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カテゴリ:映画・テレビ
東映昭和32年「水戸黄門」 「月形龍之介」の名をご存じのかたは、私と同世代かそれより年上であろう。 なお、私は楽天ブログで、学歴のことも平気で語るから、うぬぼれなどと取られても仕方ないが、私は「人には星がある」、つまり、私は生まれ方によっては、学歴に一切無縁だったかも知れないと思っている。星とは運命(さだめ)の意である。もう一つのこととして、私は己を含む一般人の娯楽見識にも、上下あると断じている。 よく聞く言葉に「生まれる前のことは知らない。ものごころつく前も知らない。それで当然」というのがあるが、果たしてそうか。 特に今回テーマとする劇場映画に関しても言える。私は昭和27年暮れ近くの生まれだから、東映映画「笛吹童子」や「紅孔雀」をリアルタイムで見ていないし、さらに趣味分野で言うなら昭和29年11月公開の東宝映画「ゴジラ」も劇場では見ていない。ゴジラの知名度が高いのは、この年つまり西暦1954年から今日までの長きにわたる怪獣としての魅力、その映画シリーズの60年に及ぶ息の長さゆえであろう。60年。ゴジラ還暦である。 だが私はゴジラは格別の存在としても、見ることの出来なかった「笛吹童子」も「紅孔雀」も、あとから何らかの方法で見て、成らば同時代の子等の仲間入りをしたかったとの執念と、追体験で懐かしさを己れのものにしたいとの憧れから、今やこれら様々な往年の時代劇を懐かしむ一人となった。 「生まれてないから、ものごころつく前だから知らない」とそっぽを向く見識低き輩とはだいぶ違うのである。 同様に私は月形龍之介とその代表作の何本かを、劇場映画としては見ていない。もっと言うなら、ものごころとっくについて以後のものも、見ていないものがある。我が日本は、昭和30年代、そう豊かではなかったが、劇場映画は唯一の娯楽とも言われる。だがそれ以外の家風とも呼ぶべき原因もある。 確かに邦画大手は、既に斜陽と言われながらも、娯楽映画を何本も公開し続けた。 我が家では、見たいからといって、毎年公開される話題作を、その時々の衝動で無制限に見せてはもらえなかった、 昭和37年春公開の東宝映画「妖星ゴラス」は見せてもらえなかった。ただし、同年夏公開の全国的話題作「キングコング対ゴジラ」は当然の権利のように劇場に足を運ぶことが出来た。 当時の兄の力もあったような気もする。新聞の夕刊の下半分にでかでかと映画広告が載ったのだ。「ゴジラ勝つか、コング勝つか」との大きなうたい文句が広告の上に踊り、兄はそれを母に見せて、遂に日米二大怪獣対決の凄い映画が来たと、見るべし、入場料を暗にくれるべしと言っているようにも聞こえた。 私はその夜夢に見たほどだった。夢も珍しく総天然色で、なぜか巨大な風船に吉永小百合が乗っていた。 こうして、東宝特撮映画は、見られぬものもかなりあった。そして先程書いたように、ものごころつく前の作品にも趣味分野はもちろん、さらに広げて時代劇にも親しんだ。星移って、娯楽の中心はテレビに取って代わられた。当然ながら私にも若い時代があった。そしてその時代には、残念なことにテレビの愚劣な「水戸黄門」シリーズが全国の人気を集めていた。 若き私は、「テレビ版に水戸黄門の適役は誰もおらぬ」と一人、憤った。と言いたいところだが、一時期、姿が美しいとも言える市川雷蔵(いちかわ・らいぞう)を絶賛していた若き頃の我が母は、テレビ版の下品さを見抜いていた。 特に初代を演じた東野 英治郎(とうの・ えいじろう)を一目で嫌い、「あれじゃあ、本当にただの百姓じじいだよ。水戸黄門を演じても、百姓姿との区別が出ていない」と、見事に一蹴した。 それより前の昭和39年、これぞ本物のテレビ版と言うべき「水戸黄門」シリーズには、御大(おんたい)月形龍之介自身が出演していたから、これは本当にぜいたくで、申し訳ないくらいだった。 その主題歌のうち、「水戸黄門旅日記」で、見事な歌唱で聴かせる三波春夫氏の歌の二番に、水戸黄門かくあるべしと訴える如き歌詞がある。 「♪ 身は百姓にやつせども、きのうの錦、きょうのぼろ。隠せぬ旅の旅衣・・」 である。