村上光照(曹洞宗僧侶)
田口ランディ(作家)

Webサンガジャパンでは今年1月22日に遷化された伝説の禅僧・村上光照老師の追悼特集を4回(全7配信)にわたりお送りしてきました。今回は『サンガジャパンVol.13    無常』(2013年)に掲載した、老師と田口ランディ氏の対談「ブラフマン世界の自然と仏教の解脱」を再録します。老師の仏教世界が明晰に説かれる貴重な対談です。前後編の2回に分けてお届けします。


一    禅って何ですか?


「人間」として十界を生きる

田口    村上老師とお会いすると決めてから、坐禅をはじめてみたのです。今、短い時間ですが、朝と晩と坐っています。

村上    禅道場へ行かれたの?

田口    いえ、お寺の坐禅会に。いくつかのお寺をうかがってみたのですが、指導の禅僧の方があまりにかしこまっていると、なんだか可笑(おか)しくて……。無理していらっしゃるように感じてしまうんです。若い女性もたくさんいらしていたのでお話を聞いたら、「二年ほど続けているけれど、ほかの人よりも坐れないので、しんどくなっているところです」とおっしゃっていました。どうも坐禅というものがよくわからないんです。ぜひ、教えていただけないでしょうか。坐禅とどう向かい合ったらいいんですか?

村上    んー、向かい合うことをやめる。手つかずのほうへ。前ばっかり見てきた自分が後ろへ引き戻されるようにね。求めることまで反対になる……回光返照(えこうへんしょう)という言葉はご存じ?    外に向かっている意識を内に向ける。おのれ自身に正直になる。きっかけはどっか外にあるかもしれんけど、結局おのれ自身のすばらしさ、ここに自分が今存在しているそのわけ、その大本に、もう一度しっかりと足をつける。
人間は世間一般を、眼耳鼻舌身の五根のその先で、外につくっているでしょう。見たり聞いたり……、すべて外に世界がある。科学だって外にだけ物質現象を論理的に構築する。それをやめてしまう。やめるひとつのあり方(法)が坐禅。そしてお釈迦様のなさったとおりする。
    面白いの。人間だけは、自由というか、なんにでもなれる性質がある。われわれ人間というのはとても狭い世界。いちばん下の第一チャンネルは地獄、第二チャンネルが餓鬼。次が畜生。その上が修羅。第五チャンネルが人間(じんかん)という狭い範囲でね……。

田口    ……修羅というのは、どういう世界なんですか?

村上    少しでも生活を快適にしてやろう、金がありゃよかろうかとかね。

田口    それ、私たちじゃないですか。

村上    人間より下の世界だけどね。とにかく対立と闘争。財力。自分が得しよう、得しよう。

田口    じゃあ私は、完全に修羅ですわ(笑)。

村上    でね、人間(じんかん)だけ面白いの。人間の中にも地獄から神様の世界まであって、生き神様もおりゃ鬼みたいな人もおる。ちょうど同じ電波が来たら、自身の世界のその波長が引き出される。昔はラジオにバリコンってあったのご存じ?    コンデンサーの容量で波長が変わるからバリアブルコンデンサーっていうのだけど、あれは波長が合うとアナウンサーの声がはっきりして、外れるとまたガガガーッとなって別の波長、第二放送の波長に入ると第二放送の声がはっきりするようになるのね。それと同じ。坐禅で仏さんの波長に合うとね、仏さんの姿がざーっと出る。修羅の波長が合っていると自分の心はすぐ修羅になる。気持ちの悪い映画を見ると顔つきまでおかしくなるやろ?    楽しいきれいなものを見ると、うれしそうな顔になるやろ?    心がすぐ形に現れる。波動をいっぱい受けるの。それで変わる。
    十界(じっかい)っていうんだけどね、波長の低いほうから地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、その上は天上界ね。そこには欲界天、色界天、無色界天、とあって、これは神様のところだね。ここまでが有為法の世界です。六道。迷いの世界ね。
    ここから上が解脱界。そこには有為法が抜け落ちたら入れる。声聞、縁覚、菩薩、仏。それが悟りの世界。声聞、縁覚が小乗。菩薩、仏が大乗。これで十界。今は人間の世界におるからね、人間の中にもまたミニチュアの十界(レシーバー)がある。共鳴する波長が来ると、それがぴーっと響く。十界のどれか。人間以外のもんもそれぞれ、その十界(レシーバー)をみんなもってる。十界互具いうてね。仏さんの世界は第十チャンネル。
    坐禅すると仏さんの第十チャンネルに合うからね。悟ると、もう人でなく仏さんの光明になる。自分ではわからんけど、師匠がていねいに弟子に礼拝する。弟子を拝んどるんじゃなく、弟子に現れた仏様を拝むのね。禅っていうのは一瞬にね、仏さんの世界が現れる。現成するいうね。覚(あら)われる。見(あら)われる。一瞬に、世界中が輝き、想像できん神々しさ。もう人の体験とは違うことになる。

田口    世界が輝き、想像できない神々しさになる……。その体験をたった一度だけしたことがあります。メキシコのシャーマンを訪ねてマジックマッシュルーム(幻覚キノコ)のセッションを受けたときでした。私は幻覚などなにも見ませんでした。世界はそのままでした。ただ、驚くべき神々しさで現前し、私は……汚物だらけの便器を見て、その神々しさに圧倒されたんです……。汚いということを理性ではわかっているのに、それでも便器は神聖で神々しく感じてしまう。あの体験は私にとって鮮烈でした。世界はひとつではないと知ったのです。でもあれはキノコの力を借りての体験でしたから、自分の力で波長を合わせたわけではないので、もう二度と同じ体験はできないのです。

