本多正信は、徳川家康が一番信頼を置いていた参謀です。
時は関ヶ原の戦いの前年(1599年)のこと。
五大老の一人である前田利家の死去をきっかけに、豊臣家の文治派である石田三成が、武断派の加藤清正や福島正則に襲撃される事件(石田三成襲撃事件)が発生します。
このとき石田三成は皆の意表を突いて、あろうことか影で糸を引いていた徳川家康の元に助けを請います。徳川家康にとっては生かすも殺すも家康次第。ですがここで石田三成を殺してしまっては悪者が居なくなってしまう。
(文治派と武断派の仲を引き裂き、豊臣家を内部崩壊させることが難しくなる)
この石田三成の処遇について、本多正信は気になって徳川家康に尋ねます。徳川家康は「わしもいま、そのことを考えている最中よ」と返答します。それを聞いた本多正信は「それを聞いて安心致しました。」と言ってその場を退出したと云われています。
正信は家康の「考えている最中だ」という言葉だけで、家康が今何を考えていて、これからどう行動する予定であるのかまで理解できたといいます。
「本当かよ!?」と思わず突っ込みたくなるエピソードですね(笑)。後世の創作のような気もしますが、本多正信と徳川家康の信頼性の高さを窺うことができるエピソードです。
徳川家康と本多正信の関係は、「水魚の交わり」に例えられることがあります。
魚は水がなければ息絶えてしまいます。「水魚の交わり」とは、そういった欠かすことのできない存在や関係性を指す言葉です。それほどに徳川家康と本多正信は、お互いの呼吸や思惑を理解し合っていたと云われます。
余談ですが、徳川家康が死去した直後、後を追うように本多正信も息を引き取ります。まさに「水魚の交わり」のような主従関係でした。