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我妻民雄句集『現在』考       ―『余雪』の動的存在詠から存在の『現在』性へ


我妻民雄『現在』

 我妻民雄氏の第二句集『現在』が平成三十年十二月に上梓された。平成二十年の第一句集『余雪』からちょうど十年の歳月を経て編まれた集大成の句集である。
『余雪』は逆編年式の句集だったが、『現在』は二年ずつの章分けの編年式の句集である。『現在』という句集名に込められた思いとは。まずそのことから探っておこう。『現在』の「あとがき」から我妻氏の思いを推察できる冒頭の文章を、以下に省録する。
   ※
「現在」は不思議な言葉である。
 古語辞典にしたがえば、それは未来の世、過去の世に対しての、この世である。その人間五十年は、いまや倍に近づきつつある。
 何げなしに遣う「現在」は、実は切ないほど短い。つまりは過去と未来との接点。またはそれを含むしばらくの間である。接点としての現在は、未来を薄くし過去を厚くする。
 百年と刹那とは、セシウム半減期から見れば同じかも知れぬが、生き身にいわせれば言葉自体が矛盾を抱えているように思える。言葉は文脈を与えられることにより意味が限定される。句集もまた文脈の一つである。(以下、略)
   ※
「セシウム半減期」という言葉が使われていることでも、それ以前の時代とは全く様相が変わってしまった、この十年間の時間の変貌した流れを、改めて感じさせる。
我妻氏が自分を含む人間の存在の諸相を詠むとき、「現在」にへばりついた固定的な視点では詠まない。この文でも判るように、存在を悠久の時間の流れの中に置いて詠む。
 その視座のあり方は第一句集の『余雪』以来、変わっていないようにみえる。『余雪』では、悠久の時間の流れと自然の力の真只中に、人間を現在進行形の動的存在として置き直し、剥き出しの身体性に、世界を向かい合わせる作句法の句集だった。『現在』ではそのうちの空間性より時間性がクローズアップされている。そうしたのにはきっと深い意味があるのだろう。句集『現在』を読むということは、その意味を探るということになる。自然を含む空間に剥き出しの身体性を向き合わせた『余雪』と対比すると、今度は時間の流れの中の点景である「現在」に、人間という存在の直接的な身体性を向き合わせた、ということだろうか。
するか、静止画像のような山中スナップショットのような俳句が多いようだが、我妻氏の俳句は、大自然の中を行為する俳句である。自然に抱かれて生きていることを認識するという俳句はよく見かけるが、我妻氏のこれらの俳句は、その真只中を行為する俳句であることが決定的に違う。つまり生きてあることの動的な表現の俳句である。この俳句では甲斐駒ケ岳の正月、雪の中で穴を掘る行為である。冒頭の言葉の繰り返しになるが、これらの俳句には、悠久の時間の流れと自然の力の真只中に、人間を現在進行形の動的存在として置き直し、剥き出しの身体性に、世界を向かい合わせる奥深い含意がある。その独自性は、次のような俳句にも共通している。たましひは身体をまとひ原爆忌 戦争は身体的苦役である故に不幸な体験である。平和呆けの中で人は自分が身体的存在であることをあまり強く意識しないで暮らしている。その身体が危機に瀕したとき、はじめて身体を含む総体として自分があることを切実に実感する。下五に置かれた「原爆忌」の季語を、生々しい実感の世界に向き合わせ、剥き出しの身体感覚でその痛みを蘇生させる俳句である。ただの観察と思惟による方法論では為し得ない俳句である。

