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【記憶の石】⑩

 3月下旬ある日の昼過ぎ、この日もまだ少女は14歳だった。少女は進学先の高校の合格者オリエンテーションに両親と参加していた。平日なのに父も母もお揃いの新入生ばかりで、そのオーラが誇らしげにギラギラとしていたので、もしかしたら合格者の自分たちより輝いているのかもしれないと感じられた。
 生徒指導の担当教員という男性教諭がこの学校の素晴らしさを長々と語っていた。うちの生徒は自由なファッションで品行方正な子たちなんです——入学予定者の中には、少女と同じく早々に髪を染めている者がちらほらいた。他の学校なら、既に卒業した中学校の制服を来て参加するのだろうか。少女は体育館の入り口で配布された資料を眺めながら、ポケットの中で携帯の振動を感じた。両親が横にいるので、メールの送り主は姉か、もう1人しかいなかった。
 教科書販売、校医による健康相談、スクールカウンセリング等の説明を一通り受け、合格者オリエンテーションは14時半に終了した。体育館を出るとこれまた派手な在校生たちが部活動のチラシを配っていた。少女は、どうせ虐められるだけなので集団というものには極力属したくないと考えた。高校からスタートでも大丈夫!の誘い文句に少し耳が反応したスポーツはいくらかあったが。

『ちょっと街中に遊びに行きたい。1人で。』少女は母に前もってお願いしていた。オリエンテーションが終わったら街に放してほしい。帰りは、バス停まで迎えに来てほしい。既に姉の足となっていた母は快諾した。また、オシャレに関する何かを見たり買ったりするのだろう。父と母は学校で少女と別れ、2人で車に乗った。
 少女は街中ではなく、自力で帰宅する場合のルートへ進んだ。高校前からバスに乗れば、ほんの数分で街の中心部に行ける。そうではなく、高校から最寄りの、最寄りと言っても結構歩くのでバスを使う生徒も半分くらいいる距離にある地下鉄の駅へ徒歩で向かった。そこから、少女の地元へのバスが出る終着駅へ15分ほど。
 15時半に待ち合わせだった。少女は待ち合わせ場所のショッピングセンター内のトイレで最後の微調整をしていた。剥がれかけのつけまつ毛を修復し、下瞼を舐めるアイシャドウを重ね、リップを塗りたての状態に仕上げた。

 トイレから出てショッピングセンターの入り口に向かおうとしたとき、トン、と肩を叩かれた。一瞬のさらに十分の一くらいの刹那、少女は確かにかすかな落胆を覚えた——現れた人物は、思っていたほど魅力的ではなかったのである。そこにはかなり小柄な男がいた。少女と目線の高さが違わず、ひょろひょろと細く、とにかく頭が小さい。黒の短髪にネイビーのパーカー、グレーのパンツ、小さなメガネ。頭が小さい分顔のパーツは大きく見える様が、まるでダチョウの頭部のようだった。
『(え、)』
 これが、2ヶ月待ち焦がれていたトモだった。日記に載せていたあの派手な写真から、勝手に大柄な人物を想像していたのだがあの迫力は当時の携帯画面にキッチリ収まる構図から錯覚されたものだった。目鼻は大きくなく、唇も厚くない。それらが収まっている骨が小さすぎるだけだった。
 少女は肩を叩かれて無意識に上方向に振り向いたのだが、ただちに目線を落とすことになった。ほんの一目でトモの外見にはがっかりしたものの、また一瞬で高揚した気持ちを取り直し、『ふああ!』と感嘆の声を上げた。
『初めまして〜〜やっと会えたねエヘヘ。』
 声が高い。
『はいっ…初めましてっ!』
 少女のほうはオドオドする。初対面に喜んではみたものの、また一瞬でトモを直視できなくなった。え、あんまカッコ良くないんだけど——でも、出会ってしまった。その現実を受け入れられず、少女は引き攣った笑いの口の形をなす術もなく保ちながら、鳥のような頭部の周辺に視線を泳がせた。
『緊張してるの〜?』
 トモの発話は、宙に絵文字が舞っているようだった。ダチョウの首がヌッ、ヌッ、と動くようにあちこちから目を合わせようとしない少女の顔を覗き込む。短髪がツンツン立っているのが視界に入って、それが決定的にダチョウの頭部を彷彿とさせた。
『あぁ、あはは…緊張してます…。』
 半笑いで各瞬間を振り返る。え。でもやっと会えた。でも、本当にこの人なのか——
