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三浦春馬くんは、村上春樹「ダンス・ダンス・ダンス」の五反田君ではないのか

俳優の三浦春馬くんの訃報を聞いてから、心にぽっかり穴が空いたような日々を過ごしている。

元来、芸能人には何の興味もなくて、ドラマでいくつかの作品を観たことがあった三浦春馬くんのことも、「痛いくらい澄んだ眼をした人」というほどの印象しか無かった。

訃報を聞いて、いろいろな報道に触れたり、彼が残した動画をくまなく観ているうちに、意志の強い澄んだ瞳の奥に隠されていた苦悩が溢れるように浮かび上がって来て、同時に、強い既視感を覚えた。彼の抱えていたらしいどうしようもない絶望感と焦燥感が、誰かに、何かに似ている。

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村上春樹の小説「ダンス・ダンス・ダンス」に登場する、主人公の中学時代の同級生で、34歳で再会してから主人公が「会うたびに好きになっていった」映画俳優の五反田君だ。

村上春樹さんは作品の著作権に厳しい方だが、こんな素人の他愛もないブログへの引用は許してくれるだろう。

「…僕は本当に医者とか先生とかに向いてたんじゃないだろうかと自分でもよく思う。現実にそういう職に就いてたら僕は幸せな人生を送っていられたんじゃないだろうかってね。それは別に不可能なことじゃなかったんだ。なろうと思えばなれたんだ」

「今は幸せじゃないの?」

「難しい問題だ」と五反田君は言った。そしてひとさし指の先を今度は額の真ん中につけた。

「要するに信頼感の問題なんだ。君の言うように。自分で自分が信頼できるかどうかっていうこと。視聴者は僕を信頼してくれる。でもそれは虚像だ。ただのイメージだ。スイッチを切って映像が消えちゃえば、僕はゼロだ。ね?」

五反田君は、与えられた役柄になりきって演じているときにはリラックスできた。でもそれは本当の自分ではないと、どこかで醒めた眼を持っていた。「スイッチ」なんて持たず、「僕はいつも僕」であれる主人公を羨んでもいた。

「時々ひどく疲れるんだ。そういうのに」と五反田君は言った。「すごく疲れる。頭痛がする。本当の自分というものがわからなくなる。どれが自分自身でどれがペルソナかがね。自分を見失うことがある。自分と自分の影の境界線が見えなくなってくる」

そして、俳優として大きな流れの中に巻き込まれ、気づけば自分では主体的に何も選択できていないことにジレンマを感じていた。

「幸運だったことは認めるよ。でも考えてみたら、僕は何も選んでいないような気がする。そして夜中にふと目覚めてそう思うと、たまらなく怖くなるんだ。僕という存在はいったい何処にあるんだろうって。僕という実体はどこにあるんだろう?僕は次々に回ってくる役割をただただ不足なく演じていただけじゃないかっていう気がする。主体的になにひとつ選択していない」

スターとして生きるということは、世間から羨ましがられるようなものが何でも寄ってくるように見えて、実際には、本当に自分が欲しいもの、手に入れたいものが手に入らない生活を甘んじて受けるということでもある。

「あの子は僕がこの人生で手にしたものの中ではいちばんまともなもののひとつだ。結婚してから僕はそのことを認識した。そして僕はきちんと彼女を僕のものにしようとした。でも駄目だ。僕が真剣にそれを選びとろうとすると、それは逃げていくんだ。女にしても、役にしても。向こうから来るものなら僕は最高に上手くこなせる。でも自分から求めると、みんな僕の手の指の間からするっと逃げていくんだ」

誰からの賞賛を得ることもなく、ただ食べるために目の前の仕事を淡々とこなすしかない私たちには、実感できない感情だ。が同時に、心の底に少しずつ溜まっていく澱のような無力感、絶望感が、想像できる気がするのだ。

三浦春馬くんはどんな役柄が来ても、誰よりも熱心に役柄を勉強し、役作りにかける努力を惜しまなかったという。そんな痛々しいまでの努力も、五反田君のように、リアルに演じている間は「何者でもない自分」から脱して「何者か」でいられる、唯一リラックスできる時間だったからではないのか、と想像してしまう。

ムック本「日本製」で47都道府県を自ら巡り、伝統工芸の担い手や名産品の造り手の取材を4年に渡って重ねるという、ただ稼ぎたい役者にとっては苦行ともいえそうな仕事を楽しんでいたのも、「手に触れられるものを作り、残す」という手応えのある仕事に、尊敬と憧憬の想いを持っていたからではないだろうか。

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「ダンス・ダンス・ダンス」の終盤で五反田君は、事務所から押し付けられた忌まわしきマセラティとともに、東京湾に身を投じる。

“彼はその出口の扉のノブにずっと手をかけて待っていたのだ。彼は頭の中で何度もマセラティが海の底に沈んでいく光景を描いていたのだ。窓の隙間から水が入り込んできて呼吸ができなくなっていくその光景を。その自己破壊の可能性を弄ぶことでやっと自分を現実の世界に結びつけていたのだ。でもそれがいつまでも続くわけはなかった。いつかは扉を開けなくてはならないのだ。それも彼にはわかっていた。彼はただきっかけを待っていたのだ”

春馬くんが自身のインスタグラムに上げていたように、死の直前まで手をかけた料理を素敵なデザインの器に盛り、見栄えも美しい朝食をとり、丁寧に、自分を慈しむように、生活を送っていたことが切なく、悲しい。

彼が役者以外の「何者かに」なれる道を探っていたという報道もある。私たちは、贅沢にエンターテイメントの快楽を享受した上にさらに、歌手や役者、タレントの私生活まで貪っている。

演じる人のどれほどの犠牲の上に、私たちの楽しみが成り立っているのか…想像力を持ちたいと思う。そして、テレビや映画の中の人々にも、何時でも好きなときに「ただの人」に戻る権利があることを、心に置いていたいと思う。








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