 句集『現在』が表現する人間存在の「現在性」 優れた句集には、それを評する困難さに直面させる、何か超絶的な「技」とか真剣勝負の呼吸のようなものがある。
『現在』にはそれがある。
『余雪』で確立された思想と表現方法である「悠久の時間の流れと自然の力の真只中に、人間を現在進行形の動的存在として置き直し、剥き出しの身体性に、世界を向かい合わせる作句法」を継承しつつ、何かすーっと力の抜けた自然体ともいうべき次元に、我妻俳句世界が突き抜けていっている印象がある。
『現在』の文学的主題は、本稿の冒頭、彼自身の言葉を引用して指摘したように、人間という存在の「現在性」である。
存在とは現在に他ならない。現在として在るという様態は点ではない。静止していない。つねに動的であり、過去と未来の接点にある多面体のようなものである。
まさに我妻氏が『余雪』の世界で展開した「人間を現在進行形の動的存在」として捉え、その「剥き出しの身体性」を「今」という一瞬に造形する内容と表現方法にぴったりと符号する。
「今」という一瞬を言葉で造形するには、「意味」が邪魔になる。私たち人間は一瞬一瞬に何か意味を見出して生きているわけではない。その人格の中に蓄積された感性の総体として、感覚的、反射的に「今」に直面しているだけである。
 そのことをありのままに言葉にする。
 こう言えば造作なさそう聞こえるだろうが、これが至難の技なのである。「意味」を表現しないが無意味ではない。意味になる一瞬前に、私たちが普段見落としてしまう、ものごとの背後に潜む「真実性」のようなものが、ちらりと、いや、ぬっと姿を見せる。そうやって捉えられたことの集積が、この句集の達成した文学的価値であり、文学的主題なのだ。
 その技と文学的主題の解説と批評が困難なのだ。
批評の言葉は思想的である。思想は言葉の「意味性」に依存する。だが、我妻俳句は「今」を捉えようとする文芸である。その文芸で我妻氏は虚飾のない剥き出しの、ありのままの存在というものの不可思議、可笑し味とその向こうに広がる深淵を描く。
総論的にこう分析、解釈、批評できても、この論法でこの句集の一句一句を説明することは不可能である。説明の言葉にした途端に「意味過剰」に陥り、その句の持つ美質から限りなく遠ざかってしまうからだ。誰が書いても、その鑑賞文は、我妻氏の俳句が持っている隙のない表現に比べて、陳腐なものになってしまうだろう。
句集『現在』はそういう世界に突き抜けてしまっている。
  では各章、順を追って印象深い句を摘録してゆこう。

○「夏の雪」から (平成二十一年・二十二年)

  百年のさくら百年の校庭に
  河馬駱駝駝鳥ときには牡丹雪
  列島は撓んで受ける蒙古風
  座禅草さす指のさき雪ふり来
  陸奥湾は叫びの形鳥雲に
  空支えたる噴水の脱力す
  咲き継ぐは語りつぐこと百日紅(ひゃくじつこう)
  いま空に手を組み足を組む落蟬
  秋蟬の中るや吾という物体
    悼 田中哲也
  榠樝の実おとがひ細く人は逝く
  遙かとは雪来る前の嶽の色
  虹色の土鳩の首根去年今年
  
