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夏目漱石『坊っちゃん』のあらすじと登場人物、読書感想文を書いてみた

 これまでに3冊の夏目漱石『坊っちゃん』のレビューをしたことですし、今回は『坊っちゃん』のあらすじと登場人物をまとめ、実際に巻末の解説を活用した読書感想文を書いてみました。


『坊っちゃん』のあらすじ

 あらすじは、以下のようになります。

 親譲りの無鉄砲な性格の坊っちゃんは、二階から飛び降りて腰を抜かしたり、人参畑で相撲を取って作物を駄目にしたりと、いたずらばかりしている子どもでした。そのため、両親や兄から疎まれていましたが、下女の清だけは坊っちゃんのことを可愛がり、「まっすぐでいい御気性だ」と褒めてくれたのでした。
 
 やがて成長して物理学校を卒業した坊っちゃんは、清に見送られて、東京から遠く離れた四国辺の中学校に数学教師として赴任します。そこには教頭の「赤シャツ」をはじめとする、同じ数学の「山嵐」、画学の「野だいこ」に英語の「うらなり」といった、個性的な教師たちがいました。

 黒板に「天麩羅先生」と書かれたり、宿直の際に布団にバッタを入れられたりと、生徒たちからいたずらをされながらも教員生活を送る坊っちゃん。ある日、教頭の赤シャツから釣りに行かないかと誘われ、渋々ついていきます。そこで坊っちゃんは赤シャツと野だいこから、生徒がいたずらを働いたのは裏で山嵐が扇動していたからだと吹き込まれるのでした。

 坊っちゃんは山嵐を疑い、ついには身に覚えのない言いがかりをつけられたために、大喧嘩をしてしまいます。すると今度は、赤シャツの悪い噂が耳に入ります。それはうらなりの婚約者であるマドンナを略奪したというもので、温泉帰りに二人が土手沿いを歩いているのを目撃してしまった坊っちゃんは問いただしますが、赤シャツははぐらかすばかり。ついには自身の増給の話が、うらなりが半ば無理やり九州へ転任することと関係していると知って、義憤に駆られた坊っちゃんは赤シャツの屋敷に乗り込み、決別するのでした。

 山嵐と和解した坊っちゃんは、二人で赤シャツを成敗する計画を練り始めます。しかし赤シャツに先手を打たれて陥れられてしまい、山嵐は辞表を書くことになってしまうのでした。何とか鼻を明かしたい二人は、隠れて芸者と密会しているという噂を頼りに張り込みを開始し、ついに芸者遊びを終えた赤シャツと野だいこが宿屋から出てきて、朝帰りしているところを捕まえます。宿屋に入る際に「邪魔者」だの「勇み肌の坊っちゃん」だのと嘲笑っていたことと、追い詰められてもまだ白を切ろうとしたこともあって、坊っちゃんたちは赤シャツたちを袋叩きにするのでした。

 校長宛てに郵便で辞表を送り、坊っちゃんは山嵐とともに赴任先から出ていきます。そして東京に帰りつくと、まっすぐ清のところへ向かうのでした。清は泣いて喜びます。坊っちゃんもそんな彼女に、「もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだ」と応じるのでした。

主な登場人物


坊っちゃん

 この物語の主人公。物理学校(東京理科大学)卒。無鉄砲さや短気な面を強調されがちですが、赤シャツと野だいこの異常性を見抜いて1か月ほどで職場を去るという、優れた危機管理能力を持っています。また、入るのは楽だが卒業するのが難しいとされた物理学校をストレートで卒業したり、職場の管理職者と先輩を袋叩きにして郵便で辞表を送りつけるという最低の辞め方をした後も、ベンチャー企業にあたる東京市街鉄道に就職する人脈があるあたり、実際はクレバーで周囲の評価も高かったのではないかと思われます。


 坊っちゃんの家の下女。もとは由緒のある家柄の出だったようです。坊っちゃんが四国辺の中学校に赴任するあたりから、体調を崩し始めます。坊っちゃんの生みの親説、作者である漱石の禁断の恋慕相手である兄嫁・登世がモデルだとする説、果ては「キヨ」ではなく「キヨシ」という名の年老いた女形とする説まで、彼女を巡って様々な説が提唱されています。
 清の亡くなった年についてですが、こちらの記事に書いたように、作中の半年近く後の明治39年の2月頃が正しいかと思います。

