H×Hガチ考察 『ビスケット=クルーガー』

──強さと愛らしさという矛盾ッッッ!
この矛盾をひたすらに鍛練の密度を上げることによって補い続ける──

それによってこれが!

こうなるのだ!

逆じゃね?と思われる方もいるかもしれんが、本来の姿がそもそも上なので何も間違ってはいない(´・ω・`)

さて、今回はタイトルにもある通り二ツ星ハンターのビスケちゃまに関して考察していきたいと思います。

彼女に関して語ることは多いですが、何よりも筆者が気になったのは彼女が持つその肉体!

エロい意味ではない!断じてない!たぶんきっとめいびー!

そんな彼女だが、36巻にて再び本来の姿へと戻った際にこんなことを言っている。

「長年強く願い続け少しずつ現在の変化に行き着きました」と。

ビスケによる説得↓

……これは説得されたウェルゲー隊長を責められない……!(ゴクリ)

とまあそれはいいとして、一応私のなかで結論は出ているのだ。何故ならば肉体操作に関しては例が既に序盤から存在しているからである。

そう、イルミである。その能力の幅は広く、彼は針によって自らの容姿をかなりの範囲で操作することを可能としている。ここにはないが、ヨークシン編にて彼はヒソカにも変装ならぬ変身をしているのだから。

さて、ビスケである。彼女の能力は彼女自身も言うとおり変化系である。そんな彼女が自らの肉体をあそこまで変貌させることに必要な系統は操作系。六性図では見事に正反対に位置している。

『制約と誓約』の際にも述べたが、オーラを扱う念能力において各系統の適正は非常に重要になってくる。これは実際の武術武道と違い、念においてはその適正が一目で見ることが出来るからだ。そう、水見式である。

彼女は自らが変化系であると知っており、それに則した能力を有している。それが『魔法美容師(マジカルエステ)』のクッキーちゃんである。多種多様のマッサージを習得し、その中には睡眠時間を遥かに短縮する能力があると聞いてやってほしくなった読者もいたことだろう。そしてこの能力を具現化と認識している方もいるとは思うが、この能力はあくまで変化系である。再度述べるが、姿形を与えるのに具現化である必要はない。オーラはオーラのままでも物理的な影響を有しており、具現化する必要とはそこに別途の能力を付与する為である。

彼女は能力を戦闘用に開発していない、作中の念能力者では稀有なタイプである。他にはツェズゲラの仲間が用いた相手の居場所を関知する能力などがあるが、今回はその話ではない。ここで重要なのは、彼女にとって戦闘における念を持つ必要がないということだ。

これはすなわち、彼女自身の高い念能力者としての実力と高い身体能力によるものである。忘れがちだが、念の基本作用として運動エネルギーを乗算させる効果があり(身体能力そのものを爆発的に上昇させているわけではない)、彼女は強化系と隣り合っていることから基礎的な念能力のみで数々の戦いを渡り歩いてきたと思われる。

これを示すのがゴンとゲンスルーの戦いである。
あの戦いはゴンが未熟、ゲンスルーはゴンに手加減する必要があったとはいえ両者の念能力者としての実力は歴然。ゴンは敗北寸前に追い込まれる。だが、このとき相手していたのがビスケであればどうだっただろうか。ゲンスルーの仲間を一撃でぶっとばした点からも、彼女の攻撃力はゴンの比ではない。これはオーラ量や単純な身体能力の違いでもあるが、最も大きな点は彼女自身の“流”にある。オーラの配分を適切に分配・移動させる術であるこの“流”は念能力者同士の戦いにおいて必要不可欠であり、ビスケがこの技術においてトップクラスであることは疑う余地がない。
つまり、操作系や具現化系といった特殊なタイプを除いて、念の戦いとは基本能力を如何に応用して戦うかでもあるのだ。

さて、ビスケの肉体に話を戻そう。彼女は武術家だ。それも実年齢57歳。現実的に考えて、この年齢まで武術を続けている人間は存在こそすれ若々しさとは無縁でもある。だが念能力の副作用でもある肉体の活性化によって彼女の肉体は著しく若々しく保たれている。彼女は自身の本来の姿を醜いと断言した。つまり、強くなることは望んでいても醜くなることは望んでいなかった。ここに、彼女が能力に目覚めたきっかけがある。

通常、念能力はイメージをオーラに伝える修行などを経て形とする。だが、ここには例外が存在する。

オーラの威力や精度がイメージに左右されやすいことは以前も述べたが、これは何も既に完成しているオーラに限らない。フラットな状態の、ニュートラルなオーラにもその影響は強く及ぼされるのだ。

その分かりやすい例が、天空闘技場200階クラスの三人組である。

彼らは総じて“悪意のあるオーラ”による洗礼を受けて念能力者になったという経緯がある。では例えば、これによって肉体の一部を欠損した人間が念能力に目覚めた場合どうなるだろうか。

当然、失った体を求めるようになる。或いは、自身のコンプレックスをより強く追い求めるようになる。

彼らは、作中でも描写されている通り単にオーラに目覚めているだけの人間に過ぎないとも言える。“発”こそ使えるものの、それは使えるというよりは偶発的に目覚めてしまったものに近い。サダソの腕などはまさにそれだろう。

そして、これは念能力に目覚めた人間全てに言えることだ。厳しい修行によってイメージの出し入れを可能とした人間であっても、その想いはオーラへと影響を与える。結果それらの感情が暴走してしまえばどうなるかは、ゴンが辿った末路を見れば理解できるだろう。

そしてビスケは作中の台詞からも分かるとおり、強さと引き換えに至る己の肉体に徹底した嫌悪を抱いていた。だが同時に彼女は武術家であり、強さを追い求める存在である。これらの矛盾は、通常であればどっちつかずであるか、あるいはどちらかを追い求めることで自然と消滅する。だが、彼女は諦めきれなかった。強さを認めつつも、醜くなる自身の姿を認めることをしたくなかった。その結果、彼女は本来であれば対極に存在する系統である操作系能力に目覚めることになる。彼女の言葉から、その変化は徐々に始まったのだろう。最初は困惑した筈だ。なにせ鍛えても鍛えても弱くなっていくのだから。

だが、そこはビスケット=クルーガー。自らを弱体化していく念に気付き、それを解除する術を編み出してしまった。それが、ビスケの姿が極端に変身可能とする能力の正体である。この能力は、数十年を経て蓄積された彼女自身の強さと愛らしさという、求める矛盾した二極を実に優雅に表している。そして彼女は、この能力を理解していない。するつもりもないのだろう。ふっきれてはいても、そんな行為は自らのコンプレックスをほじくり返すのと同じである。そして一度念能力として発現してしまったならば徹底して利用してやろうという強かさ。

彼女が持つ二つの姿とは、そんな彼女自身を表した姿でもあるのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?