 こうして数句を抜粋しただけでも、時間と身体性の認識に基づく作句法である特色が浮かび上がる。
  秋蟬の中るや吾という物体
 蟬に不意にぶつかった一瞬をとらえて、「秋」の「蟬」が「吾という物体」に「中(あた)る」となどと、普通の意識的な反射では思いも、言いもしないはずだ。これは伝統俳句的「写生」でも、「現代俳句」的「描写」でもない。これは自分という「存在」の「現在性」が見事に刻み込まれた「文学」表現なのである。身体的現在性こそ存在の原理なのである。
  榠樝の実おとがひ細く人は逝く
急逝した小熊座同人の田中哲也に悼句が献じられている。
「おとがひ細く」という表現に胸を撃たれた記憶がある。「頤(おとがい)」は下顎骨の先端部をさす。ヒトの進化において「オトガイ」は分岐学上の派生的形質のひとつであり、現生人類を古生人類から分ける解剖学的な定義のひとつとなっている。つまり現代人の身体的特徴の一つなのである。また「グラスジョー」という言葉も想起される。直訳すると「ガラスの顎」、ボクシングや格闘技で顎が打たれ脆く、ノックアウト負けが多い選手を指す言葉でもある。アメリカ合衆国のロックバンドの名前にもなっている。そんな印象から人間存在の本質的脆さのような雰囲気を漂わせる言葉なのだ。
 田中哲也は美男子の系列に連なる風貌をしていて、快活なジョークを飛ばす言動の影に、何か危うげな繊細さが共存している男だった。親友の急逝という精神的な喪失体験で胸に穴が開いたような気持ちでいた私を、我妻氏のこの句が癒やしてくれたことを覚えている。上五の「榠樝」という季語の斡旋によって、個としての死の悲しみを、人類が共有する存在の脆さ儚さへと視野を広げてくれたこの鎮魂の句は心に滲みた。
後年、私は田中哲也の遺句集『水馬』を編むことになり、我妻氏に句集の「栞」への寄稿をお願いした。その一部を次に抄録する。
    ※
砂に滲むやうな死ありき鶏頭花
下谷の子規庵に吟行した折の句。〈砂に滲むやうな死〉も舌を巻く上手さです。喩は分りにくいことを分りやすくするために使う、と思ったら間違いのようです。この句ではより複雑化するために使われているからです。子規の辞世の句の一つに「痰一斗糸瓜の水も間に合はず」があります。いっぱい吐血したことでしょう。子規の名をいわず、子規の面影に思いをはせたのです。
冬麗や樹影は流れだすやうに
冬麗は、目に沁みるほどの空の青さと透徹した世界を示唆する季語でしょう。日本海側の人にとっては有難さも格別であると思われます。その透明感の中に、〈樹影〉を置いても〈流れだすやうに〉と喩えるのは、やはり逆説です。影は流れるものではないのですから。哲也さんが俳句の中心に物象感を据えていたことは明らかです。物象の本質にせまる言葉で世の中を裁断する、そのために比喩が使われたのでした。
  ゆきをにるゆめ雪を煮る夢蟻の列
 なぜ〈雪を煮る夢〉を呪文のように繰返したのでしょうか。鍋一杯の水を得るために、山ほどの雪を継ぎ足し継ぎ足しし、その都度アクを掬うからでしょうか。そして唐突に夏の季語である〈蟻の列〉。いいようのない寂しさと不思議な味のする雪の句でありました。
   ※
 田中哲也の諧謔味と存在の根源的寂寥感を漂わせる俳句の本質を活写された評文を寄せていただいた。その文体も我妻氏の俳句と同じで深みと味わいがある。

○「多島海」から (平成二十三年・二十四年)

 この章は東日本大震災が発生した年の句である。
 震災があった年、「小熊座」は「東日本大震災 緊急特集」を組んだ。同人たちに二十句の寄稿を求めた。そのとき我妻氏はどうしても俳句が詠めなかったという。そこでかつて親しんだ短歌を詠んでみたら、十二首もできたという。その中の四首を次に引用しておこう。

  「春の虹伯母が私を守るよと」あはれ大森知子の絶句
  津波過ぎあとに残れるいつぽんの丈高き松 囀りをらむ
  はげ山にぶなを植えては美(うま)し牡蠣はぐくむ海の漢(をとこ) 元気か
  多賀城に瓦礫の山はありやなしや高野ムツオといふ夏男(なつお)来る

 大森和子さんは「小熊座」同人で唯一、津波の日被害で亡くなった人である。多賀城市に在住の「小熊座」の高野ムツオ主宰も広域に通信が途絶え、しばらく音信が途絶え、同人たちは無事を案じた期間があった。四首目には無事に連絡が取れて、後日、高野主宰が東京句会に姿を見せたときの安堵の気持ちが滲んでいる。
 どうしても震災詠ができないでいた我妻氏は、小林貴子氏が、宮坂静生の言葉として、「祈りがあるのなら、現地の人でなくても大いに詠むべきだ」と書いているのを見て、少しは震災詠ができるようになったという。このように、彼は震災詠の困難さ、そこにある表現的陥穽に敏感であった。この寡黙さは、当時の俳句界を席巻した過剰さや一時的な熱狂の波を被らないで、自己を見失うまいと距離を置いた意志の表れであろう。
 そして次のような震災詠を遺している。

