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リアリズムの〈理想主義者〉 : 正宗白鳥論

書評:正宗白鳥『新編 作家論』(岩波文庫)

正宗白鳥を、初めて読んだ。これまでは、あちらこちらでその姿をちらちらと見かけて、なにやら「一癖ありそうな人」という謎めいた印象を持っていたが、読んでみれば、決してわかりにくい人ではない。いやむしろ、わかりやすい。
要は、正宗白鳥という人は「人間のリアリズムにこだわった理想主義者」なのである。だから「理屈」や「思想」や「観念」や「イデオロギー」には、気難しい顔を見せがちだったのだ。

だが、だからといって彼は、そうしたものを否定していたのではない。なぜなら、そうしたものもまた、人間が誠実に生きようとすれば、避けては通れないものであり、いわば「非常に人間的なもの」であったからで、それはちょうど「信仰」と同じようなものだったのだ。

白鳥は、元カトリック信者として「キリスト教」を全否定した。あんなものは願望充足的な妄想にすぎないと、きっぱり断じていた。彼は斯様にリアリストなのである。
しかし、だからと言って彼は、「信仰」そのものも「信仰者」の存在も否定しなかった。なぜなら、人間はその生においてしばしば、「理屈」や「思想」や「観念」や「イデオロギー」を必要とするように、「信仰」を必要とする場合もあるし、必要とする人も大勢いる。それは、人間の「不完全性」という現実において、避け得ないことだと、彼はそう理解していたからである。また、彼はそのようなリアリストであった。

だから、正宗白鳥をして、単なる「リアリスト」として担ぎ上げ、「理屈」や「思想」や「観念」や「イデオロギー」や「信仰」に対する否定批判の「大看板」に仕立て上げようとするような者は、白鳥をまったく理解していない、と言わざるを得ない。
白鳥を持ち上げたがる読者の多くが、「理屈」や「思想」や「観念」や「イデオロギー」や「信仰」が理解できない自身の無能力を正当化せんがために、ただそれだけのために、白鳥を利用しようとしがちなのだ。それも、そうした自身のみすぼらしい底意に、まったく無自覚なままにである。

他人の意見を聞いて、「面白い」と感じる場合に、二つのパターンがある。
一つは、そこに自分と同意見を見つけて「そのとおりだ」と思う、共感による面白さ。この場合、その相手が有名人や有力者だと、同意見であることのありがたみが大いに増すのは、言うまでもない。
人の意見を「面白い」と感じる場合の、もう一つのパターンは、自分の意見とは全く異質で、その主張するところが、すぐには理解できないような場合である。つまり「珍奇なものに接する喜び」。言い換えれば「発見の喜び」であり「認識拡大の契機に接した際の喜び」である。

本書読者の陥りがちな弊は、もちろん前者である。こういう人は、自分の現実を直視したくない。成長しようという意志がなく、ただ未熟でしかない今の自分を、そのまま全面的に肯定してほしいという「承認欲求」に、無批判に自身を委ねているだけの、本質的な愚か者だと言えるだろう。
こうした読者が、なぜ度しがたい愚か者かといえば、それは正宗白鳥を読んでおきながら、そんなトンマなことをヌケヌケと考えられるほど、文章の読めない人間だからである。

本書を一読すれば明らかなとおり、正宗白鳥という人は、きわめて謙虚な人である。自分の能力の限界を知っており、また、それを確かめることを怖れない。それを知ることは、多少なりとも自分の「僻目(偏見)」を是正することになると考えるからだ。
だから彼は、自分がまともに読んでいない作家について、断言的にその評価を語るような愚かなことはしない。このあたりが、愚かな白鳥崇拝者との大きな違いである。

彼は、自身を「凡才」であると自覚していた。自覚していればこそ、多くを読み、確認し、それを歪めることなく公正に評価しようとした。
「正直ほど強いものはない」というが、白鳥の批評の強さはまさにこれであり、「凡才」であるという自覚を持っていたればこそ、率直かつ謙虚であったところに、白鳥の希有な真価があったと言えよう。

また、だからこそ彼の批評の特徴をなす「褒めたり貶したり、貶したり褒めたり」という形式が表れもする。
「ずば抜けた才能の持ち主だが、彼も人間だから色々と難点もある」あるいは「小説家としての才能に乏しい彼は、しかしその実人生に誠実に向き合った人特有の力を持っていた」といった類いの、白鳥特有の「両面描写」には、彼が単純な「偶像崇拝者(観念的理想崇拝者=イデオロギスト)」でも、「結果論的リアリスト(「理屈はどうあれ、現実はこうでしょ」的なニヒリスト)」でもない、本当の意味での「リアリスト」であったことをよく示している。

彼が「キリスト教信仰」を持ったのも、そして捨てたのも、同じ原理に依っている。
つまり彼は、その理想主義において信仰を持ち、その理想主義において信仰の「実」の無さを知って信仰を捨て、その理想主義において、そうした「人生の虚妄」を排して「人生の実」を掴まんとした。それが、正宗白鳥という人なのである。

有名な、小林秀雄との「トルストイ家出論争」についても、小林とのタイプの違い、現実や生活に対する「見方の違い」が惹起したものと見れば、大変にわかりやすい。
文芸評論家の高橋英夫が、この論争について、次のように書いているが、まさに至言である。

