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マックス爺のエッセイ風日記

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2020.08.12
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~「北島国造館」を訪ねて~

  
            <北島国造館境内図>

 しばらく「島根県立古代出雲歴史博物館」の展示物が続いたので、今回は一旦博物館を飛び出して「北島国造館」を訪ねてみたいと思います。博物館は右下方向へ500mほどの箇所に、また出雲大社は左手紫の旗が立っている箇所からが境内になります。つまり北島国造館は出雲大社の直ぐ東側にあり、目の前の道路は「社家通り」と呼ばれています。

   
               

 北島国造館の正門と門前の表札です。千家国造館と比しても全くそん色がありません。

   
      

 出雲教本殿と由緒。明治初期、神祇省によってそれまでの「国造」を廃されたことを契機に、出雲大社の本来の教えに立ち帰って「出雲教」を興したとあります。千家家はこれまで通り出雲大社の神事を司り、「出雲大社教」を名乗って共に神社庁から独立した宗教法人となりました。

      

       境内の要所には摂社に通じる威厳ある門が設置されています。

  

      境内の奥まった一角に鎮座する摂社

   

 思いがけず境内の一角から滝の音が聞こえて来ました。名称は「亀の尾の瀧」。水源は熊野(よしの)川です。北島国造家が当初祀った神社が出雲東部の熊野大社。当時は杵築大社(後の出雲大社)よりも社格は上だった由。また神武天皇を案内したとされる紀伊半島の熊野本宮大社との関連をも、なぜか考えさせられるのです。

           

               滝の名に因む親子の亀の石像。

  

       天神社          天神社の左手に亀の尾の瀧が見えます。
 
 北島国造館の境内に天神社があることに奇異な感を受けますが、菅原道真公が太宰府に左遷されて非業の最後を遂げたことを思うと納得が行きます。かつての北島国造家には、古代出雲の神宝をヤマト朝廷の遣いに騙し取られ、納得の行かない「国譲り」をしたことに対する恨み言が子々孫々口伝えにされて来たと言われます。

 また高さ48mにもなる巨大な神殿は、大国主命が国譲りをした代償として造営を要求したとされています。そしてその巨大な本殿の造営が少なくとも鎌倉時代まで続いた(その柱材が地中に埋まっていたことで証明出来る)理由は、出雲に対して朝廷が何か「疚(やま)しさ」を感じ、出雲を怖いと感じていたことの証でしょう。あの大量の銅剣、銅矛、銅鐸の埋納とも関係しているのか、謎が謎を生みます。

     

          出雲大社及び北島国造家所領地古図

 千家家のみならず、北島国造家にまでこれほど手厚い処遇があった背景に何があったのでしょう。古代出雲の謎は尽きません。<続く>





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Last updated  2020.08.12 00:00:10
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