山嵐
 坊っちゃんの上司にあたる、数学の主任教師で、苗字は堀田。会津出身。たくましいいがぐり坊主で、叡山の悪僧のような面構えをしていることから、坊っちゃんに「山嵐」というあだ名をつけられます。ガサツなところもありますが、下宿先を紹介したり、氷水をおごったり、適度に忠告を与えたりと、なかなか面倒見のいい性格をしています。赤シャツとは対立関係にあります。10章の中学生と師範学校の生徒の騒動の仲裁に入り、新聞に実名で非難されたことで、辞表を書かざるを得なくなりますが、本文を読む限りでは山嵐が師範学校生に暴力を振るう描写はありません(坊っちゃんの方は張り飛ばしています)。

赤シャツ
 健康のためと称して、年中赤いフランネルのシャツを着ている中学校の教頭。東京帝国大学(東大)卒。中学生の弟がいるので、年齢は30前後といったところでしょうか。坊っちゃん同様、他所の土地からやってきた渡りもの。女のように優しい声音で話をして、「ホホホ」と笑います。その癖の強いキャラクターとクライマックスで袋叩きにされるという構図から、どことなくコミカルな印象を受けてしまいがちです。しかし実際はわずか1か月ほどの短期間で、うらなりを九州に転任させ、山嵐を免職に追い込み、さらには坊っちゃんの前任者まで排除した可能性も考慮すると、サラリーマン目線ではかなり恐ろしい人物ということになります。また、赤シャツが直接悪事を働いている描写がないことから、本当は赤シャツは悪者ではないのではないかと考える方もいますが、それに関する考察はこちらこちらでしているので、読んでみてください。

野だいこ
 画学の教師で、苗字は吉川。自称江戸っ子。べらべらした透綾の羽織を着て、扇子をぱちつかせる芸人風の出で立ちから、坊っちゃんから「野だいこ」というあだ名をつけられます。語尾に「ゲス」をつけながら赤シャツの太鼓持ちをし、クライマックスでは卵まみれにされた挙句袋叩きに遭うため、赤シャツ同様コミカルなキャラクターとして認識されがちです。しかしその正体は、坊っちゃんが出て行ったいか銀の下宿先へ翌日転入するという、豊臣秀吉の中国大返しにも勝るとも劣らないスピード感でストーキング行為を働く恐るべき変態なのです。いずれ詳しい研究成果を発表する予定ですが、野だいこは坊っちゃんに対し、一方的な恋愛感情あるいは性的欲望を抱く、ストーカー気質の同性愛者である可能性が高いです。

うらなり
 英語教師で、苗字は古賀。顔色が悪く、青く膨れていることから、坊っちゃんに「うらなり」というあだ名をつけられます。人質に取られた人形のようにおとなしく、お人よしの性格をしていますが、その性格が災いして父が亡くなった際に騙されて家を傾けてしまいます。さらには婚約者であるマドンナも赤シャツに略奪されてしまうという、本作一の不幸な登場人物と言っても過言ではないでしょう。口の悪い人は、そんなうらなりのことを情けないだのうだつが上がらないだのと口撃しますが、彼がその土地に先祖代々住む旧家の家柄であること、中学校の教師という職業や送別会の際に見せた折り目正しい所作から、立派な教育を受けた地域の知識人的な一面があることを見落としてはいけないかと思います。

マドンナ
 遠山家のお嬢さん。旧家のうらなりと婚約関係にあるということは、彼女もまた相応の家柄だと思われます。作中ではいろいろなあだ名の人物が登場しますが、彼女だけは坊っちゃんではなく野だいこからあだ名をつけられています。愛媛県松山では、坊っちゃんと彼女の二人をマスコットのように扱っていますが、彼女は作中で一言も台詞を発していないのは興味深いです。婚約者であるうらなりから赤シャツに乗り換えますが、作中では婚約関係を解消したとする記述はありません。なお、こちらの記事にあるように、作中の赤シャツの芸者遊びは「セックス」であり、彼女の置かれている状況を現代風に表すと、「地味な幼なじみの婚約者から東大出のエリートに乗り換えたものの、そいつが陰でパパ活女子と生でセックスをしていた」ということになります。当時は梅毒の治療法も確立していなかったことを考えると、作者の漱石もなかなか厳しい立場に彼女を追いやったなと思うのですが、どうでしょう。

いか銀
 
坊っちゃんが山嵐に紹介してもらった、最初の下宿先の主人。骨董屋も営んでいます。坊っちゃんの部屋にやってきてはお茶を飲み、掛け軸や硯などの骨董品の営業を仕掛けてきます。6章で坊っちゃんが乱暴で女房に足を拭かせたりして困ると山嵐に相談しますが、後にいつまでたっても骨董品(贋作)を買ってくれないから嘘をついて追い出したんだろうと山嵐の口から語られています。しかし坊っちゃんのあとに転入した野だいこも、当時の最先端の美術教育を受けた画学教師なので、生半可な贋物では騙せないようにも思えます。