村上    生きている時間は短いやろ。そして人間は、大急ぎで仏さんのところへ行くにはギャップがありすぎるの。でも、禅で真剣になればね、いのちがけになれば──。人間ってね、木に登って木が折れそうになったら必死になるよ。ロッククライミングで岩から落ちるときもそう。海に落ちたら泳げん人でもとたんに泳ぎだしたりする。切羽つまらすとものすごい。一瞬にして火事場の馬鹿力みたいのが出る。大脳機能がはたらかなくなるの。熱いものにさわるとぱっと手を引っこめるやろ。あれ、大脳を通ってないの。反射的に背骨から命令が出て引っこむのよ。人間は大脳がものすごく発達したからむしろ邪魔になる。だから禅堂ではものすごく追いつめます。真剣になると早い。
    普通の人にはそんなに厳しくしないけど、僧侶には厳しい。切羽つまると、寝るとか食うとか眼中になくて、もう必死。竿を登って、登り切って、もう手を離して落ちろというところまで追いつめる。そのときはじめてごまかしのできない世界になる。荒療治っていうと悪いけど、お坊さんは世間を導く立場の人だから、ちょろちょろしとれんから、厳しくやりますよ。

田口    なるほど。だからあえて怖いほどの緊張の場を創っているわけですね。

村上    怖いを通り越して、ものを思わなくなる。寒いとか嫌だとか、とにかく妄想(もうそう)というものが起こる隙がなくなるわな。

田口    自分がなくなるようなところまで自分を追いつめて、坐禅をしていくと、神の波長と自分が共鳴できるようなものが自分の中に現れてくるということですか?

村上    いい表現をなさったね。ただね、今おっしゃったそこはお釈迦様以前の悟り。専門用語でいうと梵我一体。梵というのは神様。我というのはわれわれ。ブラフマンとアートマンが一致するのがウパニシャッドの理想。道教でいうと大自然の天地と一致すること。一致することをヨガ、瑜伽(ゆが)、というのね。それで一段階。しかし解脱ではないのよ、それは。それで輪廻転生をまぬがれることはできない。
    坐禅てね、インダス文明にもありますけど、古代から心や身体を整える方法としてあった。解脱というよりは、天地空間と一致する、いわゆる瑜伽を目指す。天孫降臨という言葉があるでしょう。神様の御心をとどめて、地上で神様の思いやりとか真心のはたらきを示す。真事(まこと)。それをヒト、「日を留める」という。人間には神の心を地上で行う使命があるのよ。

田口    アイヌのフチ(姥)から同じことを教えられました。人間は天と地の間に立ってすべての生き物のために祈り魂を天に送るために存在しているのだ……と。戦後の高度成長期に育った私は『人間の使命』というものを教えられたことがなかったので、とてもうれしかったのです。どちらかといえば『人間主義』の教育を受けてきましたから。でも、まさか老師が天孫降臨をそう読まれるとは……、驚きました。

村上    人間ってまあ、世間を生きていく生命の本能でね、まず自分という自我をもって、敵、都合の悪いもんからは逃げる。逆に都合のいいもんは追っかけるという構造になっていてね。けど、そんな呑気なこと言っとれん場合があるわな。
    本来の自分の仕事とはなんぞや。過去世っていうことがあるでしょう。そして今。それから来世がある。五十年か百年か生きるか知らんけど、生まれて生きて亡くなる。百年って長いように思うけど、それが千年、万年、ずっと続く。人間とは限らんよ。これを後生っていう。「後生の大事」って仏教はこの後生の大事を言うの。今生の百年の何百倍・何千倍。だから、一億年っていうとそうとう長いわね。だけど、地質学的に一億年前というとまだ恐竜の時代。古生代から中生代で五億年ぐらい続いたけど永遠じゃなかったわな。とつぜん星がぶつかってきてぜんぶ滅びてね。九八%ぐらい地球上の生命が全滅して。それでも残ったのからお花とかね、蝶々とか、哺乳類だのが続いて、それが生きとるんだよな。そういう具合に、一億年いうと、そんなに長くない。でもわれわれの人間感覚いうとね、坐禅一時間でも長いのにね。
    そのわずかな人間の間だけしか仏道修行というか、仏さんのこと、仏さんのありようを真似できないの。猫に生まれたらやっぱし猫世だしな。鸚鵡(おうむ)が人の声を真似て南無阿弥陀仏いうても、これはね、性根がないしな。人に生まれると合掌もできれば坐禅もできる。そうとう優れているんですよ。神の形のごとくつくられてるんでね。神様の心と同じように慈悲心をもとう思えばもてる。だけどもうこの一生の間、わずか百年か五十年か一瞬の間に、できるだけ近づいて、魂の向上しとかんとね。そのあとが大変だ。また次、いつ人に生まれるかな。お釈迦様が、人に生まれるのはめったにあることじゃないとおっしゃってるわね。

