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逆さになる「バベルの塔」

 復活祭がコロナ禍によってイースターっぽくないままに終わった。気がつけば、西方では明日から、東方では6月7日から聖霊降臨日(ペンテコステ)である。ローマとカンタベリーのオンライン礼拝のニュースをみて、今朝ふと思った。

 「バベルの塔」の逆転は、どこに位置付けるべきか。答えの一つをプロテスタントの伝統に求めれば「それはペンテコステだ」ともいえる。

 これらはセムの子孫であって、その氏族とその言語とにしたがって、その土地と、その国々にいた。これらはノアの子らの氏族であって、血統にしたがって国々に住んでいたが、洪水の後、これらから地上の諸国民が分れたのである。
 全地は同じ発音、同じ言葉であった。時に人々は東に移り、シナルの地に平野を得て、そこに住んだ。彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。
 時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、言われた、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。
 こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。
 セムの系図は次のとおりである。セムは百歳になって洪水の二年の後にアルパクサデを生んだ。(創世記11章)

 この旧約聖書の記述が、新約聖書の出来事に対応しているという解釈だ。

 五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。
 さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。
 そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。(使徒行伝2章)

 たしかに、①人々が一カ所に集まり、②そこに天から神の力が下り、③言語に変化が現れる、という三点において、バベルの塔と聖霊降臨はよく似ている。また神学的には、イエス・キリストの十字架と復活によって、ネガティブ(バベルの離散:裁き)がポジティブ(聖霊による集合:祝福)に反転したというのも理解しやすい。

 さらっと読めば、誰でも気づくような類型なので、とくに深く考えなかった。しかし、果たして「聖書」は、イエス・キリストの出来事を中心に、このように対称構造だけで読めるものだろうか。図にしておこう。

A
     B
            C:キリスト
     B'
A'

 つまり旧約の出来事が順次A→B→Cとキリストに向かい、新約においては、キリストを起点に、旧約がB’→A’と逆展開して完結するような構造なのだろうか。たしかに、「創造、堕落、贖罪、終末、完成」という見立てはわかりやすい。ただ、これはあくまで見立てである。神学が仮庵であることを忘れてはしかたない。

 では「バベルの塔」が逆さになる日はいつなのだろう。一つのヒントは、創世記10章末尾にある。上掲にも太字で示したが「その氏族とその言語とにしたがって、その土地と、その国々にいた」とある。すなわち、バベル以前に言語は分かれていたのだ。

 「バベルの塔」の出来事は、言語の再分割だったのか。一つの見方は、標準語と方言と見なすことである。しかし、キリスト教学者・芦名定道は、さらに踏み込んでいう。「バベルの塔」という中央集権に「帝国」を見出し、行間に征服され抑圧された諸民族・諸言語を見出すのだ。

 この見立てにそって解釈すると「バベルの塔」に対する神の介入は、帝国の崩壊を意味し、言語の混乱は、むしろ抑圧され周縁化された人々の復活と勝利の物語へと変わる。「言語」という、それぞれの民族文化と人生の物語を回復する道筋には、バベルの塔の崩落=帝国崩壊による瓦礫と砂塵が舞っているのだ。

 したがって、あらためて今朝考えてみると「バベルの塔」は、とくに「聖霊降臨日」に対応していないのではないか、と思った。では、何に対応しているのか。

 いわゆる「主の晩餐」である。聖なるパンと葡萄酒においてこそ、リバース・バベルが起きている。バベルの塔を逆転させたのは、天から下り、王であることを捨てた独りの男の磔刑だった。帝国を建設し、大群衆で天への階段を築き、神々たらんとした人々とは違う、神との孤独を選び続け、つねに帝国に足蹴にされた人々の側に立った男が、バベルの塔をまるごと逆さにしたのだ。

 その男との約束を覚え、その男と食卓につくことが、全キリスト教会の「パンと葡萄酒」の意味である。だから使徒たちは葡萄酒に酔うのではなく、聖霊に酔えと語るのだ。パンと葡萄酒を受ける、聖霊を受けることによって、破れて四散した人々は、キリストの身体のように一致して動き出す。乾いた骨に命が戻り、荒野に道が敷かれ、荒地に川が流れ始めるのだ。そして、物語は復活する。

 そういえば、ちょうど3年ほど前に、映画『Arrival』の原作、テッド・チャン『あなたの人生の物語』冒頭に収録された小説を読んだ。明らかにシュメール語の知識を下敷きにした「バベルの塔」に関するSFで、楽しかった。

 また、映画化された「あなたの人生の物語」は言語学者ルイーズが世界中に現れた宇宙人に接触し、その言語を解明する中、人間の時制感覚を問われながら、自らの人生を受け入れていく物語だ。バベルの塔に関する話と、言語の時制が違う宇宙人とのファースト・コンタクトを描く話が一緒に入っているのは納得してしまう。

 以上、「バベルの塔」が逆さになる日について考えた。明日から2週間ほど、全世界23億人のキリスト教徒が聖霊に酔う。風よ、起きよ、聖霊よ、疾く来たりませ。

 ところで日記によれば、ちょうど3年ほど前、ぼくは大阪・中之島の国立国際美術館で『ブリューゲル「バベルの塔」展 16世紀ネーデルラントの至宝―ボスを超えて―』に足を運んでいる。長いが抜粋して引用しておく。以下は余談である。

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・・・↓当時の日記↓・・・

 2017年10月5日。 件の有名な「バベルの塔」の絵の前には行列。最前列で観るには並ばねばならないらしい。正直、そこまでしてもなと思ったので、肩越しに、じーっとみて観了。ヒエロニムス・ボスにしてもそうだが、人類史・文明史500年の再評価の時期なんだなと思った。

