
なお、日本の国土の4分の3は民有地である。

加えて、少子化である、国土の半分は外国人に占有される覚悟で生きねばなるまい。

日本は国家として未曽有の分岐点に立っているのだ。

明日の日本は破滅しよう。
すべての日本人が死に至る病に罹患している。

日本人の誰が私のこの投稿を把捉してくれるのであろうか? 

なお、不動産登記法の基となる「登記法」が1887年(明治20年)に施行され、その後、1899年(明治32年)に不動産登記法が施行された。そして、2004(平成16)年に、105年ぶりの改正が行われ、それまでの書面申請に加えてオンライン申請が導入されたりしている。 

日本の常識は世界の非常識であるという悪例の一つだ。

なぜ、国会で争点とならないのであろうか?不知なのか無知なのか?

これでは、やがて日本国から、日本島嶼列島として世界に敷衍されよう。

既に、北海道の殆どリゾート地は中国人に土地所有権が移転されている。防衛費増額する云々する以前の問題なのだ。

北海道の中国人の土地は登記簿上で静岡県以上の面積である。

飛行場やダムの周辺の土地、水源地、温泉源になる鉱泉地などを買う中国系投資家も後を絶たないのだ。

名義を変えて登記している中国人を加えればどのくらいになるのであろうか?

空中権は明確な高さの規定はないという。領空侵犯は日本では主張できないであろう。

日本が狂騒すべきは、領空・侵犯より領侵犯であろう。
日本は本末転倒だ!

焦眉の急を告げる事態なのだ。他国の戦争を報道する余裕も時間もないはずだ。日本人よ、目覚めよ。 

中国は、1年間で東京ドーム43ヶ分の日本の山林を買収(所有権登記)しているのだ。箱根、嬬恋村などがかつての代表例である。

軽井沢には既にビル・ゲイツが邸宅を構え、一帯を買収(所有権登記)するそうだ。かつての日本人の皆さんは掃き出されつつある。

いつ日本の一等地等々が中国・韓国の不動産屋に競売にかけられるか、時間の問題なのだ・・・? 

中国の気球の日本の領空侵犯は中国の土地所有権には空中権を主張すれば日本は敗訴する、要は、中国から気球が飛んできても地域によっては落とす権利は日本には法的権利はないということである。

中国は一発も撃たずに日本を占拠できよう、孫子の兵法だ。

プーチン流に従えば、中国人民を保護するために日本に侵攻したという戦法も論拠が有ろう。

私が想定する中国の戦略は、台湾と日本を“平和的に”に飲み込む孫子の兵法であろう(米と戦わずに)。

私のロシアIBMの仲間3人は‘22年9月に動員を恐れジョージアに車で国外に逃げた。陸続きは“イイ”と私は返事したものである。

ウクライナの私の2人の友人は戦死した。

日本島嶼に散在する無数の無人島が疑似尖閣諸島に成り得る。

日本の有人島数を416島(※内水面離島である沖島〈滋賀県〉を含む)、無人島を6,432島としている。日本は無人島に囲まれている。

どれだけ日本領の島なのかは誰も知らない。 

もはや日本民族が罹患した日本病は治癒不可能なようだ。

もはや、日本国(民)全体が痴呆症(病人社会)と言えよう。
勿論、私も含んでいる。

今日の日本に憂国の徒はゼロである。
曲学阿世のコメンテイターしかいない。

どうして? この国は私の様な名も無き一介の市井の民にこんなことを吐かせせるのだろうか?私にはまだ幼い孫が9人いる、あの世に逝くにも遺言も残せないでいる。

日本の国会議員は3分の1は朝鮮(韓国)系だ、だから身に及ぶため騒げない・・?? 歴代首相は韓国系がずらりと並んでいる。

例えば、近年では鳩山由紀夫、菅直人、小泉純一郎、小沢一郎等々だ。
統一教会“党”が跋扈した所以であろう。

議員の政策担当秘書や公設秘書は元統一教会員が多いはずだ。
彼らは国家公務員特別職に分類され、年収700~1,000円を国民の税金から支給されている。しかし、誰も問題視しない。
自切しないトカゲばかりだ。

因みに、引例では、2015年8月17日、韓国・ソウル市内にある西大門刑務所の跡地にある慰霊碑に、跪いて頭を下げた、土下座謝罪が冷評された。日本民族の愛国心が世界最低レベルという国連公表は蓋し正論なのだ。