『じゃ〜そこ入ろっか!』
 2人のすぐ後ろにあるスターバックスに誘導される。『はぃ、』震える足で着いていく。トモのほうは、少女が期待通りだったようで楽しそうだ。小さい口が笑うと、顔の面積に対して昔流行った「口裂け女」くらいの比率にまでグワっと広がって不気味だった。
 出会ってからものの2分で、少女は自分の男性の好みを粗方悟ったようだった。自分より少しは体が大きくあってほしい。高すぎる声は苦手。あらゆる自分の嫌な条件を目の前に提示されている。キャラメルマキアートの出来上がりを待つ間におそるおそる見た横顔、「見上げた」のではなく首を真横に向けただけでドンと視界を占めた横顔は、顎が小さく後退して首との境が不明瞭だった。それが写真で鼻を高く見せていたのだろう。
 少女は、トモの姿が大いに期待からかけ離れていたものの、もう後には引けなくなっていたので、やっと会えたのだからと自分に言い聞かせて納得しようとしていた。トモが2杯のドリンクを受け取り向かい合わせに座ると、あれだけ待っていたトモが目の前にいるという事実にささやかな感動まで覚えることができるようになっていた。
『どぉ?落ち着いた?』
『ふぁぁ、ふふ…。』
『七高入るんだね〜めちゃくちゃ頭いいじゃん!』
『いや全然…!たぶんビリで受かったんだと思います。』
『受験か〜懐かしいねもう何年前だろ!てか平成生まれ!?』
『平成ですっ。』
『うええええ若すぎ!!』
 ストローを吸っている口元と笑いながら話しているときの口の大きさのギャップが甚だしかった。少女は、あまり美しくない顔を直視し続けることが難しかったのでずっとキョロキョロしている。テーブルの下からはみ出た脚がかなり短そうなことにも気づいた。少女は上手く言葉を返せないので沈黙が続くが、トモのほうは少女がえらく気に入ったようで、ずっとニヤニヤしながら少女の顔を凝視している。
『今からドライブ行こっか!』
 このショッピングセンターの駐車場に車を停めてあるという。
『っはい!』
 そうだ、メールでドライブ行こうなんて言ってたっけ——最初にスタバを挟む意味はあったのかというくらい、短時間の滞在となった。まだまだ中身が余っているカップをさっさと片付け、トモはスタスタと店を出てショッピングセンターの地下の駐車場へ向かった。
『これね!』
 指さした白い車に乗り込む。少女はネットで出会ってすぐの相手の車に乗ってはいけないなどしっかり理解してはいたが、そのときは目の前の「やっと会えたトモ」という概念のことしか考えられなくなっていたので、それまでの孤独な人生の中で得てきた常識など、ここでは何の抑止にもならなかった。車に乗る乗らない以前に、少女は既に孤独の限界を振り切っていた。少女は14歳でネットで接した23歳の男と会う約束を取り付けてしまったのだから、車に乗ることを遠慮したところで、禁じられた世界に足を踏み入れてしまったことに変わりはないのだ。
 少女はほとんど親の車にしか乗ったことがなかった。人並みに友達がいる人たちは、他の保護者がついでに送ってくれたり、週末の遊びに送迎してもらえたりするらしい。乗り込んだ他人の家の車は、何かの芳香剤とタバコが混ざった匂いがした。
 車内では、『緊張してる?笑』『はい』『緊張してるね』『…はい、えへへ』のやり取りが半分以上だった。トモは市内を一通り案内すると言っているのだが、少女にだってここは地元である。見慣れた景色で目のやり場を得ながら、トモの発言に応答していた。
『エッチしたことある?』
『ないです。』
『へぇ。初体験まだなんだ〜。』
『ちょっと興味あったりする?』
『ぁは…ふふ。』
 少女は笑ってやり過ごす。
『彼氏とかできたことないの?』
『はい、恋愛とか、全然縁がなくて…。』
『エッチしたことないとどんな感じかわかんなくて不安だよね〜。』
 エッチ——たまに母親の買い物を待つ間にスーパーの雑誌コーナーで読んでいた成人女性向けの漫画に出てくるアレか。男女が裸で何か湿っぽいことをしているアレ。女性の台詞の大部分がアッアッ、の。
『漫画立ち読みしてるとときどき出てくるけど、よくわからない笑。なんかピチャピチャとかパンパンっていう擬音語がすごくて。』
 少女は緊張からペラペラ喋ってしまっただけだが、トモはそれを聞いてまた唇が耳元まで裂けた。
『うんうん、興味はありそうだね…。ヒヒッ。』