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戒はいのちの流れに従う生き方

村上
    坐禅はね、とにかく戒を保たないといけない。「戒定慧(かいじょうえ)」というのね。土台の上に家が建つように、戒が土台。定が家、そのなかに智慧。この土台が今の仏教界はフラフラしている。
    肉食したらだめよ。業が入っちゃう。血管も血液がさらさらと流れてしこりがないようにしないとね。その上で定に入ると入りやすい。たとえば肉食の西洋人が修行にきたらふつうまず断食させます。心の懺悔もあるけど祓い清め。肉体の懺悔。濁った水のところへなんぼきれいな水を入れても入らんからね。
    日本人はね、明治から食事が乱れた。それまで屠殺(とさつ)をしなかったし、家畜が死んだらお墓を作った。国中が真心で満ち満ちて思いやりにあふれていたね。今は魚を食べんからアトピーが増えた。アクセルだけでブレーキがなくなったから、過剰防衛するのがアトピーやぜんそくとかのアレルギー。魚を食べるとすぐ治る。六十兆個の細胞膜はリン脂質。その人の代謝のキーポイントだから、短期間に早く治すのには脂が鍵なの。必須脂肪酸は二つ。これは欠乏できない。昔はビタミンFいうた。n3系の脂がブレーキ、リノレン酸。n6系の脂はアクセル、リノール酸。n3系の脂を摂らなくなってアクセルだけで暴走したのがアレルギー。
    アメリカではものすごくガンが減りだしたのね。ニクソン大統領が四十年前に「ガン制圧」と言いだして。近頃じゃアメリカ人が野菜を食って日本人が肉を食っている。肉食は、牛を殺すという業、殺されるという業がぜんぶ入るから、そういう行いをしだすのよ。人でなしのおっかない犯罪が増える。業は根源からはたらくから対症療法はだめ。登校拒否も増える一方。そんなもん、今の心理学では扱えないけどね。今の研究者・学識経験者はその程度。

田口    私は『戒』ということばを、村上老師のおっしゃる意味としては理解していないと思います。戒が土台ということをもう少し教えてください。

村上    戒というのは神様・大自然のリズムに合う、ということ。大自然の中では、互いにいのちの捧げ合い、与え合いをしているから殺すということはない。奪うということはない。永遠のいのちが一緒に生きている。この真理を不殺生戒という。戒は天の道ともいうけど、自然の道。摂理。律というのは人の道。人として道徳を守ったほうが社会生活する上で、お互い気持ちがいいしね。ただし、人格・道徳的な立派さと宗教性は別。優れた人でも宗教性がない人もいる。理性と道徳だけで無神論の人も多い。そういう人は子どもが妙にぐれたり妙な犯罪に引っかかったり不治の病にかかったりが、よく起こっている。
    本来は、植物でも動物でも、神様の作品は純真そのものですよ。唯一神といおうが、根源といおうが……同じことをいろんな言葉でいう、「産みの親」。神様がおつくりになった生物が食ったり食われたり、追ったり追っかけられたり、みんな一生懸命生きてるわ。
    あらゆる生き物は神様の作品。神様の心の形は大自然。お陽さまといい、お月さまといい、川といい、水といい、人間が手を加える前の、ありのままの完全な自然な調和。これ、神様の心が物質化しているの。われわれだってそうでね、われわれはそれぞれ霊魂をもっているけど、霊魂の形のごとくわれわれの遺伝子ができていくのよ。物質化するの。
    今、科学至上主義みたいになんでも科学・科学と言うけど、科学的測定範囲というのは物質現象だけ。「あの人、鼻が何センチあるから気高い」なんて言わないし、「おひさまは尊いな、もったいないな」と科学的には証明できない。温度がいくらあって、寸法がいくらあって、距離がいくら。こんなことしかわからん。科学の「科」って、前科者の「科(とが)」。なにかをナイフで分けること。自然現象を細かく、分子素粒子まで分解して。それで、それを整理整頓してぜんぶ人間の欲望の対象として使うもの。だから人間そのものの心がひねくれとったら、ひねくれたことに使われるよ。破壊活動にね。とにかく、不殺生戒という戒律を人間だけが破る。なんでいうたら、自由。落ちようが、上がろうが、もう大人になったら親離れして力を試して、失敗もして、苦労もして、ちゃんとやれるようになりなさいということ。

田口    『戒』を戒(いまし)めとしてネガティブなイメージをもっていました。自然の摂理か……。なるほど、自然の摂理をいつしか『戒め』と思うようになったんですね……。視点がどんどん人間中心になっているんだな。ところで、人間は、ことばによってあらゆるものを分別し、科学を発達させてきました。なぜ人間だけが?    意識というものをもっているからですか?

村上    うん、第六意識、大脳新皮質。そしてその基に第七、末那識(まなしき)。われわれの胃袋や心臓は、自分で考えて動かしているのではない。大事なことは皆、自律神経が動かしてる。それは末那識ね。末那識の中心は我、自分の生存本能だね。精神的病は末那識のほうが汚れている状態。だから人間は大脳新皮質のほうが発達して人間独特の、権利を主張するとか、我を主張するとか、都合のいいものを採って、都合の悪いものは殺してしまうとか、残酷性ももっている。人間だけはそれを宗教というもので制御するようになっているのね。
    赤ちゃんは末那識むき出し。見るとよくわかるけど、分別知がない。思考がない。仏さんのことを言うと、赤ちゃんてかならず一生懸命になる。あれ不思議だね。大人は分別あるから、「なぜ」「なぜ」と理屈で言うけど。赤ちゃんは「なぜ」、じゃない。赤ちゃんだけでなく、ヘビでもムカデでも拝んでやるとすっと立ち止まってふりむく。生き物である限りは霊魂だから。仏さんの光明を求める。

田口    ……。では、村上さんはおっきな赤ちゃんなんですか?

