625486 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

オキナワの中年

オキナワの中年

目取真俊「群蝶の木」

2000/09/04 
新報文芸/大野隆之/目取真俊「群蝶の木」/排除された戦争の記憶/図式化できない゛暗部゛暴く


 ここのところ政治的な言説の方が前掲化している目取真俊であるが、小説も決して停滞してはいない。「群蝶の木」(『小説トリッパー』夏季号)はその事を証明してあまりある意欲作である。
 作品は、久しぶりに故郷の「豊年祭」の時期に帰省した義明と、豊年祭にあられもない姿で乱入する老女「ゴゼイ」を中心に展開する。錯乱したゴゼイは義明に「ショーセイ(昭正)」と呼びかける。昭正とは何者なのか、という謎解きを軸としながら、作品は戦争の記憶の継承がいかに困難であるか、そこで文学が果たせる役割は何であるのか、という難しい問題に直面している。
 この作品は、原稿用紙百枚弱という分量の中で、さまざまな戦争の表現を提示している。
 まず虚構内虚構として、豊年祭で演じられる「沖縄女工哀史」という劇である。この「どこかで聞いたような話をつなげた、全く救いのない芝居」は、沖縄の戦前および戦争を作品化するとき、陥りかねない一つのパターンを示している。類型化され、様式化された記憶。観客は泣き声をあげ、義明もわずかに涙をこぼすのだが、「まわりに気づかれないようにてのひらで顔を拭いてから、次の出し物を待った」、すなわち物語によるカタルシスから、急速に現実に回帰してしまうひとつの「出し物」にすぎないのである。この劇の直後にゴゼイが乱入するのは、後述するように、偶然ではない。
 二つ目は奇跡的に生き延びた後、戦後地域の名士になるまで成功した「元区長」の「字(あざ)史」および、補足的な語りである。九十を過ぎながら記憶もしっかりしており、当時の用語を若者に平易に説明するなど、貴重な語りではある。しかし字史には周縁的なゴゼイ、あるいは朝鮮人慰安婦の記憶は書かれてはいないし、そのような質問に訪れた義明は「珍しいことを聞きよる者」とされてしまう。
 最後にゴゼイという存在、および彼女の記憶がある。しかし彼女の言葉は「ショーセイ、助けてぃとらせ、兵隊の我ね連れてぃいくしが」というような、全く現実の文脈を無視したものであり、他者に了解されることはない。彼女こそまさに戦争の記憶そのものであるにも関わらず、先ほどまで「沖縄女工哀史」に涙していた者たちの手によって、強引に排除されてしまうのである。
 決して継承され得ない記憶、そのために文学というジャンルに何が出来るのか?この作品はそれ自体が、戦争の記憶の表現であると同時に、戦争をめぐる表現に対しての批評となっている。義明は義明なりに懸命に記憶をさかのぼり、あるいは年長者の話を聞き、最後は入院したゴゼイのもとを訪れるのだが、結局ゴゼイの体験は、義明に継承されることはない。この伝達されないということが伝達内容であるという点で、この作品はきわめて複雑な構造を持つと同時に、その分、読者の役割はきわめて大きくなっている。
 ではこの作品で読者は、ゴゼイの体験を感じ取ることが可能であるのか。この点については一定以上成功している、ということが出来る。ゴゼイの体験は目取真ならではの高度な全身体的な描写によるものであり、非常な臨場感をもつ。また彼女の記憶は日本兵が悪者、沖縄県民は犠牲者というような単純な図式にはなっていない。首里校出身の「与那嶺」という将校をはじめとする沖縄出身兵の残虐性、あるいは一般住民と慰安婦との軋轢(あつれき)、さらに戦後の沖縄が抱えてしまった、アメリカ兵相手として特定の女性におしつけられた売春など、善悪に図式化し得ない人間の暗部を徹底的に暴いている。一見補助的なエピソードにみえる、義明の少年時代、ゴゼイの好意をないがしろにした記憶も、平時・有事という状況さえかわれば、容易に噴出しかねない人間のエゴイズム、残虐さを暗示させ、きわめて効果を上げている。
 このような高度な作品に対して「一定以上」というような保留を設けるのは、ただひとえにこの作品が短すぎる事による。読書というのは、一定の時間の中で継続する一つの体験である。この観点から言えば、ゴゼイが不気味な老女から、切実な存在へとうつりかわるには、この作品は短すぎたように思うのである。おそらくこの作品の抱え込んでいるものは、長編それもかなりの分量にのぼるものなのではないか。この作品結末の蝶、もしくは珊瑚のイメージはある種の救いの可能性を暗示した、中短編ならではの巧妙な結末であるが、そこには作中の「沖縄女工哀史」と同様の陥穽(かんせい)が待ち受けているように思われるのである。また作品冒頭で暗示的に語られる、Tという友人の死、またそれに伴う義明達の世代の問題が、中盤以降立ち消えになってしまうのも、紙数の限界によるものだと推測される。
 以上は作家自身の「いずれ、ガブリエル・ガルシア・マルケスの『百年の孤独』のような神話、伝説、歴史、現実政治などが絡んだ複雑で幻想的な骨太の長編を、沖縄史を踏まえて書きたい」(本紙九九・八・三〇)という言葉を受けてのものである。多忙を承知の無理な要求であるが、既に目取真俊の抱え込んだものが、中短編の枠組みを越え始めている事は否定し得ないのではないか。
 ただその一方、たとえ中短編であっても目取真文学は読者に、自己の存在自体に関わるようなある種の苦痛を与える。これが長編になった場合、読み手がその世界に耐えられるか、という問題がある。いつの日か目取真俊が長編を発表したとき、書き手とともに読み手の真価が問われることになるだろう。(



© Rakuten Group, Inc.