 

 



 当時のメディア報道を拾ってみよう、

『 2000年(H12)にはキム・デジュン(金大中)大韓民国大統領、森喜朗日本国総理大臣が相次いで日韓トンネル建設を提唱した。韓国は、「朝鮮半島が大陸と海洋の物流中心基地となり、ユーラシアと太平洋をつなぐ拠点として世界経済の中心軸になる」と予想し、朝鮮半島が物流中心国家となるためには日韓トンネルは不可欠との認識が国内で浮上している。森喜朗日本国総理大臣は2000年(H12)にアジア欧州会議の場で金大中大韓民国大統領の日韓トンネル提唱を引用して日韓トンネルに言及し同席した各国首脳の関心をひいた。 2003年(H15)にノ・ムヒョン(盧武鉉)大韓民国大統領は小泉純一郎日本国総理大臣との首脳会談で、北朝鮮問題が解ければ日韓海底トンネルの必要性に言及した』。

2022年8には、熊本県で岸田首相の後援会会長を務める崇城大学の中山峰男学長が、『日韓トンネル推進熊本県民会議』の議長を2011年の発足当初10年以上も務めていたことが判明した。

岸田首相は広島1区が選挙区だ、何故10年以上も熊本に後援会をもっていたのだろうか?しかし、中山峰男学長が、「私自身も今の今まで日韓トンネルそのものが統一教会と関係があると認識がなかった」と遁辞したのみで、メディアすら討尋しなかった。まるで他人事のような禅問答である。

今や、日本の一人当たりのGDPは世界27位だ、掘削(大林組)する金もなく、騒ぐ元気もない。 

明治維新政府は江戸幕府の幕藩制を遺存させ、第2次大戦後は内務省以外の各省を残存させたがゆえに、歴史上、市民革命は未体験である。不完全燃焼の法治国家のまま今日に至っている所以だ。 

戦後、日本国憲法がこれまで一度も改憲されていないが、対照的にドイツの憲法にあたる「基本法」は施行以来60回以上の改正を重ねている。

人類は、歴史上、適者生存であり、有為転変だ。
(上記は直截的な舌鋒は、余命幾ばくも無い私の遺稿と解釈して欲しい)

蛇足乍ら、私が30年程勤務したIBMの話をしよう。

971年から日本IBMは1971年から六本木3丁目に本社ビルが置いていた。景気悪化から、 2009年に韓国のヒュンダイに土地・建物を売却、本社を箱崎ビルに移転させた。この箱崎ビルの所有者は三井倉庫で、賃貸ビルである。賃貸料が莫大である。
この韓国への土地建物所有権移転事件は、一切社員には報知されなかったというオチが付いた。落ち目の韓流れであったためだ。
ヒュンダイがIBMビルに隣接した六本木プリンスホテルも買収、この地域は現在でも韓国ヒュンダイが土地・建物の所有権者である。
知らないのは辺りの巨大ビルに通勤する日本人社員だけであった。
以降、日本IBMは10年以上も利益は下降の一途で、上場も廃止、社名義は日本に現存するが、組織上は米IBMの一部門に吸収され、実質上日本IBMは倒産した。

私が問題視するのは、この跡地の土地所有権者である。
韓国企業はこの六本木3丁目ら赤坂見付の繁華街一帯の土地の買収(市価の2・3倍の現金で顎を撫でられ)ラッシュが起きた。
バブル後である。
私は赤坂の地元消防団の準会員であったのでこの情報は青天の霹靂であったものだ。
かつての地元の名士たちは、夜逃げするように赤坂の地から消えた。

かつてのラテンクオーターやコパカパーナ(デビ夫人がいた)などの近隣の土地は韓国系の所有権に移転されている。やがて失われた40年目に突入である。

銀座、新宿等々の繁華街の土地所有権は、中国系華僑らの牙城となっている。無知な日本の社族は、その建物の中で少ない接待費の金をばらまいているのが無残な夜景だ。
クラブのホステスは似非日本女性ばかりだ。皆さん整形美女ばかりだ。
クラブ内は暗いから超美人に変身する。
六本木や下町の錦糸町近辺はロシア、ベラルーシ、ウクライナが多い、
この裏では各国のマフィアにパスポートを握られているので動けない。
日本人客は接待費は殆ど落ちないのでまばらであり、世間知らずのアホな社族ばかりだ。