萩野夫妻
 
坊っちゃんがいか銀のところを出て行ったあと、うらなりに紹介してもらった第2の下宿先の老夫婦。士族階級の出自で、いか銀よりも丁寧で親切なものの、食事がまずいようです。夫人はうらなりの母と親しいらしく、うらなりが赤シャツにマドンナを略奪されたことや、半ば無理やり九州へ転任することになるという噂は彼女の口から語られます。夫人は悪人ではありませんが、「赤シャツと山嵐のどちらが正しいのか」という坊っちゃんの問いかけに対し、「月給の多い方が偉い」と答える俗な一面もあります。

中学校の生徒たち
 坊っちゃんが教師を勤めることになった中学校の生徒たち。旧制中学は1~5年生まで、今の中学1年生から高校2年生までが通う学校で、何度か留年して20歳近くの生徒もいたのだとか。師範学校の生徒とは仲が悪く、10章では喧嘩騒動が勃発します。はじめは黒板に落書きをしたり布団にバッタを入れたりして坊っちゃんにいたずらを働きますが、喧嘩騒動の後に坊っちゃんが教室に入ると、拍手で迎えて万歳と叫ぶ生徒もいました。
 あくまで名もなきその他大勢の登場人物ですが、上記のような彼らの性質を理解することが、『坊っちゃん』という作品を研究する上で重要になってくるのではないかと個人的には思っています。

『坊っちゃん』の読書感想文を書くにあたってのおさらい


 こちらの記事で書いたように、『坊っちゃん』のまともな読書感想文を書くのは東大生でも難しく、小中学生が取り組むのは至難の業です。そこで私は、巻末にある解説も活用しながら書いてみることを提案しました。

 つまり、

①『坊っちゃん』のあらすじを書いて、②「解説文」の要約をまとめたり気になる箇所を抜粋し、③それに対してどう思うのかを、本文や自身の体験を交えながら書いていくわけですね。

 今回は小学館文庫の『坊っちゃん』の夏川草介氏の解説を活用したいと思います。夏川氏の解説は『坊っちゃん』の一般的な解釈をわかりやすくまとめつつも、それに真っ向から対立する意見を持っているため、文章を膨らませやすいからです。

 前置きはこれくらいにして、実際の感想をご覧ください。

夏目漱石の『坊っちゃん』を読んで リックマン


 私は読書感想文を書くのにあたり、今から100年以上前に夏目漱石によって書かれた『坊っちゃん』という小説を選びました。他の小説と比べてページ数が少ないので、感想文を書きやすいかもしれないと期待して手に取ったのですが、残念ながらそんなことはありませんでした。

 以下、『坊っちゃん』のあらすじです。

 主人公の坊っちゃんは、下女の清に見送られて、四国辺の中学校に数学教師として赴任しますが、そこにいる教頭の「赤シャツ」が悪知恵の働く男でした。自分と敵対している数学教師「山嵐」の悪い噂を吹き込んだり、英語教師「うらなり」から婚約者の「マドンナ」を略奪した挙句、半ば無理やり九州の地へ転勤させてしまったりするのです。義憤に駆られた坊っちゃんは山嵐と手を組んで、芸者遊びを終えて朝帰りしている赤シャツと野だいこを袋叩きにして、清のいる東京へ帰るのでした。

 そんな『坊っちゃん』という物語を解釈するにあたって、少なくない人が「坊っちゃんは損をした」と考えるようです。赤シャツはクライマックスで私刑に遭うものの、社会的に失うものは何一つなくこの後も中学校を牛耳りながら出世していくのに対し、坊っちゃんは教師という職を失い、夜逃げするような形で東京へ帰っていくからという理由です。それに対して巻末の解説で夏川草介氏は、悠々と教師を辞めて、その後街鉄の技手をこなしている坊っちゃんを敗北者扱いするのは筋違いだとしています。

 先日、こんなことがありました。その日の私は、夜遅くまで後輩のフェンシングの練習に付き合わされて、クタクタになりながら特急電車に乗って帰宅していました。私は網棚に荷物を載せて座席に腰を下ろすと、ガムを噛んだり、太ももをつねったりして寝過ごしてしまわないように気を付けました。以前、本を読んでいるうちに瞼が重くなり、気が付けば最寄駅から30分以上離れた終点で目を覚ましたことがあったからです。
 隣には白杖を持った老人が、落ち着かない様子でしきりに首をゆすっていました。