  むき出しのあれは原子炉かぎろへる
  無情とも魂鎮めとも春の雪
  死亡欄目で追ふ夜毎余震あり
    悼 大森知子
  多島海ひとりの渚寒むからむ
 
「小熊座」の本拠地が宮城県なので、当然、多数の同人が被災した。死者が一人、家を失った人、負傷した人、その後長く仮設住宅での生活を強いられた同人もあった。  
亡くなったのは東松島地区の大森和子さんである。津波で住まいもろとも流される被害での死であった。東松原でまったく同じ被害に遭い、流され半壊した家に閉じ込められた後、奇跡的に助け出されたのが小笠原弘子さんである。
 多島海ひとりの渚寒むからむ
「多島海」とは、たくさんの小島を抱える海のことで、東松島の海もそうである。
我妻氏の悼句は、死者を彼岸に追いやって悼むということをしない。
「ひとりの渚寒むからむ」と、死と向き合った大森和子さんの魂に「現在形」で向き合う姿勢で句を詠む。そこが凡百の「震災詠」と一線を画すところだ。
それが我妻俳句の魂の姿勢なのである。もう少し「震災詠」を引用しよう。

  掌を合はすかたちに塔や花の雨
  中心をフクシマに置き麦の秋

 震災詠は以上である。

  瑠璃色の尾を切り放つ夏の果
  蟬声(せんせい)は腹から八月十五日
  人間にあまたの囊凍てゆるむ
  名も知れぬ骨と筋肉青き踏む
  青き踏む遊牧民の顔をして
  この星は風の容れもの黄砂来る

 我妻氏が「この星は」の句のように自然詠をしても、人間存在の身体性の喩に読めてしまうから不思議だ。

  哲也来る土手のすかんぽ振りまはし

 この「哲也来る」の句は田中哲也の死後詠まれている。遺句集の「栞」への寄稿をお願いした頃の作ではないかと推察する。たぶん我妻氏の夢に登場した田中哲也の姿を詠まれたのかもしれない。

  蛇皮を脱いで息子は父憎む
  西は被爆東は被曝あかとんぼ

 この句の意味を受け取り損ねている読者もいるのではないか。「西」の被爆は、広島と長崎の原爆の「被爆」のことである。「東」の「被曝」は福島の原発事故による放射線」の「被曝」である。ともに原子力操作の「核反応」で生じた厄災である。俳句表現者の節度を守り、「反○○」などと唱えず、批判も、怒りも表明せず、静かに下五に「あかとんぼ」を置く。これが文学的精神というものだ。

  人と糸瓜そこに曲りて存在す
 
これも存在の現在性を強烈に感じさせる句である。
  
○「酒星」から       (平成二十五年・二十六年)

「酒星」は獅子座の右下で、三つの小さい星が一文字に立っているのを、酒店の旗とみた中国名。中国の詩人・李白の漢詩に次のように詠まれている。

  天 もし酒を愛せずんば
  酒星は天に在らじ
  地 もし酒を愛せずんば
  地 まさに酒泉無かるべし
  天地 既に酒を愛せり
  酒を愛すること天に愧(は)じず
  (以下、略)

 酒飲みの強弁のような詩である。そんな題名を冠した章である。

    悼 岡部桂一郎
  天に酒星ありと冬帽笑へりき

「酒星」というこの章題にも使われた言葉は、この悼句から採られていたのだ。故人と二人で酒を酌み交わされた記憶が、懐かしく誇らしく詠み込まれている。岡部桂一郎は短歌から韻文の世界に入った我妻氏が範とした師であったという。その教えは「短歌は手技である」「俳諧は告白だ」であった。
 我妻氏からいただいた書面を引用して、彼の韻文の出発点になった短歌から、逆照射した俳句についての考えを紹介しておこう。
    ※
 小生の内在律といえば短歌です。百人一首で育ち、中・高の愛読書が「古今・新古今」。山岸徳平でした。古文は困らなかった。短歌は七・七があるから心緒を詠むことができる。俳句にとって七・七は幻肢であります。幻肢の痛みが、五・七・五の中に窺えるように作句すること。
「場」も大切になってきます。「場」とは磁場。(略)(補注 句集や章立ての句の場合)一句は独立しつつ、磁場の中でくっつき、かつ離反する。句集『余雪』で例を揚げれば「雨の日の囀りぬれることもなし」と「頭より大きな口で春といふ」(略)
   ※
「俳句にとって七・七は幻肢」。その「幻肢の痛みが、五・七・五の中に窺えるように作句すること」という言葉は、俳句の真髄を捉えた名言であろう。