村上    坐禅は一種の赤ちゃんですよ。阿頼耶識(あらやしき)むき出し。業識というけど、むき出しでね。いのちの流れの世界は末那識。いのちの流れの世界を忘れたらだめなの。(注:意識は識の六番目。眼耳鼻舌身を前五識という。唯識派では第七識に末那識、第八識に阿頼耶識をたてる。阿頼耶識が最深層である)


坐禅の方法

村上
    「今、自分が本当にこれはやらなきゃいかん」「これだけは絶対やる」「これは大切なことだからこうする」とか。そういう深く思索する能力はなければいけない。しかし、今、その能力のない人が増えているね。あなたが行かれた坐禅会も、今の教育も、「きちっと真面目に言われたとおりにする」という傾向じゃないかな。人に使われる社会では便利な、暗記だね。暗記する力は思考力ではない。今、そういう社会構造でね。坐禅、禅定。一歩離れてさらっと見られるようになるの。「観照」っていってね。   

田口    般若心経に記される観自在菩薩の姿勢ですね。なにも思わず、分析せず、ただあるがままを観察する。しかし、この観照というのが実に難しいのです。ただあるがままを見ようとしても、思いは浮かんできてしまう。
    ひとつ具体的な質問なのですが、坐禅のときに、言われて数を数えているんですけど、数え方にだんだんこだわるようになってきてしまって。「いーち!」と心の中で数えるときに、もっと深い声にしてみようとか考えてしまうのは、やっぱり雑念ですか?

村上    随息観って知ってる?    数を数えてそういう妄想が生まれたら、随息観に変えるの。ふーっと吐きながら、息が出ていくのに心を集中する。「出た出た出た出た」と見つめる。「むーっ」という音を心の中で吐く人もおる。外へ吐くというより中へ吐く。それから「い」という口の形。「い」とやるとベロが上につくの。「いー」と、時々やると心が締まる。坐禅は昔から舌を上にあげておくんだけど、年をとってうまくいかんときには「いー」とやる。「はー」というのもあるな。そういうテクニックがある。「い」の口の形をしながらすーっと息を見ていって、整ったらまた戻る。それをしないで放っておくと顎がとろっとなって眠気がきちゃう。これが舌禅。老化嚥下障害、いびき、無呼吸症候群がなくなる。天然自然本来のホモサピエンスとしての舌肉のあり方。これも戒。それから、うなじ(後頭部)と肩の線を地面に対して垂直にするの。こうすると肺活量がすごくなるから、ひじょうに心が静かになる。みんな今、机仕事で縮こまっているでしょう。ときどきこう、ひろげて随息観すると眠気と妄想がなくなる。そうすると時間がぜんぜん気にならなくなるね。坐禅っていうのは、いちばん呼吸が深くなるね。

田口    丹田に気持ちを、というのは?

村上    あれは道教のほうから来たの。道教の呼吸法は坐禅と違う。坐蒲(ざふ)がないの。円座っていうのがあって、胡坐ではないけど楽な姿勢でやるのね。精神的に無念無想でぼーっと、寝ているか起きているかわからんようになって、天地自然の循環と人間の血液や呼吸の循環とが区別がないようになってとろけこむやり方だね。
    中国の廃仏毀釈というのはたいへんでね、お坊さんであることが見つかったら殺されるから、山へ逃げ込んだのね。道教のお寺があるからね。高山で標高三千メートルとかあって寒いところ。そこで仙人になる修行をしていた。そういうわけで禅の世界にひじょうに道教が入ってきて、丹田呼吸も入ってきたのね。お釈迦様のときにはなかった。

田口    じゃあ、とくに下腹部に意識を集中する必要はないのですね。

村上    どこにも意識を集中することはない。坐禅になりきってしまうとね。坐禅は人間世界じゃないことをやるんだから、人間のやることはことごとくじゃまになる。
    大悟と小悟というの。小悟の小はめいめい個人持ち、individual(インディビジュアル)の悟り。「悟った」とか「まだ悟らん」とか、人それぞれ、人力の悟り。大悟の大(マハー)は絶対如来力。悟ったとも識らん(不識)。仏性がカラッポ無色透明の人身を占領している状態のこと。
    だから、ありのままの形。定められたとおり、ただ形。それを法(ダルマ:あり方、やり方、存在、「be」ing)という。法のとおり。
    耳と肩、へそと鼻、うなじと肩と、それぞれ垂直の線で等しくして、足を深く組む。坐蒲の高さが大事だよ。だんだん高くして行ってごらん。ストンと妄想が消える高さがある。濁った水がすきとおるように、青空に入るようになる高さがあるの。そうじゃないと頭がぼーっとしてくる。道教は坐蒲がないから、妄想をおさめるために丹田に集中するように工夫したんだと思う。