時代は変わってしまった。 

クライナのように他国からの軍事侵攻が明日にでも勃発するかも知れない。戦後、日本本土占領競争を中国・韓国で競っているが、当の日本人は我関せずである。いざとなれば若者は竹槍で闘うしかないだろう。

マ、・・・この辺りで辞めておこう。

さて、トカラ列島(吐喝喇列島)の地名の由来については諸説あり、沖縄奄美地方で「沖の海原」を指す「トハラ」から転訛したという説や、宝島の「タカラ」が列島全体を指すようになったという説がある。

過去には、七島(しちとう)、川辺七島(かわなべしちとう)、宝七島(たからしちとう)とも呼ばれたという。

古く歴史を遡ってみよう。
大和時代には、今でいう南西諸島(九州南端から台湾との間に弧状に連なる島々)を経由した中国大陸との交流が活発化しており、覓国使(べっこくし、くにまぎのつかい)と呼ばれる朝廷の調査隊が南島に派遣されたりしていた。
 
平安時代初期に編纂された勅撰史書『続日本紀』には、 699年8月19日(文武天皇3年七月辛未)に、多ね、夜久、菴美、度感の人が物を貢いだことが記されているという。これらの地名は、それぞれ種子島・屋久島・奄美大島・トカラを指し、続日本紀のこの記述が、トカラが日本と通じた始まりだとされます。
 
トカラ列島は過去には、『七島』(しちとう)とも呼ばれていた。
『シチトウ』というカヤツリグサ科に属する植物があって、これを原料にした畳表は非常に丈夫なため、柔道用の畳に使われてきた。
シチトウの苗は江戸時代にトカラ列島から豊後国日出藩(現在の大分県日出町)へ持ち込まれ、後に全国の家庭の畳表に使われるようになった。『シチトウ』の名は、トカラ列島が『七島』とも呼ばれていたことに由来する。
 
中世になると、トカラ列島の島々は、平家一門の日宋貿易、南海貿易における海上交通の標識になったが、元暦2年(1185年)の壇ノ浦の合戦で源義経軍に敗北した平家一門は、西走して九州各地に上陸、その一部がトカラ列島の各島々にも上陸したといわれる。トカラ列島の全島のほとんどに平家末裔の伝承が残っているそうだ。
 
近世では、トカラ列島の島々は薩摩藩直轄領となり船奉行の支配下に置かれた。各島々に島役(郡司、横目、浦役、名頭)を配置し、口之島、中之島、宝島には在番を置いて島政が行われた。
 
江戸時代の末期の文政7年(1824年)に、宝島の沖合にイギリス船が現れ、数人のイギリス人が小船を使って上陸し、食用の牛の譲渡を求めたが、島の人たちに断られ、腹いせに銃を乱射して牛を殺して強奪するという事件が起きた。

なお、西郷隆盛の島流しは、奄美大島に約3年、わずか3カ月の帰藩を挟んで、西郷は再び徳之島、沖永良部島に約2年の流罪となっているた。共に奄美大島の南方に位置する。
 
藩庁より出張中の役人らが応戦し、イギリス人一人を射殺した。この事件を重くみた徳川幕府は翌年、異国船打払令を発令する。ペリーの黒船出現より30年早い出来事である。この事件にあった一帯はイギリス坂と呼ばれている。
 
昭和21年(1946年)2月、連合国総司令部の宣言により、トカラ列島はアメリカ軍の軍政下に置かれた。以後、同じように軍政下に置かれた奄美群島と提携しながら、日本本土復帰のための運動を展開し、1952(昭和27)年2月10日に復帰が実現し、十島村が発足した。 

第二次大戦後の1946年、下七島がアメリカによる沖縄統治を補完するため、北緯30度線以南の南西諸島は日本本土と分離されることが決定。

下七島はアメリカ軍政下に入り、上三島は日本に残された。

下七島は食料など生活物資の入手と、沖縄戦で弾薬の薬莢などが残された一方で木材が不足していた沖縄本島などと、金属が不足していた日本本土を中継する利益のため密貿易「ミッコウ」(密航)の拠点となった。

1952年2月4日には下七島が日本に返還され、2月10日に十島村(としまむら)として発足した。

また、それまで十島村(じっとうそん)であった上三島は、同日付で村域を上三島、村名を三島村に変更して分立した。
列島内には、同字異音であるが「御岳」と名付けられた山が複数存在する。