  悴むや肩を風切羽として
  北面に始まる色を枯と呼ぶ
  生きものに内燃機関息白し

 この句には人間存在の身体性がストレートに詠まれている。現在進行形の「内燃機関」なのだ。

  一枚の泥かかげたり霜柱
  酒盛す祖は山犬祀るとて
  腕あり翼がなくて半仙戯
  茅花流し人類だけが嘘をつく
  藤棚の真下潜水夫の無言
  雨空にいちはつの花浮力あり
  白骨の母わづかなり秋の雨
  壺中には骨のみならず夕かなかな

「白骨の」「壺中には」の二句は母親の死を悼んだ句だろう。直接的な悲哀感を排して、人間存在の「身体的現在性」の儚さを詠む我妻俳句の主旋律はここでも鳴り響いている。

  東夷伝倭人のタトゥー台風来

かの卑弥呼や倭国が文字文化の先達である中国の古典に初めて登場する『魏志倭人伝』。入れ墨文化を未開文明の証であるかのように見做していたが故に、そのことが記録されたのだ。それを我妻氏は人間の本来的な身体性という普遍の中に置き直している。下五の「台風来」が異国視線に晒された島国文化の身体的ざわめきを暗示しているようだ。

 いくつもの薄目が開く枇杷の花
 下萌や生きてゐるもの手をあげよ

 この「下萌や」の句は第七回佐藤鬼房奨励賞に輝いた句である。この俳句大会は鬼房がいた塩竃市で行われていた。東日本大震災後ということもあり、被災者に対する鎮魂の句でもあった。「生きてゐるもの手をあげよ」とは、生者だけに向けられた言葉ではない。「死」という現在形の状態にある人間への呼びかけを含んでいる。ここにも死者を彼岸に追いやって拝んだりしない我妻俳句の精神が伺える。人間存在の現在性とは、生きているときだけではなく、死んでも現在形だという我妻氏の思想がここにある。

 トマトたらしむるトマトの皮透明
 置き去りの尾再生の尾夏了る
 念力の残るあぢさゐ秋の風
 鉤裂きは傷みのかたちつくつくし

過剰ではなく、しかし、静かに、ひりひりするような存在の実感に満ちる表現である。

○「シエラ・ネバダ」から  (平成二十七年・二十八年) 

章題の「シエラ・ネバダ」はイベリア半島南東部にある山脈の名前から採られている。スペイン・アンダルシア州グラナダ県とアルメリア県に属する。年間を通じて雪が残っており、スペイン語では「積雪のある山脈」を意味する。
この章にはスペイン紀行に纏わる句が詠まれている。

  空爆の空につながり冬茜
 
この「空爆」は「ゲルニカ空爆」のことだろう。スペイン内戦中の一九三七年四月二六日、ドイツ空軍のコンドル軍団がスペイン・ビスカヤ県・ゲルニカに対して行った都市無差別爆撃である。この爆撃は焼夷弾が本格的に使用された世界初の空襲で、「史上初の都市無差別爆撃」や「史上初の無差別空爆」といわる。ゲルニカはバスクの文化的伝統の中心地であり、自由と独立の象徴的な町だったという。「ゲルニカには地上で一番幸せな人びとが住んでいる。聖なる樫の樹の下に集う農夫たちがみずからを治め、その行動はつねに賢明なものであった」とは、フランスの思想家であるジャン=ジャック・ルソーの言葉である。そこにドイツは大量無差別殺戮の爆撃を行ったのである。ピカソはゲルニカ爆撃が報じられると即座に習作を描いて製作を開始し、「スペイン軍部への嫌悪の意味を込めた『ゲルニカ』を製作中である」とする声明を発表した。『ゲルニカ』は五月二五日から開催されていたパリ万博のスペイン館に展示され、ゲルニカ爆撃の悲惨さを世界に知らしめることになった。『ゲルニカ』製作と並行して何枚ものデッサンを描いており、これらのいくつかは『泣く女』シリーズに反映されている。
以来、国際紛争、内戦で非人道的「空爆」は戦略的な常識化されて、現在も継続している。「空爆の空につながり」はその不幸な世界的な歴史的時間を今に接続する表現であり、下五の「冬茜」の日本的現在を示す言葉が聴いている。
スペイン紀行の句を次に揚げておこう。