田口    なるほど、では自分で坐蒲の高さを工夫しながら坐り方を決めたらいいんですか。
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村上    結跏趺坐を深く組むの。座布団の上に坐蒲を置いて、その上に尾てい骨を置く。片方の足先をもう片方の太ももの付け根にのせて……、そうすると、ももの付け根の関節が伸びるやろ。ちょっと身体を押し出して。反対側も同じ。半跏なら半跏でね、付け根を押さえる。できるだけ深く入れて、股関節をいつも伸ばしてやわらかくする。長い間こってるから。下腹がすっと伸びて息がすーっと下腹まで通るように。ちょっと前にへそから下を押し出すぐらいにね、膝頭がきちっと座布団まで着くわな。そして左右揺振。上体を左右に揺り動かして、徐々に振れ幅を小さくしていき中心におさめる。結跏趺坐したときにね、足先が上向くのはいかん。足の裏は水平にならなければうそ。坐蒲を尾てい骨の下に入れると仙骨が立って、足の裏が水平になる。
    膝はきちっと深くぎゅぎゅぎゅっと座布団に膝頭がめりこむように。一回、どこだったか、座布団の肉が厚くなかったときがあって、膝頭が畳にめりこんで真っ赤に焼けた鉄板に足をのせたみたいに痛いのなんの。座布団は厚くしなくてはね。三角形の重心のところへ、ぐんと脊梁骨(せきりょうこつ:背骨)をまっすぐに、すっくと立てる。両膝頭と二つの座骨の三点に三分の一ずつ体重が分散する。そうすると首筋が伸びるからストンと落ちる。
    やらないとわからないけど、坐禅の形って神秘的ですよ。三角形の重心は下から三分の一のところだけどね。腰がきまると少しでっちりになるよ。優れた運動選手はみんなでっちりだわ。赤ちゃんでも子どもでもS字曲線になっててでっちり。脊髄は、腰椎から下は仙骨っていって、それから尾てい骨。人間は二足で歩きだして、仙骨が前傾して、そうすると頭脳が大きくなるの。そして肺活量が最大になる。
    うちに来る人にはまず断食させるのね。まず身体を清めて食事を正したら徹底的に二時間ずつかけて、何回も何回も坐禅のやり直しをさせて、三昧(さんまい)を一発でおぼえさすの。姿勢が正しければ、ストンと落ちて三昧に入る。そしたらあとは、放っておいても夢中でやりだすよ。ただ、わからんで坐っているだけじゃ時間がもったいないでしょう。
    きちっと坐禅が身についていないとね、妄想は出てくるし、呼吸はうまくいかんし。そうなるといろんなことが入ってくる。丹田はどうとか、呼吸を数えるとか。それは応急処置であって、ほんとは坐禅だけでいいの。只管打坐。

田口    では、瞑想と坐禅の違いはなんでしょうか?

村上    瞑想はメディテーション。生理活動を整える技術・テクニック。人為だね。「坐禅は人為をぜんぶ投げすてて仏為だけ。任せきる」。これを無為といいます。瞑想は危ないところがあるのよ。人のテクニックだから、人間の都合のよいほうにもっていってしまえるからね。人間は動物と違っていろんなものを考えるわ。
    止観、ヴィパッサナーも、ひとつのテクニック。あれは師匠が正しく指導すれば悪い瞑想じゃない。最初に瞑想に入れるのね。ざわざわ乱れているのを一点に集中して静かにしておくと、修行に入りやすいからね。バンコクの学生なんか、試験前に大急ぎでお寺に行ってヴィパッサナーするんだよ。集中力をつけるためにね。集中力があるとスラスラ入っていく。忘れんわ。

田口    なるほど。つまり、坐禅は仏が来る、仏とシンクロする。瞑想は自分の中の世界で仏が無い。そういう大きな違いがある。

村上    あなたの冴えには驚きますねえ。


■大事に握っているものを手放す痛み

村上
    ここは静岡だけどね、静岡にいいお寺があるよ。誰もがほっとして「また行きたい」と思うような、ほんとに観音様のところだわという気がするな。
    旦那さんはオーストラリアへ行って坐禅を弘通している。息子さんは今度ポルトガルの人と結婚して赤ちゃん授かって。誰が行っても家族のように。誰が偉いとか誰が指導するというより、みんなととけ合う、対立のない、ほんとにひとつになれる世界ね。「和」。和のことをサンガという。あれが本来の、地球の平和の原点だね。

田口    仏教……とくに坐禅の修行がなぜ厳しいのかはわかりました。自分を追いつめて捨てさせるため。でも、支配欲や他人をコントロールするような欲望で厳しさを良しをする部分が、男の社会(仏教界)にはあるように思われます。そういう厳しさってとっても辛い。それを我慢しないと仏の世界に入れないのかな……。

村上    我慢っていうのは我(が)が驕(おご)ること。慢心。

田口    我慢は、慢心?    エゴ?

村上    「辛抱する」というほうがまだいいのね。その辛抱しようとする気持ちすらも邪魔になる。

田口    辛抱もダメなんですね。

村上    対立があるから辛抱する。

田口    そうかあ。結局は自分の問題か……。出会ったものをどう捉えるか、百パーセント、私の側の問題なんですね。

村上    うん、たとえば「坐禅とはこういうもんだ」「仏教とはこういうもんだ」、そういう先入観はぜんぶ邪魔になるからね。「ああ、まだ残っとる」とひとつひとつ、ピンセットで取りはらっていくのが修行。しかし、自分にとっては大事なものだから握っとるからね。放そうとせん。ふつうじゃそのまま死んでしまう。先輩はそれを取り出してやるだけ。

田口    いやーそれね、歯の神経抜かれるのと一緒なんですよ。ものすごく痛いんですよ。

村上    そうよ、痛い、痛い。こういうこと。お母さんが赤子を育てるのは支配するのでも、コントロールするのでもないわ。かわいさ一筋。ちょっとのミスでも大事に至る。厳密に、大自然の摂理を信頼して、育てる。赤ん坊は一瞬一瞬に全身全霊を、それこそ真剣のかたまりになって、生命力を注ぎ込み、急速に学び取り、グングン育つ。


■仏法僧の三宝の真髄

田口    仏教における「三宝」というものを、村上さんはどう説かれるでしょうか?