中之島の御岳(おんたけ: 979m)、臥蛇島の御岳(おたけ:497m)、諏訪之瀬島の御岳(おたけ:796m)、平島の御岳(おたけ:243m)、悪石島の御岳(みたけ:584m)の5山が該当する。

これら全てが各島の最高峰であり、中之島の御岳は吐噶喇列島最高峰でもある。

南西諸島島弧は北部、中部、南部に分けられるが、北部と中部の間(悪石島と小宝島の間)に「トカラギャップ」と呼ばれる地形的な窪みがあり、生物学的な境界にもなっている。

トカラギャップ付近では横ずれ断層型の地震が起きやすいことが知られており、吐噶喇列島では群発地震も繰り返し起きている。
2016年12月には、最大震度4を観測する活動があった。

2021年4月、12月にも同様の群発地震が発生している。

 動植物相では悪石島と小宝島の間に「渡瀬線」という分布境界線がある。マムシとハブなど九州本土と奄美群島や沖縄との動植物の境界である。この動植物相の境界線(渡瀬線)がトカラギャップと重なるという見方もある。

東シナ海から流れて来る海流は下七島付近で大きくうねるため、海の難所「七島灘」として古くから知られていたという。


さて、藤井富伝(1827-1904)という人物は、郷里奄美(あまみ)大島が人口の割に耕地が少ないため、文化10年(1813)の島中央にある御岳の大噴火で無人島となっていた吐噶喇(とから)列島の諏訪之瀬(すわのせ)島への移住を計画した。

県の援助を受け、明治16年、有志26人と移りすんで開拓をすすめ,同島発展の基礎を築いた。

降灰と、風災の被害をうけ耕作に失敗。3年間は海産物や野草を食べ飢えをしのいだという。野草の毒のために数人が死んだともいう。

その後、数々の困難を乗り越えて、1894年には、豚、牛、猫ともども、35世帯の集落を作り上げた。

焼畑農業が主体であったが、その苦難は長くなるのでここでは省略しよう。

多くの困難や苦労を克服して、現在の島の基盤を築きあげた。
富伝は、明治37年(1904)2月23日自ら開墾した島で生涯を閉じた。

そこで、十島村の中で2番目に大きい島である諏訪之瀬島の概要を示そう。面積:27.66km、周囲:27.15km、東経:129度42分、北緯:29度36分、
最高点:799mの御岳(799m)は今も活発に噴煙をあげている。

御岳は過去に幾度となく大噴火を繰り返してきた。文化10年(西暦1813年)の大噴火で、50あまりの人家は消滅し、全島民が避難のため、島を捨て、隣の悪石島、中之島に、移住した。

ほとんどの人家は消滅し、全島民が避難したため、約70年間は無人島となっていたが、明治期に入り、奄美大島出身の藤井富伝らが入植し開拓した。

 

 ここにはトカラ列島の島々に伝わる乙姫の伝説がある。

昔々、龍舞崎で毎日漁に精を出す若者と、小舟で流れ着いた美しい姫が出会い、恋に落ち、この洞窟で末永く幸せに暮らしたそうである。

昔話の舞台になるほどの神秘的な空間。岬の上から見る景色とは打って変わった小さな世界。永遠にふたりだけの秘密の場所である。
波に揉まれて丸くなった無数の石が擦れ合い、吹き込む風で細かい波しぶきが舞っている。

 

山がぱっくりと口を開いたような洞窟が見える。

島ならではの低い雲を目の前で見られ、遠くには平島・悪石島・小宝島・宝島も見ることができ、泳ぐこともできる。

他にも「亀島」や「龍宮神」など、大島には浦島太郎に関連した伝説が残っている。

 1960年代にはヒッピーが大挙押し寄せ島民とトラブルを起こしたこともあったが、彼らも島の生活に溶け込み、今では島に欠かせない働き手となっている。

北西部の溶岩台地には手付かずの自然のままの「マルバサツキ」が日本でも有数の規模で群生しており、5月初旬から中旬にかけての満開の頃には、一面がピンクの絨毯を敷いたようになる。
塩見岬の海水浴場では、干潮時に潮干狩りができる。豊富な量と種類の多さが自慢である。南の島にしかないものもあり、自分で採集した貝殻でペンダントやブローチを作る女性観光客も多い。

 

 

日が当らないところで、墓にはおもむきのあるコケがいっぱい付いていた。

何処にも歴史があるものだ。

 以上

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?