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【科学者#012】趣味で有名な数学の謎を残した男【ピエール・ド・フェルマー】

本業が別にあり、趣味で天文の研究していた科学者として、#004ではコペルニクスを紹介しました。

今回紹介するのは、趣味として数学の研究をし、パスカルと共同で確率論の基礎を作ったり、そして有名な『フェルマーの最終定理』を残した、数論の父と呼ばれるピエール・ドフェルマーを紹介します。


ピエール・ド・フェルマー


フェルマー

名前:ピエール・ド・フェルマー(Pierre de Fermat)
出身:フランス
職業:法律家
生誕:1607年
没年:1665年1月12日(57歳)

フェルマーの誕生日は良く分かっておらず、現在は10月31日から12月6日の間ではないかと言われています。


業績

フェルマーの名前がついているものとしては、
フェルマーの原理
(2点間を通過する光は、それに要する時間が最小となる経路をたどる)
フェルマーの小定理
(素数の性質についての定理)
フェルマーの最終定理
ですが、この中でも一番有名なのがフェルマーの最終定理です。


フェルマーの最終定理

フェルマーは、古代ギリシアの数学者ディオファントスの『算術』を読み、その内容から考え付いたことを余白に書き残しておく習慣がありました。
そんなフェルマーの書き込み入りの『算術』が世の中に出たのは、フェルマーが亡くなった後の1670年に息子のサミュエルが出版したからです。

フェルマーの最終定理

あくまでも本の余白に書き込まれたものなので、十分な余白がないところもありますし、さらにフェルマー自身よく証明を省略していました。

フェルマーの書き込みは、大部分は真実か間違えか(証明されたか、あるいは反例が挙げられたか)は決着がついたのですが、どうしてもひとつだけ誰も証明できずに長い年月が経った問題がありました。

その問題が、いつしかフェルマーの最終定理と呼ばれるようになります。

ちなみに、フェルマーの最終定理は、
3以上の自然数nについて$${ x^n+y^n=z^n}$$となる0ではない自然数の組み合わせが存在しない
というものです。

n=2の場合は$${3^2+4^2=5^2}$$となり成り立つので、n=3以上となります。

フェルマーが本の余白にこれを書いたとき、次の言葉を一緒に書いています。

証明を発明したが、それを記すには余白が狭すぎる

このフェルマーの最終定理に決着がついたのは1995年で、かなり長い間多くの数学者の頭を悩ませてきました。

解決したのは、プリンストン大学の教授のアンドリュー・ワイルズで、アンドリュー博士は10歳のときにフェルマーの最終定理に触れ、そしてフェルマーにあこがれて数学者を目指したらしいです。

とある法律家が本に書き込みしたものが、330年間多くの科学者が誰も証明できなかったとなると、フェルマーの凄さが分かります。



生涯について

フェルマーの本職

フェルマーは本職が法律家なので、生涯についてあまり詳しく分かっていません。
簡単になっていしまいますが、どんな経歴だったかを紹介します。

フェルマーの父親は、皮革商人でフランスのホーモン・ド・ロマーニュの第二領事でした。

フェルマーは大学では法学を学び、大陸法の学位を取得します。
ちなみに大陸法とは、西ヨーロッパ大陸で発展・採用された法のことを言います。

そして、大学卒業後は弁護士兼政府職員として働いていました。

1631年には、母親の従姉妹と結婚をしています。

1631年5月14日には議会の下院で働き、1638年1月16日には上院に任命されます。
さらに、1652年には刑事裁判所で最高レベルに昇進し、裁判官として働きます。

この時期、1650年初頭はヨーロッパでペストが流行しました。
フェルマーもペストに襲われて、1653年に誤って死亡が報告されたらしいです。


趣味としての研究

趣味として数学を研究していたフェルマーですが、他の学者とも交流がありました。

パスカル

フェルマーは、ブレーズ・パスカルと共同で確率論の基礎を作りました。


デカルト

それから、ルネ・デカルトと文通をしており、デカルトとは独立に解析幾何学を創案します。
デカルトは二次元で理論を考えていたのに対して、フェルマーは三次元空間まで考えていました。

実は、フェルマーは他の科学者と対立したこともあります。

まずは、フレニクル・ド・ベッシー(1604年~1674年)がある日フェルマーに手紙を送ります。
手紙の内容はフェルマーの理論に対しての怒っており、これに対してフェルマーは返信をします。

しかし、そのフェルマーが書いた返信に対して、ベッシーはからかわれていると感じたため、さらに激怒します。

さらに、フェルマーはデカルトも対立関係になります。
ある日フェルマーはデカルトの論文に意見を求められ、文章を送りました。

その文章をデカルト見て、自分の理論を過小評価されているように感じて激怒します。
そして、デカルトはそのフェルマーのその文章を批判します。

ちなみに、このことに関しては、最終的にはフェルマーが正しいと証明され、デカルトは自分の過ちを認めます。

しかし、その後デカルトはフェルマーに対して数学者、そして思想家として不十分であると批判します。

デカルトは、その当時でもかなり権力があったので、フェルマーの評判を下げたのではないかと言われています。


フェルマーという科学者

フェルマーの最終定理は、あまりにも長年解けなかった謎として有名ですが、実はフェルマーがどういう人物で、本職が法律家ということはあまり知られていないと思います。

科学界の権威であるデカルトとも対立関係にあったこともあり、さらにフェルマー自身趣味として数学をやっていたので、後世に名前が残らないかったかもしれません。

フェルマーが歴史に埋もれることなく、フェルマーの凄さが少しでも伝えることができたなら嬉しく思います。


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