村上    仏法、なさり方、方法ね。仏様のお姿の尊さ。輝き、仏様の示された道筋。人間智(第五チャンネル)で見られないが、業識(阿頼耶識)は仏様(第十チャンネル)の輝きに照らされて霊魂は導かれる。人の身体でありながら、仏様の輝きを自分がいただいて輝く。仏様のなさり方を忠実に、お袈裟も正しく……。
    お袈裟が乱れると、かならず正比例して仏法も乱れるもんな。乱れなければ正比例して仏法が盛り上がるもんな。間違った仏さんの坐禅をしたらあかん。いんちき坐禅もいんちき覚りも多いよ、今。正しい仏様の輝き、純粋な、人間の汚れが入っていない、そうやって仏様の法典みるから、文句なしに頭が下がる。日の出の尊さにしろ、森の美しさにしろ、理屈抜き。無分別知。うさぎでもねずみでも、一斉にしゅんとなる尊さがある。そういうのがダールマ。その道筋を人の身で輝かしてね、坐禅で、あるいは行いで、あり方(ダルマ)を人の世にあらわす。
    もし坐禅のときにそうなれば、その場がお釈迦様があらわれるのと同じところになる。全世界の生きとし生けるものが慕いよってくる。昆虫一ぴきでもバクテリア一ぴきでも、お釈迦様がそこにいらっしゃると寄ってくるように。人の身をもって、人の身をなげすてる。これを身心脱落という。そうして仏様の道を、与えられた寿命で、肉体の寿命ばっかりでなく、一生、また一生と、貫いていく。輪廻転生で地獄の底へ生まれようが餓鬼に生まれようが、どこでも仏様の道を、そのあり場所あり場所に腰を据えてね。どこに生まれようとも。
    ジャータカを見ると、鹿に生まれたときには鹿の王様になったりしてお釈迦様は修行してるだろ。ああいうぐあいにどこに生まれても周りのものを、法をもって照らしていく。これは、流転輪廻と違うの、その場が修行道場になるの。地獄の底へ行ったら地獄の修行ができるだろ。「嫌だな、つらいな」ということじゃない、「ここが道場だ」。出られんでも何でもいい。遊戯(ゆげ)三昧と喜んで六道輪廻のなかで遊んでいく。どこへ行っても迷いとか生まれ変わりとか苦しみじゃなく、願って地獄へ行く。願って地獄の修行を……そういうのを大菩薩という。「どうか地獄へ行きませんように、極楽へ行きますように、南無阿弥陀仏」……そんなケチなんじゃなくて。「どこへ行っても南無阿弥陀仏といえば大丈夫」としっかりと心さだむる。信心決定(けつじょう)。

田口    なるほど、それが信ですね。……私、以前、もう亡くなられてしまったのですが、杉本栄子さんという水俣病の語り部の方とお話しさせていただいたことがあります。杉本さんは「水俣病になって親も狂い死んだし、たいへんな苦労をしたけど、水俣病は私にとってのさりだと思っとる」と言っていたんですね。「のさり」って方言で、意味を聞いたら「天から授かったものはぜんぶのさりなんだ」と。大漁に魚が獲れたり嵐でたいへんなことになっても「のさった」と言うそうなんです。杉本さんの生き方は、なにか大きなものに完全に自分をあずけて、安心して遊んでいる……そんな感じでした……。

村上    受動的に受けとめるんじゃなくて能動的に受けるの。ただの宿命論になるんじゃない。さだめといってね、かならず過去世に原因があるから今の結果で、「のさる」の。そのまま放っておくとまた流転するから、「これはチャンスだ」と修行の場所だと自覚するかどうか。旧約聖書のヨブ記、それからV・E・フランクルの『夜と霧』。アウシュヴィッツが絶好の試しの場に……。

田口    あ、そこでいったん自覚が必要なのですね。フランクルは言いますものね。これは人生が私に問いかけているのだ……と。「お前はどう生きるのか?」と。

村上    うん。自覚、向こうから来るだけやなく、こっちからもはたらかな。「あ、これだ、しめた」と。人間は「ああ、つらいな、損したな、自分だけなんでこんなつらい目に遭わないかん」って愚痴が出る。愚痴って迷いのことだよ。そうやなしに、「ああ、これでけっこう」と。目が見えないで生まれても「見えなくてけっこう」とね。菩提心というの。それは何かいうたら三宝。どこへいっても「智慧ブッダ」「法ダンマ」「僧サンガ」、南無帰依三宝さ。「ありがとうございます」、それだけありゃその人に輝きが出だす。なんの望みもない絶望状態の人でも、ずーっととけていくわな。
    公案にあるんですよ。「生死の中に仏あれば生死なし。」「生死の中に仏なければ、生死に惑わず。」そういうことを言っている。もしね、仏法に会えなかったとしたら迷いの世界に惑わされないように一生懸命、つとめないかんね。浮世のこれが楽しいだの、すってんてんだの、また負けたじゃなく、ほんとの不動のものを。もし仏縁をいただいて生死のなかに仏を授かったら、もうそのときにちゃんと約束されてね、流転輪廻どこへ生まれようと大丈夫でね、積極的に能動的に受けいれていけるようになる。生死がもう生死でなくなる。立派な道場になる。ブラフマンね。

田口    村上さんのことばは、新鮮です。仏縁とは、仏の法に入ること。その法の中に生きるのが僧。仏の存在と、仏のひらいた法と、その法に生きることを決めた僧がいて、はじめて教えが「いまここ」に立ち上がってくる……Being。どれが欠けても、仏教は時代を超えて私たちの手に届かなかった……。言い方を変えれば、私が仏法の外にいるなら「生死の中に仏なければ、生死に惑わず。」ということになる。
    求めよさらばひらかれん……。これは、宗教の本質かもしれませんね。


■仏教と出会う

田口
    村上さんが仏道に入られたきっかけというのは、どういうものだったのでしょう?

