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カテゴリ:古代史
日本で最初の時計として知られているのは、今から1300年前に天智天皇(てんじてんのう)が作らせた 「漏刻(ろうこく)」という水時計。 こんな時計だ。 「日本書紀」によると、天智天皇が漏刻を作り、(天智10年)西暦671年4月25日に鐘や太鼓で時を告げた。 今から1300年以上前のことである。 その日を現在の暦に直すと、6月10日になるから現在はその日を「時の記念日」としている。 井沢元彦さん著の「逆説の日本史」から得た知識だが、「天智天皇」の名前の由来は「周書」にあるらしい。 <周の武王が君主となって天下を平定し、それまでの王朝だった殷の紂(ちゅう)王は焼身自殺を遂げた。 そのとき紂王が身に飾っていて焼け残ったのが「天智玉」という宝玉であり、武王はそれを戦利品とした。 この紂王が身につけていた「天智玉」と、それを彼の死後手に入れた武王が「天智」「天武」の由来> とある。 紂(ちゅう)王は中国歴代最悪の王と言われている。 ちなみに、これを調べたのは、かの文豪、森鴎外だそうだ。 これを信じれば、天智という諡(おくりな)はお世辞にもいい意味を持っていないことになり、 「日本書紀」は天武天皇のプロパガンダ誌だということになるだろう。 だが、日本書紀が天武のプロパガンダ誌なら、なぜ日本書紀には天武の生年さえ載せていないのだろう? なぜ<壬申の乱>で天武(=大海人皇子)を勝利に導いた海部氏や尾張氏を無視しているのだろう? という疑問が持ち上がる。 そう考えると、一概に天武天皇寄りの書物だとも判断できなくなるわけである。 少なくとも言える事は <日本書紀は皇室のプロパガンダ誌だ> ということである。 これはもはや疑いようがないだろう。 「大化の改新」の一部は実施されていなかった後世の出来事だったことがわかっているし、 かの有名な「聖徳太子」が架空の人物だったことは今や常識である。 さらに、上記した日本で最初の時計を作ったとされる人物、天智天皇の存命中の名は、東宮開別皇子(もうけのきみひらかすわけのみこ)である。 「東宮(もうけのきみ)」とは皇太子のことであるが、この時代に皇太子制度はまだ確立されていない。 そして「開別皇子(ひらかすわけのみこ)」は天智天皇の戒名である「天開別皇子(あめのひらかすわけのみこ)」の一部である。 したがって、東宮開別皇子という名は後から便宜上つけた名であることが明らかであり、捏造された名なのである。 要するに、日本の政策を大きく転換させた古代史上最も重要な天皇は「名無しのごんべいの皇子」なのである。 こんな異常なことがあっていいのだろうか? と思うが、事実、日本書紀にそう書かれているのだから仕方がない。 さらにさらに、彼の皇子時代の名は、「中大兄皇子」だがこの名前も、「中」が何を指すのか判然としないなど、謎だらけの人物なのである。 一体誰が何のためにこのような改ざんを加えたのだろう? 日本書紀、捏造だらけで、怪しすぎる。 ついで言うなら、日本書紀に書かれている<地名説話>も全部嘘である。 しかも、創作にしてはかなり出来が悪いと言わざるをえない。 現代ならどの出版社にも採用されないだろう。 ともあれ、この天智天皇を祭ってある滋賀県・近江神宮のそばに<時計博物館>なるものがあることを知ったので、もう少し暖かくなったら行ってみようかと考えている。 そんなに遠くないし。 なんでもロレックス社が作った水時計があるらしい。 ・・・見たい。 ただ、家族の誰もが行きたがらないことが問題で、一人で行くと角が立つし、どうしようかと悩んでいる。 そうだ、理由を捏造しよう! 捏造という手法は神話が書いてある日本書紀に倣うわけだから、よもや、バチは当たらないだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.02.11 17:00:54
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