 山鳩の目から始まる冬夕焼
 少女撫づかのガウディの龍の顔
 泰山木葉末シエラ・ネバダの雪
 あるはむぶら蠟梅の香のまぎれなし
 すすり泣く提琴ロマの穴居より
 目と鼻の先にアフリカきらきらす
 冬薔薇鼻梁の細きエル・グレコ
 につぽんを遠く鮟鱇吊られをり

では帰国後の句に戻ろう。

 卑弥呼の卑邪馬台国の邪も冬木の芽

 中国では前の政権国を倒した次の政権国が、その前までの統治国家の歴史を纏めた書を編纂する慣習があるようだ。その歴史観に中華思想がある。自国を世界の中心する思想により、属国や周辺国について記述するとき、「卑弥呼の卑邪馬台国の邪」というように卑字表記をすることで、自国の権威を高めたという。下五に「冬木の芽」を置いて、「どんなに呼ばれようと」という批評性が立ち上がる。

  十二月八日いつもの坂下る

この「十二月八日」以降、三年六ヵ月に及ぶ、後年、大東亜戦争対米英戦(太平洋戦争)と呼ばれる愚かな戦争を日本が始めた日である。一九四一(昭和十六)年十二月八日午前三時十九分(現地時間七日午前七時四九分)、日本軍がハワイ・オアフ島・真珠湾のアメリカ軍基地を奇襲攻撃した。「十二月八日午前零時を期して戦闘行動を開始せよ」という意味の暗号電報「ニイタカヤマノボレ1208」が船橋海軍無線電信所から送信され、戦艦アリゾナ等戦艦十一隻を撃沈、四百機近くの航空機を破壊して、攻撃の成功を告げる「トラトラトラ」という暗号文が打電されたという。
 当時の知識人の大半の気持ちに「何か閉塞感から解放されたようなスカッとした気分だった」というものが多い。負け戦を始めて国民を悲惨な道に引き摺りこんだ、というふうに思った人は極少数派だったのである。
 太宰治に「十二月八日」という短編小説がある。その一部を次に摘録する。
    ※ 
十二月八日。早朝、蒲団の中で、朝の仕度に気がせきながら、園子(今年六月生れの女児)に乳をやっていると、どこかのラジオが、はっきり聞えて来た。
「大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり。」
しめ切った雨戸のすきまから、まっくらな私の部屋に、光のさし込むように強くあざやかに聞えた。二度、朗々と繰り返した。それを、じっと聞いているうちに、私の人間は変ってしまった。強い光線を受けて、からだが透明になるような感じ。あるいは、聖霊の息吹きを受けて、つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したような気持ち。日本も、けさから、ちがう日本になったのだ。
   ※
 あの日、日本はそれまでの日本ではなくなった。人もいつもの自分ではいられなくなった。その瞬間を鮮やかに切り取った小説である。
掲句の「いつもの坂下る」の「いつもの」には、そんな紛い物の「高揚感」に惑わされず生きる、平常心であることの表現の冴えが感じられないだろうか。

  もう一つ影は売るべし寒椿

 多様な感慨を引き起こし、多様な解釈をしたくなる句だ。「影」は本体の存在を前提とする。自己像の「影」を本体と混同してしまわないよう、そんなものはさっさと売り飛ばしなさいと言っているようでもある。捨てろと言わず「売るべし」に強烈なアイロニーを感じる句である。自己像のくっきりと定まる鮮やかさを表す「寒椿」が効いている。