 一層、トモの声の振動を絵文字がチカチカ装飾していたのが見えるようだった。
 トモの大学のキャンパス周辺をぐるりと回る。
『オレが日記に載せてた写真怖くなかった?』
『あはは、強そうでビックリしましたよ。』
『会ってみてどぉ?』
『ん…なんか怖そうじゃない。』
 少女からしてみれば、怖そうじゃないのが残念だったのである。そしてまた緊張してるの?のやり取りを何往復か、何往復もして、1時間ほど経って待ち合わせ場所付近に戻った。
『じゃあ私ここからバスで帰ります。』
『うん、またメールするね!!』
 車を降り、手を振って別れた。少女は少し笑いながら、ふわりふわりとした足取りで地元行きのバス停へ向かう。見た目が期待外れだったにも関わらず、少女はそれまでの人生で経験したことのない感情を抱いた。自分の中で、なんとかあの姿を美しいと思えるように自分の美的感覚の転換を試みた。メールでのやり取りと同じく、実像のトモからの少女への好奇心は少女の心を完璧に捉えてしまった。車に乗っている間、トモの視界には少女しかいなかった。誰かの視界を独占したことなど、そして少女自身がだだ1人を視界にキープできたことなど、なかった。
 地元のバス停に着き、母の車に拾われて帰宅した。携帯をカチャッと開き、トモにメールを打つ。
『今日はありがとうございました💓』
 すぐにトモからの返信があった。
『今日ゎ楽しかったね‼️また遊ぼ⤴︎⤴︎』
『はい💓また会いたい↑↑』
『ねっオレ怖くなかったでしょ❓😆』
『うん😆ワラ』
 トモと、何らかの関係が築けたようだった。少女にはもう、出会い方やいまいちな外見など、どうでもよくなってしまった。
『今日会ってみて、エッチしてみたいと思った。』
 次のトモからの返信には、絵文字がなかった。実は、トモから絵文字のないメールが来たのはこれが初めてではない。トモとサイト内でやり取りするようになって、ずっと会ってみたいとは言われていたのだが少女は時期的にすぐ会うことには積極的になれなかったので、受験が終わったら、進路が決まったら、とふんわり返信していた。少女は既にトモに会いに行く気持ちは固めていたけれども、トモのほうがどうも待ち切れない様子で、サイトの監視下から離れて携帯でメール交換するようになって間も無く『会いたい。』と一言だけが届いたのだった。
 そのときの真剣さをまた思い起こさせるメールに、少女も真面目に応えようとした。
『えっ、でもまだ自分には早いから…💦まだ14歳なんです。明後日やっと誕生日🎂』
『まぢかぁ😄でも初体験は自分がいいと思ったときにするもんだよ⤴︎』
『はい💦でもたぶん、次会うくらいには15歳になってるから✨』
 少女は、自分でもわけのわからない返事をしてしまったと思った。明後日以降15歳である自分は、トモと性行為をすることになるのだろうか。15歳でも、早い気がする。なんとなく、16、17歳くらいが良い気がしていた。というのは、読んでいた10代向けのファッション誌の白黒のページによく書いてあることだったからだ。初Hの平均年齢——本当にそうなのだろうかとは思っていた。今日一斉に体育館に集まった同級生になる者たちが、あと1、2年で性行為の習慣を持つようになるなんて思えなかった。
 翌々日、トモから絵文字3倍盛りの誕生日おめでとうメールが届いた。
『ありがとうございます😆💕✨やっと15歳だ〜』
『エッチしたい😫💓』
 15になった少女を、改めて口説きにかかる。
『えっ、あの、じゃあ私のこと好きなの?』
『うん、好きだょ💓だからメールしてるんぢゃん😆💓』
 えっ——目を見開き、唇が震えた。今、私はこの人に属している女ということか——。
『わぁ〜い!😆✨私もトモのこと大好き💓』
 少女は震える手で返信した。
 誰かのものになりたくて、家族以外の誰かと一緒に歩きたくて、でも誰も相手にしてくれなくて、孤独じゃない人々からの視線から逃げ回っていた自分は、15年生きてやっと報われたのだ。ちゃんと勉強も頑張ってきたし、真面目に生きていれば、それなりのご褒美が、あるんだな。うん、よかった、幸せ——。少女は携帯のランプがピンク色に点滅するのを心待ちにした。メールを待つ相手が、自分にもいる——。


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