村上    終戦のとき、小三で父が戦死しました。それまではもっと別の……三角形の内角の和が一八〇度って聞いてね。地球で三角形かいたら一八〇度より大きくなるはずだと考えた。「そうすると二角形というのができるな」とか、そんなこと考えてた。

田口    天才ですね。

村上    いやいや、浮世離れしてた。恵まれていて苦労知らずよ。じいちゃんが警察署長でね。株持ちやったのに戦争でただの紙切れになったろ。母親なんて生活能力ない、ただのお嬢さん育ち。

田口    なるほど、逆に裕福から貧乏になったからたいへんなことに。

村上    そうなの。しかもやくざがからんできたこともあって追い回されて、住む場所が見つからんようになったりもして十二回も引っ越した。母が塗炭の苦しみで。ずいぶん怖い思いをしたよ。貧乏だから大学なんて行かれんと思ってたら、友達が「高野山大学ならただで行ける」いうんでね、母に内緒で願書取り寄せたりもした。「仏教は葬式するのがおかしいが哲学に違いない。高野山大学にはすばらしい蔵書があるに違いないから、ぜんぶ読破して仏教哲学を究めよう」なんて考えて。

田口    そもそもの坐禅との出会いはどうだったのですか?

村上    古本屋でね、臨済宗のお経の本の後ろに坐禅のかんたんなやり方が絵で書いてあった。買えないからそれを見て暗記して。お経は読みたいと思っても立ち読みだから、とてもぜんぶは読めんしな。
    とにかく原点はお釈迦様の悟り。仏教というのはお釈迦様であって、今、日本にある檀家仏教、葬式仏教というのは徳川幕府がキリシタン対策でつくったものだから、本物を求めるのは原点にいかないとと考えた。その原点は坐禅でしょ。それで大学の寮で一人になると坐禅の真似ごとをして。そしたらだんだんと縁ができだして、あちこちで坐禅しているうちに澤木興道老師に会って。
    澤木老師のもとで坐禅がしたくて、ぼくは名古屋大学から京都大学へ変わったの。その頃は、みんな京都大学の若手が名古屋大学に来てたんだけど、逆でね。京都は相国寺あり大徳寺あり、焼け野原の名古屋と違い、文明水準の素晴らしいこと。なんかなにが勉強やらわからんかったけど、先生にも「やたら論文書くんじゃない。論文があってもカビみたいに生えては消えていくんだから自分でないとできんことしろよ」と言われて、とにかく坐禅坐禅。最初は坐禅道場とかいうお寺で毎朝。そこからいろんなお寺で坐禅するようになっていった。毎日、それこそ伊勢湾台風が真上通ってるときも坐禅に行ってたわ。

田口    なぜ、それほどまでに坐禅を?

村上    人生というか魂の問題意識じゃないかな。生死解脱という目標があるでしょう。山に登るのと一緒よ。
    学生時代に身体が弱いんで、鍛えよう思うて山岳部に入った。山に登って何がいいんですかって、何もいいことはない。でもね、「嫌」なんて思いやせんよ。鍛えなきゃ身体がよくならんと思ってるから。根性も鍛える。こんな病気ばっかりしとったら人に迷惑をかける、と。ひたすら自制心。克己心。己(おのれ)に負けてなるもんか、だよ。自分のためだ、自分が向上するために卑しい根性が起こったらそれに気づく。弱い気持ちに打ち克つんだ、と。
    でも山に登ってるころは不信心だったね。科学万能主義で、人間至上主義。宗教は精神修養、哲学ぐらいに思ってた。人間以上のものを信じるのは迷信。つくった神様だの仏様だかを拝むバカがおるかという感じでね。


■澤木興道老師

田口
    澤木老師にお会いしたときの印象はどうでしたか?
村上    檻を出た野生のトラだね。怖いのなんのって。よぼよぼ、骨と皮の老齢ですのに堂々とした迫力。人間とは思えん。とにかく神々しい。もの言われると大きな山がぐぐっと動くような底力があった。老師は私を居士として在家得度授けてくださって……。そもそもは京都へ行ってすぐに澤木老師に出家のお願いをしたんだけれども、出家には母親の許可が必要なの。母親が許してくれるわけないわ。松山って不信心なところだし、高野山大学もやめさせられてたし。母を説得するのは容易じゃないし、澤木老師もお歳だったから、摂心という摂心をはしごして、何もかも犠牲にしてでも無欠席で七年間、澤木老師の元に通ったね。