 やがて電車は停まり、特急で停まらない駅で下車する人は向かいの各駅停車に乗り換えるよう、アナウンスが流れました。すると白杖を持った老人は立ち上がり、杖を突きまわしながら向かいの席へ突進していきました。乗客たちは驚き、老人も自分がしたことに驚いてパニック状態になってしまいましたが、乗客たちはすぐに何事もなかったかのような顔をして自分のスマートフォンをいじり始めました。白杖でつつかれた中年のサラリーマンも、口をもごもごさせていましたが、やがて他の乗客たちと同じように、スマートフォンに視線を落としました。

 私は立ち上がって老人の肩を叩き、二の腕を掴みました。
「降り口はあちらです。私が誘導しますから、ついてきてください」
 老人が頷いたのを確認すると、私はホームへ誘導しました。老人はお礼を言って向かい側の各駅停車に乗り換えようとしますが、まだ動揺しているらしく、今度は電車へ突進していき、白杖で車両をばしばし叩き始めました。

 私は急いで老人のところへ駆け寄って二の腕を掴み、
「大丈夫です。私と一緒にこの電車に乗りましょう」
 と言いました。そして老人を電車に乗せて、乗降口の手すりを掴んだのを確認し、再びホームへ降りました。
 特急電車のドアが閉まったのは、その時でした。
 まずいことになったぞ、と思いました。網棚の上に、荷物が置きっぱなしにしたままです。剣や防具、メガネやスマートフォンやポケットwifiもバッグに入っています。このまま終点まで向かって荷物を回収すれば、家に着く頃には夜の12時を過ぎてしまうでしょう。回収作業は明日にするという手もありますが、午前中に買い出しを済ませて、午後に荷物を取りに行くとなると、帰る頃には日が暮れてしまうのは間違いありません。
 ああ、とても面倒なことになってしまった。
 こんなことなら――。

 途方に暮れている私のところに、一人の女性が近づいてきました。
「もしかして、特急車両の方に荷物を置きっぱなしにしていましたか? 下車する駅を教えてください。荷物を回収してもらえないか、電話で聞いてみます」

『坊っちゃん』の解釈を巡っては、私は夏川氏の解説を支持します。「いたずらと罰はつきもんだ」と考える描写があるように、自分のこれからやろうとしていることが免職や逮捕につながる可能性があることを、坊っちゃん自身わかっていたはずです。それでも赤シャツたちを成敗して教師を辞めて、結果的に清と再会して最後を看取ることができたのです(教師を続けていたら、手紙で彼女の死を知ることになったでしょう)。そういう損得勘定を超えたところに『坊っちゃん』という作品の面白みがあるのであって、一か月で教職をドロップアウトしたぐらいで損をしたと解釈してしまうのは、令和の時代にそぐわないと思うのです。

 以上が私の『坊っちゃん』という作品に対する解釈ですが、一方で損をしたと考える人の気持ちも、全くわからないというわけではありません。私自身、10年近く社会人生活を送る中で、ある一つの真実に――認めたくはありませんが――気付いてしまいました。
 それは道義的に正しいことをすると、ほとんどの場合において厄介な目に遭い、損に繋がるということです。

 真冬の路上で眠っている酔っ払いを助け起こし、全身ゲロまみれにされました。同僚が勤怠管理を誤魔化して顧客に迷惑をかけていることを会社に報告し、チクリ屋と白い目で見られたこともあります。2時間以上説教をして女性従業員を辞めさせた上司に、あれはパワハラにあたるし社内の空気も悪くなるのでやめてくださいと抗議したら、案の定目をつけられて仕事をしづらくなりました。
 首を突っ込んだら厄介なことになるとわかっていながらも介入し、その度に手痛い目に遭わされてきました。

 これは断言できますが、もしも損をしたくなければ、見て見ぬふりをするのが一番です。目の前の出来事から目を背けて、スマートフォンをいじり、私には関係ないという顔をしてしまえば、失うものは何もありません。実際のところ、私もそうしようと思ったことが何度もあります。そのせいで酔っ払い凍死しようが、顧客の信用を失おうが、殺伐とした雰囲気で働くことになろうが、視覚障碍者が線路に転落しようが、私が損をするわけではありません。全くもって、私には関係ないんです。

 それでも、あの時の女性のように手を差し伸べてくれる人がいたら、あるいは損を引き受けることに意味を見出せるかもしれません。

 



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