『(※ 白鳥の)「トルストイについて」は短いが、有名な小林秀雄との「トルストイ家出論争」のきっかけをなした文章として注目に値する。小林秀雄からすれば、それは「思想と実生活」の対立であったが、白鳥にとっては少し違っていた。簡単に要約できないところはあるにせよ、白鳥にとって問題は「実生活と思想」だった。もしくは「実生活が思想」だった。』(正宗白鳥『新編 作家論』岩波文庫、456P)

つまり、小林秀雄の場合には「物事の本質が先にあって、その表れとしての実生活がある」というプラトニズム的な世界観なので、その結果「思想と実生活」という順になるのだが、白鳥の場合は「実生活が先にあって、そこの必要として思想が呼び込まれる」というリアリズム的世界観なので「実生活と思想」という順になるし、さらにいえば、実は「実生活こそが、(意図せずとも)何よりの思想(表現)だ」ということなのである。「実生活の外に、真の思想などない」というのが、白鳥のリアリズムであったというのが、ここでの高橋の言葉の意味である。

したがってこれは、小林秀雄と正宗白鳥の「どちらが正しいのか」「どちらが上か」などという、下らない話ではない。これは、この世界をどのような視点から見るのかという「世界解釈における視点」の問題なのだ。
だから、どちらも正しいと言えるし、どちらも「一面的」だとは言えるだろう。だが、小林秀雄や正宗白鳥は、その「党派的なファン」とは違って、自分の限界を弁えていた。「自分には、そのようにしか見られないから、その見えたものを誠実に語るしかない」という謙虚さがあった。

しかし「どっちも凄いのだ」では、その意味の理解できない人も多かろうから、ここでは、小林秀雄と正宗白鳥のタイプの違いを、比喩を用いて、わかりやすく説明してみよう。

一言で遭えば、小林秀雄は「本質論」者であり、正宗白鳥は「経験論」者である。
小林秀雄の凄さは「眼光紙背に徹する」というタイプであり、正宗白鳥のそれは「紙面を真っ直ぐに見る」というところにある。
言い変えれば、小林秀雄は、シャーロック・ホームズなどのような直観型の「名探偵」タイプであり、正宗白鳥は、こつこつと聞き込みをして脚で稼ぐ「刑事」タイプだ。
小林秀雄は、表面に表れていない「本質」を鮮やかに剔抉して読者の前に示し、読者をアッと言わせることのできる「天才」であり、正宗白鳥は「現実と事実」に即して、丁寧かつ真っすぐに人間の現実を評価しようとした「努力家」である。

だから、小林秀雄の評論は「その意外性と、手際の見事さ」において魅力的だし、正宗白鳥の評論は「その堅実さと誠実に」おいて読者の信頼を得る。

白鳥の場合、漱石であろうが鴎外であろうが(あるいは、ダンテであろうが、トルストイであろうが)、所詮は「同じ人間」なのである。
たしかに「才能」に違いはあろうけれど、漱石や鴎外と言えども「神様」ではない。「神様はいない」のだ。彼は「無神論者」なのである。
そうした確信において、彼は誰に対しても「人間」として対し、時に厳しく、時に優しく、自由かつ公平に接したのである。

白鳥が「ダンテについて」でも書いているとおり、人間は老境において、その本質的な指向(嗜好)に戻っていく傾向があるようだ。
青年期なら、これから多くを学び自分を成長させるための時間がたっぷりあるから、あれもこれもと積極的に手を広げる。それは、白鳥がそうであったように、まったく正しい。自分の目と手で確かめないでいて、それをあれこれ断ずるような若者は、若者らしくはあるが、要は「馬鹿」なのである。

しかし、老境に入れば、残された時間を嫌でも意識しないわけにはいかないから、多くの人は、自分本来の指向(嗜好)に戻っていく。視野を広げることも、それが充分に可能な青年期には必要なことだが、期限が切られた老境にあっては、原点に戻り、自分にとって大切なものをもう一度仔細に検討する、といったことのほうが、重要でもあれば効率的でもあろうからだ。

その結果、小林秀雄の場合は、人間への興味から離れて、骨董などに打ち込んだ。そこに「美の本質」を見ることにおいて効率的だと思ったからだろう。人間にかかずリあうのは、いかにも面倒で非効率的だと感じたに違いない。

一方、白鳥の方は、若い頃に深くかかわった「自然主義的」な人間への興味から、ダンテやトルストイに代表される「信仰」に生きた人間の「人間性」に惹かれるようになる。回帰するようになる。
白鳥は、けっして「信仰」に回帰したのではなく、若き日の自分と同じく「信仰に希望を見いだした人々」の、その「強さと弱さを含めた人間らしさ」に、より深い「人間性の味わい」を見ることになったのであろう。

このように見ていけば、白鳥を「単なるリアリスト」として担ぎ、自分が理解しがたいが故に不愉快だと感じる「観念論者」たちへの対抗兵器とするような、いかにも俗っぽい人たちが、いかに白鳥を読み違えているかは、もはや明らかであろう。

白鳥は、人間を「不完全なもの」として、公正に評価した。しかしそれは、人間を否定的に見ていたからではなく、本質的に肯定していたからこそ、忌憚なく批判することもできたのである。
そしてそうした意味で、正宗白鳥という人は「理想主義的なリアリスト」であり「現実的なロマンティスト」であった。彼においては、それは、けっして矛盾したものでも非現実的なものでもなかったのである。

私たちが正宗白鳥から学ぶべきは、そうした「(自身を含む)人間への信頼に基づく厳しさ(忌憚のなさ)」なのではないだろうか。

初出:2020年5月7日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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