 さてこの「バベルの塔」(1565 年頃、ブリュッセル時代)の見方についてだが、中々おもしろい。描いたピーテル・ブリューゲル(Pieter. 1525-1569)は今でいうオランダ地方の人文主義者であり画家であった。農民生活に通暁した知識人である。

 よくある見方としては「バベルの塔」が少し傾いているので、聖書の「砂の上に建てられた家」の譬話にかけて、当時のカトリック教会を批判しているというものがある。また人間が制御できない技術の象徴としての高い塔、その結果としての人災含みの自然災害の例えにもよくなる。

 時は宗教改革時代、カトリック批判というのは、さもありなん話である。しかし、そもそもそういう人は当時膨大にいた。中世の終焉には、誰もが人間の罪責性を自覚したのだ。

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 ところでウンベルト・エーコはアダムが神と何語で話したのかを考えた。いわゆるエデンの言語、完全言語の探究である。言語の問題から「バベルの塔」を考えてみると、興味深い。創世記では、神による世界創造、人類の創造と堕落、その子孫たちの話が展開されている。ノアの洪水後、人類はセム・ハム・ヤペテの末裔として繁栄した。セム系からは、アブラハムが出て、彼がいわゆる一神教の祖となる。

 本文に語らしめると、10章では言語で別れて住んでいたにも関わらず、11章バベルの直前では「同じ言葉を使って」いるという。どういうことだろうか。別に聖書が矛盾している云々という知能のない阿呆な話をしたいわけではない。

 一見矛盾する二つの記述を貫く著者の視点、内在的な論理は何か、どう説明が可能なのか、ということが問題になる。では何なのか。僕が前々から思っていたのは、方言と標準語のような違いだったが、指導教官より聞いた話では、この矛盾の間に「帝国」を挟めばいいらしい。なるほど。

 すなわち「帝国」というのは、統治のために文化≒言語を画一化したがるものなのだ。帝国の論理による統一、一元化の原理が働いていることを、10章と11章の間にみるという話である。言い換えれば、自然に発生した言語の違いとは別に、人為的な統一をもくろむ言語の問題である。余談ながら、これは、歴史的・通時的な言語学が前提していた「自由な人間主体」と構造主義的・共時的な言語学のいう「規定された主体」の問題である。平たくいえば、サルトルとレヴィ・ストロースの違いとなる。

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 そして、レヴィ・ストロースの神話論にならえば、神話というのは人間が抗うことのできない二項対立の問題、生死、男女、自然と文化などの葛藤を次第に解決した結果生れたものであるという。彼は、聖書の深層構造にこれらの対立とその解決をみて、それを救済史として見なした。旧約のバベルという言語の混乱から、新約のペンテコステ(一と多の豊饒な均衡)へとつながる人類文明史のダイナミズムを読んだと言える。

 つまり「バベルの塔」という言語の問題に込められた神話の意味は、一元化する帝国の原理に対して、対抗する論理の存在である。大胆にいえば、神は帝国から人を救い出す、言葉と文化を取り戻す側に神がいるという話になる。

 ハム系はニムロドのバベル、ウルク、アッカド、ニネベという都市文明が続き、それらはソドムとゴモラ、カナンを支配するアッシリア帝国へとつながる系譜となる。都市文明のハム系と周縁で流浪するセム系、その権力構造と言語の相克問題が「バベルの塔」という神話性を帯びた歴史的記述に結実している。

 ではなぜ神は「バベルの塔」建設を止めたのか。それは、まさしくそこに「帝国の原理」という人間疎外の問題が含まれていたからである。たとえば原発問題は、人間が制御できない技術の問題として引用されがちであるが、そう引用するならば、人間が持つ言語の問題(天災は人災を含む事実)を踏まえねばならない。天災が起きるとき、そこには人間疎外としての相互不和が含まれている。その相互不和こそ、帝国の問題性と言えよう。

 原発に引きつけていえば、なぜ原発が必要だったのか、なぜ原発が今の配置になっているのか、という問題を洗いざらいにしなくてはならない。それが、自然に別れた言語の問題を回復していく一つの視点である。一応いっておくと、僕は原発は必要なら使うしかないと思っている。生活を改めるつもりはない。ただ、問題を整理するのにはやぶさかでないのだ。

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 観終わって外に出て、SF作家テッド・チャンの短編「バビロンの塔」をまた読もうと思った。ぼんやりと上記のようなことを考えながら、結局ブリューゲルはこの絵に何を込めたのだろうと思った。中之島から淀屋橋へ歩く。

 せっかく大阪まで出てきたので、贔屓の喫茶店へ。途中、なんばで約七年働いたメモリくんを200円で引き取ってもらった。誰かに上げようにも古くて使えないらしいし、まあ部品屋で何かに使われるほうが良いだろう。200円をどう使うか考えたが、通りがかりにみたガチャを回したら、ポプテピ出現。ちょうどメモリとグラボ換装の助言をポプテピ関係者より頂いたので、良い記念になった。かくしてメモリくんは200円という価値に変換され、その価値は可能性となり、ポプテピ・缶バッヂへと変貌した。グッド・メモリー・オブ・メモリ(白目)

 御屋敷に御帰宅。思いつきであるが、記念に買ったヒエロニムス・ボスのカップに珈琲を淹れてもらった。幸せである。珈琲2杯でぴったりになった。なんと御屋敷の珈琲に合わせて作られたグッズだったのか。

 その後、ひたすらUFO事件クロニクルを読み、読了。なんとか書評に回したいが媒体的に厳しいかもしれない。しかし、書くだけ書いてみたい。

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