  あの声は骨の中から告天使

 句の冒頭に指示語を置くのは普通俳句作法では禁じ手であろう。何を指しているか不明な表現になってしまうからだ。だが我妻氏がよく使う、このような指示語は、私たちの共有する自己の内部にある何かを強烈に指し示す不思議な力がある。この句では「骨の中から」という言葉がそれだ。「告天使」は雲雀の別名で、コウテンシと読み、鳴き声がよいので中国では鳴き合わせに使われ、百音鳥(パイレン)ともよばれるという。この句では表記の「告」「天使」のイメージに負うところが大きいような気がする。「天使」の声に何かが呼び覚まされる感覚になる句だ。

  その上は犇めく星座鳥雲に

この句も冒頭に指示語を置く句だ。「鳥雲に」の下五の季語で、渡り鳥とそれを包む空全体の景が読者の脳裡に広がる。指し示すが限定しない指示語の時空を投網にかけるような魔力が生きる句だ。

 そらを彷徨うて花屑にはならぬ

句意としては桜の花弁の舞う景だが、今を生きる意思そのものの造形のような句だ。

 死ぬまへは生まれる前の青葉闇
 海からは上がれぬ形して海月
 生きものはみな破滅型花めうが
 地上から照らされてゐる鰯雲
 キャベツ割るその中もまた露けしや
    悼 佐々木とみ子 
角巻の麗人過るよされ節

 我妻氏は同人の訃報に接すると必ずこのように妙なる鎮魂の句を詠む。佐々木とみ子さんは容姿も句のたたずまいも麗しい方だった。佐藤鬼房顕彰俳句大会の翌日、二人で鬼房句碑公園まで行き、のんびり散策しながら鬼房の思い出話を伺ったことが忘れられない。その翌年、帰幽された。年月が経つほどに宝物のように輝きを増す記憶である。

  艮の光源として龍の玉
  陸奥は父系短命かまいたち
  風花を待つ出稼の裔として

 我妻氏は東京の下町育ちで、現在、山の手にお住まいである。父系は東北出身であることを伺わせる句である。

  咲つづくてふ地獄あり百日紅
  汚れない旗もカンナの花もない

「百日紅」の句は、存在の現在性が抱える苦しみの句であり、「カンナ」も「汚れ」ることを必須条件とする命の、現在進行形故の哀しみを引き受けて生きる意思表明の句だろか。「旗」にはその期間だけに掲げた主義主張の印が読み取れるが、いつか色褪せてしまうという自覚がある。そんな自覚を促すのは文学の力である。

○「秉燭者」から      (平成二十九~     ) 

 章題の「秉燭者」の「秉燭」はヒョウソクまたはヘイショクと読み「燭を秉 (と) る」の意味がある。また灯火器具の一つでもある。油皿の中央に置いた灯心に火をつけるもの。または手に灯火を持つこと、火ともしごろ、夕方などの意味がある。ここでは「者」が付いているので、灯を点す者という意味だろう。
 この章の句は温かく美しい句が多い。

  落葉松散る黄金時雨と申すべく
  樹の下の月光溜り龍の玉
  空席といはず冬日の席といふ 
  花片の間(あひ)あひに闇石蕗の花
  水始めて氷るお墓を買ひますか

 「お墓を買いますか」は、セールスマンの言葉ではなく、我妻氏の奥様の言葉である。人間の現在性はそんな日常の夫婦の会話にも立ち現れる。それをそのまま掬い取る俳句眼が冴えている。上五は普通「水始めて」ではなく「水初めて」だろう。我妻氏はその「初」の字の響きを嫌ったようだ。初体験ではなく、巡る季節の冬の始まりとしての今を詠む句に相応しくないと思う感性の表れだろう。 
  人はみな秉燭者(ひともしびと)や雪こんこん

 この章の「秉燭者」は、この句から採られていたことが、ここで判る。解説解釈など無用の心に沁みる美しい句である。「秉燭」の意味はすでに述べた。
 以下は我妻氏からの受け売りだが、この「秉燭者」という言葉は、連歌師たちが連歌の起源と見做す、日本武尊と「秉燭者」との唱和である。
  にひばりの筑波を過ぎて幾夜か寝つる    日本武尊(やまとたけるのみこと)
  日日(かか)並(な)べて夜には九夜日には十日を     秉燭者
『日本書紀』の神話に出てくる歌で、高校生時代の教科書で習った歌である。「秉燭者」という言葉は、そんな日本神話に登場する美しい言葉である。
相手の歌を意識しつつ、独立した片歌(十九音節構成)一首をそれぞれが詠む、という形に、連歌師たちは連歌の起源を求めているという。 