田口    澤木老師に会ったとき、「この師についていこう」というのは直感だったんですか。
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村上    ほんまもんに出逢うと今までのものが影がうすくなるというか、一発でわかるね。
    澤木老師が毎月指導に出向かれた金沢の大乗寺でも、一日八回、八時間。必死にやっていた。足はまっ黒になって、折れても動かんと言って一時間、また一時間、また一時間……。一秒もまけてくれん。朝に総参といってみんなで挨拶に行く。老師の部屋に行くと、雲水は十五人ぐらいいるけれど、提唱の前後の礼拝でも、礼拝は相手の目を観るものだからと言われて、はっとして見ると全員の頭越しにまっすぐに五体投地の作法で、私一人を真剣に三回礼拝してくださった。
    八十余のご老体ですのに、ぴしーっとして神々しくて。坐禅というのはこういう真剣さでやらんといかんという見本のようなものだわ。あの老僧が全身全霊、身心脱落で仏になって。
    お亡くなりになったとき、葬式には佐藤榮作総理も来てくださったね。遺体は京都大学に寄付なさって。献体のあと京大に呼ばれていくと、解剖学の教授がね、感激まださめやらんというおももちで、「もう三千体以上解剖しましたがはじめての体験です。澤木老師はどういう方だったですか?」と聞いてきた。八十五歳にもなると死体は灰色になって暗いものなのに、五~六歳の子どもみたいに明るいんだって。それに病気がひとつもない。動脈硬化がない、やわらかい。無病で若々しいお体で、どうして亡くなったのか、と。

田口    澤木老師にどんなふうに「弟子にしてください」とお願いしたんですか。

村上    いや、「母の許しを得てこい」と言われたけど、そんなの待っとれんから、出家したつもりで本気で坐ってたろ。あるとき尼僧堂の指導に行っていて、老尼が「出家功徳というのはね、出家したと思って死んだら次は出家できる」と言ったの。それを聞いて澤木老師が、ふっとおれのほうを見て「お前な、菩薩として出家するならそれでいいぞ」と言われてね。わざわざ安泰寺で資格を取ってとか、そういうことじゃなくてこのままでもいい、京都大学に在籍したままでもいい。菩薩の心をもって出家したらそれでいいと言ってくださった。見抜いておられたんだろう、母親が許可せんのを。しかし、書きかけてることを終わらせて母も納得させんとと思って、学園紛争のさなか、断食すると頭がすごい冴えるから、直後から書きかけてた博士論文にかかった。でも、今も書きかけだけどな。

田口    「菩薩として」ってすごい言葉ですね。

村上    澤木老師の一言一句って、みな公案だったよな。

田口    澤木老師が亡くなったあとは、どうされたんですか。

村上    澤木興道老師が亡くなったとき、安泰寺では葬式なしで全員四十九日間連続坐禅の四十九日大摂心に入った。またそれとは別に一人で二十一日間断食に入った。
    そして三年間、喪に服する意味で、毎日、京都の太秦の撮影所に行ってお手伝いしてもらったお金で、九州とか、澤木老師に会った人にどういう状態だったか、野宿しながらぜんぶ聞き回った。
    それで一番弟子と言ってもいい成田さんという人のところへ行ったときに「よかったら得度せんか」と言われたので、「お願いします」ということで。ちゃんと証人を十人、そろえてくれたな。十人証人をそろえるのは決まりなんだが、ほんと、今どき出家得度で十人そろえるのは珍しいんだよ。
    ヨーロッパに坐禅を広めた弟子丸泰仙(でしまるたいせん)さんっているでしょう。弟子丸さんは澤木老師の最後の弟子。弟子丸家は佐賀の名家で、子どものときからかわいがられていた。酒癖も女グセも良くはないけど、老師の前にいくと純情だ。彼が桜沢如一さんに見込まれてマクロビオティックの関係でヨーロッパに行くことになった。でも金がない。それで野口晴哉の弟子の安倍君という青年のふところをあてにして、シベリア鉄道でパリまで。その出発のとき、私は安倍君に
「彼は日本にいたらだめだから、置いてこい」と言ったら、本当にあっちへ置き去り。そうしたらヨーロッパ中に二十五万人も弟子をつくって神様になってしまって。

田口    どれも小説にしたいようなお話です……。

(つづく)


2012年7月・静岡
構成:川松佳緒里
撮影:聡明堂



二    真実はひとつ、宗教はひとつ、では仏教は?



『DAIJOBU─ダイジョウブ─』

村上光照老師の晩年の7年間を記録した映画『DAIJOBU―ダイジョウブ―』が9月9日(土)より公開されます。村上老師とともに描かれるのは、撮影当時はまだ現役のヤクザの親分で、ヤクザと人権問題をテーマとして話題となった2015年の映画『ヤクザと憲法』に出演した川口和秀氏。二人の出会いとその後が描かれたドキュメンタリーです。

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【公式ホームページ】
http://daijobu-movie.net/
出演:村上光照、川口和秀
プロデューサー:石川和弘
監督・撮影・編集:木村衞
サウンドトラック:笹久保伸
エンディングテーマ曲:細野晴臣「恋は桃色」
ナレーション:窪塚洋介

【劇場情報】
●アップリンク吉祥寺
2023年10月20日(金)~
https://joji.uplink.co.jp/

●横浜    シネマ・ジャック&ベティ
2023年10月21日(土)~
https://www.jackandbetty.net/
初日・初回上映限定・舞台挨拶決定!
DAIJOBU-ダイジョウブ-の世界を木村監督の言葉で直接みなさまにお伝えします。
【日時】10/21(土) 14:00の回 上映前
【登壇者】木村衞 監督

●アップリンク京都
2023年12月8日(金)~
https://kyoto.uplink.co.jp

●名古屋    シネマスコーレ
近日公開
http://www.cinemaskhole.co.jp/cinema/html/

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