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海軍で使われた「軍人精神注入棒」の話ー殴れば鍛えられるという暴力信奉と、上下関係維持のためか

 信州戦争資料センターでは基本的に戦時下・戦時状態下の庶民の資料を集めていますが、戦争の本質を伝えること、庶民がかかわること、といった分野で、軍隊と直結するものも少しは収蔵しています。表題写真と下の写真は、軍人精神注入棒。日本海軍で使われた実物です。同様の棒は、すくなくとも日中戦争のころには海軍の各地で使われていたとみられます。

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 墨できりっと文字が書いてあります。

持ち手部分。転載禁止

 持ち手の部分には滑り止めのひもが巻いてあり、汚れも残っています。おそらく何かにひっかけるためにあったであろう、わっかは切れています。重さに耐えられなかったのでしょうか。

軍人精神注入棒としては大きな部類。転載禁止

 この軍人精神注入棒、長さ113センチ、重さ1.9キロあり、太い部分の断面は長円形で長い方で直径8センチ、短い方で7センチ。文字とその反対側に向けて長くなっています。文字を上にして持ち、殴るという形状です。野球のバットが1キロぐらい。マスコットバットが2キロぐらいで、軽いつるはしが2.1キロぐらい。ずっしりしていますが、振り回せないわけではありません。まして、戦前の人たちは今の私たちに比べて普段から重い物を持ち、歩く距離も多かったから腰の力が違います。そしてカッター訓練に明け暮れていた海軍軍人なら、問題なく使えるとみてよいでしょう。
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 この品はオークションで入手しましたが、出品者によると、海軍横須賀鎮守府に出入りの軍医が所持していたものを譲り受けたとのこと。久里浜から出たので、海軍通信学校で使われた可能性もあるとのことでした。
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 さて、この軍人精神注入棒ですが、こうしたバットのように整形したものと、太い木の棒に文字を書いたものが存在します。バット型のものは業者が納品したか、適当なものを購入したとみられ、木の棒を使ったものは部隊で手近な材料で作ったものでしょう。重さや長さがまちまちで、特に規格があったわけではありません。炊事兵が大きなしゃもじで叩かれたり、艦上でロープに海水を浸したもので殴られたりと、さまざまな物が使われました。
 一方、いろんな人の手記や証言から、海軍の各部隊や軍艦に共通してこの「軍人精神注入棒」(形状ゆえか、バッター、バットとも言われる)が存在し、殴り方、殴られる側の受け方は共通しています。殴る場所は尻、殴られる側は足を開き両手を前の壁などにあてるか上にあげる、というものです。

いかにも頑丈な棒。転載禁止

 どのような時に使われていたのか。長野県諏訪市の元海軍軍人Aさん(故人)にうかがったことがあります。Aさんは1945(昭和20)年5月、横須賀鎮守府に徴兵され、浜名湖畔の浜名海兵団に入団。入団翌日、集合した新入団員の前の檀上に下士官が立ち、軍人精神注入棒を掲げて「この棒が何だか知っているか!」と大声を挙げました。もちろん、みんな知っていますが、だれも返事をしません。下士官は「軍人精神注入棒だ! これで徹底的に日本海軍軍人にたたき上げてやる!」―Aさんは「この場面、一生忘れることはありません」と当時の心境を語ってくれました。

 Aさんは「バットをくうのは(軍人精神注入棒で殴られるのは)、就寝前。『たばこ盆出せ』(就寝前の自由時間開始の合図)と放送が流れた後。バットをくうやつが整列させられる。基本的に班単位。『〇班整列!』と。殴るのは罰直と呼ばれる担当の下士官。袖に善行章が何本も入っている古株です。自分は2回殴られました。棒で思い切りぶんなぐるんです。1本もらっただけでも30センチぐらいの長さの黒ずみが尻にできる。何本も食らったら、本当、死んじゃいますよ。でも、罰直下士が言っていたのを聞いたことがあります。『たとえお前たちが死んだって、善行章一本取ったらいいんだ』と」
 「けつが黒ずんで、歩けないほどになったやつもいます。軍医に見てもらうこと? 命令がなければ、軍医のところになんか行けないんですよ。バットをくらうのも、上官の命令なんです。その命令でけがしたから軍医に見てもらいたいなんて言うことできないし、言ったところで軍医のところに行かせてもらう命令は出ないですよ」

 班員がまとめて殴られるのは、軍艦を大勢の人間で動かすので皆がミスなく動く必要があり、連帯して責任をとらせる―という理屈付けがあったようですが、何かにつけて競争させられ、成績が悪いと殴られる日々。「ある時、食事前に各班で5分間ハエトリをしました。素手で捕まえるんです。捕まえた数で順位を決めるんですが、私の班は後ろから2番目でした。これはやばいかなと思っていたら、案の定、夜に『〇班、〇班、整列!』と。何しろ、ささいなことで殴られていました」
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 久里浜の海軍通信学校に入った少年兵の手記を見ると「山本五十六連合艦隊司令長官の戦死に合わせて気合を入れる」「カッターの競争で負けたから」「モノをなくしたから」「銃剣術の防具のしまい方が悪かったから」といった、日常の行為に合わせて教官から殴られていたことを記録しています。長野市出身のゼロ戦パイロット原田要さんも、自身のドキュメンタリー映画の中で、殴られたことと、教官になったときは自分がされたように殴ったことを打ち明け「当時、それが強い軍人を育てることだと思っていましたから。今では(殴ったことを)反省しています」と話しています。
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 つまり、軍人精神注入棒で兵隊を殴ることは、海軍軍人を育てるため必要な「教育」とされていたのです。そのためとはいえ、何か理由をつけないといけない。兵隊に落ち度があればもちろんのこと、そうでない場合でも教育と関連づけて殴られていた、という実態が浮かび上がってきます。
 そしてこれは推測になりますが、古参兵が単にうっぷんを晴らすため殴っていた事例もあったのではないでしょうか。また、軍隊には階級がありましたが、こうした暴力的な方法で上下関係を強固にする視点から黙認していた可能性も考えられます。こうした環境であれば、殴っていても誰も問題にせず、適当な棒の中には、そんな理由で作られたものもあったかもしれません。
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 以上、わたしなりに情報を突き合わせ、信頼できそうな内容をまとめました。こうした情報とともにモノを残すことで、モノの真実に近い姿が見えてきます。1個のモノだけ、1人の証言だけ、1枚の写真だけで、すべてをわかった気になってはいけないでしょう。特に写真については「5W1H」が明確でなければ、あまり役には立ちません。そして、証言は証言者の感情、憶測、それに事実をそれぞれ分離させて確認することも大事です。
 資料の本質を見極め、その時代の実情にできる限り迫る。この姿勢を大切にしていきたいと思っています。

 参考までに、当方所有の軍人精神注入棒の写真は、長野県飯田市の平和祈念館に提供させていただきました。お立ち寄りの際はご覧下さい。

ここまで記事を読んでいただき、感謝します。責任を持って、正しい情報の提供を続けていきます。あなた様からサポートをしていただけますと、さらにこの発信を充実し、出版なども継続できます。よろしくお願いいたします。