  鳥類に人類遅れ芽吹山
  口の中の虚こそ太虚春の鯉
  縦長の木は縦長に囀れり
  印画紙の男みな死に桃の花
  住まふ屋根住まはぬ屋根や春の月

 全国的な社会問題にもなっている「空き家現象」を連想する。そんな家々もかつては次の句のように、

  三軒が掃く一本の樫落葉

一本の樫の大樹を中心に片寄せ合う親密なコミュティが機能していたのだ。

  学校に生まれては死ぬ蟬の声

「樫」の木の句は大樹が「定点」となっている句だったが、この句の「定点」は学校である。そんな「定点」の象徴に対比されているのが命、存在である「通過するもの」だ。
「樫」の木の句ではその周りの人間とその営みであり、「学校」の句では「蟬の声」に象徴される、「生まれては死ぬ」命である。ここにも存在の現在性の造形がある。

  苦瓜に百の涙状突起あり
  一機一弾ニシテ万死ノ晩夏
  幾千の眩暈である曼殊沙華
  大花野冒頓単于(ぼくとつぜんう)くる頃か

「冒頓単于」とは秦末~前漢前期にかけての匈奴の王のこと。「冒頓」は名で「単于」は匈奴の言葉で君主を指し、漢語で言う王・皇帝のこと。「冒頓には「勇者」の意味がある。匈奴は中華諸国などに進出しては略奪する北方騎馬民族であり、中華諸国にとっては長年の悩みの種であった。各国は馬が越えられない壁(長城)を築き、中華を統一した秦の始皇帝はそれをつなげて長大な万里の長城を築いたのである。これにより匈奴は中華諸国への侵入が難しくなった。「大花野」の空間的広がりに歴史的時間を夢想しているのだ。
 
  けらつつき華胥の国にも届きをり

「華胥(カショ)の国」は中国の黄帝が夢の中で見たという無為自然で治まる理想の国のこと。太平の国。その故事から昼寝、午睡のこと。漢籍にも明るい作者が自分の午睡の夢に「けらつつき」つまり秋の季語の啄木鳥の幹を嘴で突くドラミングが響いた、あるいは音が響いたと、少しおどけた表現をしているのだろう。故事の「夢の中」を前提としているので一睡の儚さを纏う。

  癒しとは万年雪に秋の雪
  杉は千年人は百年鉦叩
  終着のつぎは始発や雪催
    悼 平松彌榮子
  鶴ほどのかろき柩を運びけり

 この悼句も「小熊座」同人に対するものだ。平松さんの句は「小熊座」同人の範とし敬愛する素晴らしいものばかりだった。その技法には追従を許さない独創性があった。葬儀に参列し柩を担う役を与えられた体験の句らしい。「鶴ほどのかろき柩」という措辞に、深い敬愛の念が滲んでいる。

  現在はつまり生前笹子鳴く

 句集の掉尾に置かれた句で、句集名はこの句から採られている。
「笹子鳴く」という冬の季語は、その年生まれた鴬の幼鳥が舌打ちするように鳴くことを指す。つまり生命の誕生のイメージを句に引き入れたものだろう。
今を生きる存在である私たちは、未来と過去に「永遠」に繋ぎ止められている。いつの日か、という意味の明日、私たちは必ず死ぬ。
だから常に「生前」である「今」を生きているのだ。
では、私たちの死後、「現在」と「過去」と「未来」はどうなるのだろうか。
この問いに、読者一人ひとり違う答えを思い浮かべるだろうか。
いや、答えはただ一つしかない。
存在の死の瞬間に、すべてが無となる、という答えだろうか。
いや違う。
「現在」も「過去」も「未来」も、「永遠の現在」という「記憶」になるのである。
この句集は、そんな存在の現在性についての思弁の書であり、存在の死後、他の存在に共有される「記憶」となる「現在」の、言葉による造形文学である。
                              ―― 了

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