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いのちの霊

しばらくnoteの間が空いてしまいました。
少し短い文にはなりそうですが、リハビリがてらに久しぶりに書きます。

ちょうど今から約1年ほど前、2021年2月の終わりごろ、仙台の街中を散歩していた時に、ふと見かけたギャラリーに立ち寄ったことがありました。その時に出会った作品の話をします。

仙台地下鉄青葉通り一番町から数分歩いたところに、晩翠画廊というギャラリーがあって、HOME-ココロの還る場所-という展示が催されていました。テーマの説明は以下のようになっていました。

昨年はコロナ禍の中で、期せずして生活の根本を見直す機会となりました。自分にとって「家」とは?そして「HOME」とは? 
これまで、当画廊で出会った「家」や「HOME」をテーマにした作品(立体・豊面・陶芸作品など)から、改めて目常を考えるきっかけになれば幸いです。

HOME -ココロの還る場所-
晩翠画廊の店がまえ


2020年、コロナ禍と同時に来仙したものの、まったく地縁もなく、それなのに大学の警戒レベルが高くて簡単に登校することもできず、また大学にいくための強い理由も持っていない。


完全に孤立した状態でほぼ一年が過ぎ、当時のわたしはすっかり鬱々として、その気分から脱却できないでいました。


何か気持ちを回復させるヒントはないか。そんな気分で散歩していたのだろうと思います。なんでもいいから救いが欲しい、このような気分で一縷の望みを託しながらギャラリーに入ったのを覚えています。

中に入ると、小さな陶芸の置物作品や、お皿、異国情緒あふれるスウェーデンの田舎の風景が描かれた水彩画、家の中の日常の風景を描いた作品と、小さな画廊の中に麗しく作品たちが飾られていました。その中でひときわ私の注意を引く作品がありました。それがこちら。

平田恵理子「すみか」


その作品は、3枚の木の板が掘ってできた穴の中に茶色を基調としつつ、青や白でアクセントのついた石が埋め込まれたレリーフで、しっとり感とあたたかみが同居するような作品でした。


作品の説明は特になく、ノーヒントでこの作品について想像力を働かせるわけですが、直感的に私の中ではこのようなイメージが浮かびました。

数万年後、人類がこの世からいなくなって、何やら車のような、雲のような、あるいはアニメなんかで出てくる不思議な生物のような巨大な何かが廃墟になった住宅地を覆っている、守っているような世界観……あるいは現代において土地を守る精霊のような存在を暗示した作品なのではないだろうか。

イシダの回想より


この作品は、平田恵理子さんという東北地方のアーティストの「すみか」という作品なのですが、そんなイメージをぼんやりと膨らませていると、なんとご本人が来廊されました。(ギャラリーにはほんとにふらっと入っただけだったのでまごうことなき偶然です)

どうしても作品のことが気になったので、おずおずと話しかけてみると、いかにもお母さんという雰囲気でにこやかに対処してくださって、「言っちゃってもいいんですか?」と聞いてくださります。「もうこれ以上イメージ膨らませられないです!気になります!お願いします!」と伝え、作品の説明をしていただきました。


お話によると、この作品は、ご自身の好きなことを4つ集めてきてコラージュし、それをモザイクの手法で抽象化した作品だそうです。

その好きなものとは、以下の4つだそうです。

① 岩手県の高速道路から見える”いぐね”

② 雑木林でよく見られる幹が地面からゾゾゾっとしている感じ

③ 自身の暮らす郊外の住宅地

④ 身の回りの人との縁

4つの好きなものの表現になっている。


ちなみにいぐねというのは、東北地方の水田地帯で見られる散居村において、冬の風避けのためなどに家の周りに植えられる屋敷林のことです。たいへん美しい風景です。

散居村の屋敷林

お会いしたのは2021年の4月ごろで、コロナ禍になってから作品制作を続けるかどうか休息していた時期があったそうですが、趣味のアクセサリー作りを街のマルシェで出店したりしている中で、周囲の人との繋がりや身の回りの素敵な風景に対する気持ちが高まって、この作品を作られるに至ったということでした。


作品も人柄もエピソードも大変素敵なものだったので、わたし自身も幸福をお裾分けしてもらったような気分になったことを今でも覚えています。

平田さんについて

さて、初めにわたしが抱いたイメージと、実際の作品のモチーフは違うものであったわけですが、あながち受け取ったイメージは遠くなかったのではないかとも思えてなりません。

というのも、ある人が周りの人や建物、地域、世界をよくしようと考えて、実際にそれをよくするために行動し続けないとそれはあり続けることはできない。

そうして生かされたもの(それが人でも建物でも地域であっても)には、何かいのちのオーラというか、そういうものが発せられているはずだと感じるからです。


アーティストの方と話した際に、作品や会話、他の方とコミュニケーションを取られる風景から、何か他者を尊重し、お互いにうまく迷惑を掛け合いながら、共に生きてゆく……あれはそうした営みの一切れであったと思わずにいられず、それは作品から受けたイメージが暮らしを守る精霊であったことの正体なのではないか。

アーティスト活動されているご友人と平田さん


人と人が関わり合うとき、何か不思議なオーラを発することがあると思います。それはなにげない挨拶の時に自ずとお互いに笑顔になっていて、それがその周辺の小さな世界をあたたかみのある雰囲気で包むといった、ありふれたものであることが多いと思います。

今回の経験も原始生物以来、連綿と続けられてきた生物の営みの1つの集結点であったと思います。これは当時、孤独に苛まれていた自分自身にとって、決して誇張などではなく、あのような生かし生かされる関係性においてこそ人は生きていられるし、自分の周辺の人たちをできる限り大切にする考えに至る上で重要な出来事であったと思います。

このnoteのタイトルを”いのちの霊”としたのは、人や生物、自然の関わり合いにおいて宿る生かし生かされる関係の不思議さ、大切さを感じたからなのです。


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