ここにこそ、ドラマ「水戸黄門」の映像としての価値・真価がある。 月形水戸黄門は、水戸でも隠居老人、旅姿でも隠居老人ではなかった。 名優・月形龍之介の演技の使い分けが、見事に表われ、例え身は隠居老人の姿をしていてさえ、威厳と風格は自然とにじみ出て隠せなかった。 さすがにテレビ版は、30分番組でもあったから、毎回様々な趣向で物語が描かれ、ある種の軽さはあった。しかしながら月形龍之介が、この軽さをより重いものに変える演技を見せていた。 さて、月形龍之介の水戸黄門の本領発揮は、東映映画の劇場版「水戸黄門」である。 テレビ版、特に東野英治郎以降のドラマでは、うんざりすると言える神通力ありげな印籠が、伴の者によって「控えおろう」と突き出されるが、あれも最後の場面近くで必ず登場するから、軽さをさらに軽くするばかりで、威厳も何も感じられなかった。 これぞ本物の映画「水戸黄門」のうち、東映昭和32年8月公開の「水戸黄門」の中から、黄門自ら葵の御紋を見せて、威厳と風格を堪能させる場面がある。これをセリフでつづってみる。既に前置きが長かったから、この一回限りでブログを完了させるのは不可能と思われるが、出来るだけ、二回目が軽くならないよう、つづってみる。なお、本作品の名場面と言える水戸黄門自ら葵の御紋を見せる各ショットを掲載したかったが、もし、この一回目でそのハイライト・シーンに達しない場合は、DVDの静止画を二回目に掲載するかも知れない。 言い訳めいて来るが、画面もさることながら、水戸黄門のセリフに、劇場映画時代のセリフの重みもある。そちらを重視したい。 今回のブログの趣旨からも、映画「水戸黄門」の物語全体のあらすじなどは、ほとんど省いて、月形龍之介の水戸黄門の威厳と風格の描写に重きをおく。 セリフとセリフのあいだに、簡単な説明のト書きのような文章を挿入する。 極めて簡単に物語の骨組みを書いておくと、お家(いえ)乗っ取りを企む悪の一派を駆逐せんと、水戸黄門一行(いっこう)が活躍する筋立てとなっている。 また、時の五代将軍・徳川綱吉が実名で登場するが、その片腕である老中・柳沢吉保(やなぎさわ・よしやす)は、柳沢出羽守(でわのかみ)との呼び方で登場し、裏で糸を操る悪人役ながら、最後までその罪状は表に出されず、権謀術数(けんぼうじゅっすう)の張本人でありながら、策略失敗との結果だけが示されて終わりとなるのは、徳川吉宗が活躍する「暴れん坊将軍」に於ける徳川御三家の一つ、尾張徳川家の尾張大納言(だいなごん)宗春(むねはる)の如き悪人扱いだが、史実はそう単純ではない。 東映はこのあたりを巧みに潤色し勧善懲悪の娯楽仕立てで描いている。 さて、黄門一行は、騒動に巻き込まれた一藩士の許嫁(いいなずけ)の娘が、柳沢に奪われそうになったのを助け、一軒の宿屋にかくまう。 これをかぎつけた同心、岡っ引きたちが乗り込んで来て、宿の女将(おかみ)をおどし、問い詰めて、次第に緊迫した場面になってゆく。 同心「ならば尋ねるが、宿泊の数はいかほどじゃ」 女将「はい、ご覧のような貧しい宿屋でございますので、お客様は二階の一組だけで」 同心「その一組は ? 」 女将「はい。武州川越在のお百姓、八右衛門(はちえもん)様と、そのお連れ様でございます」 同心「その連れは何人じゃ」 女将「お二人様で」 同心「若いか ? 」 女将「はい」 同心「おう、上がるよ」 ここに二階から短く鋭い一声がかかる。 老人「ならぬ ! そのままに、いなさい」 これこそ余人にあらぬ先の副将軍・徳川光圀(みつくに)に相違ないが、百姓の隠居という仮の姿を現わしたとたん、当時の観客は胸をわくわくさせていたと察する。 伴の助さん、格さんは、二階で油断なく見守っている。 水戸黄門は、同心たちに待てと言い放ったあと、ゆっくり階段を降りて来る。 ここで既に、月形水戸黄門の隠居老人姿に、威厳が漂う。階段一つ降りる所作(しょさ)に、威風あたりを払う風格がある。 上がりがまち近くに背筋を伸ばして立つ水戸黄門は、軽く笑みをたたえながら同心どもに語りかける。 老人「ほほお、両人とも、いつぞやどこかで見た顔じゃの」 同心「そのほうは ! ? 」 老人「問うまでもなかろう。この宿の泊り客は、一組だけじゃ」 同心「ええい、されば、そのほうの連れが先ほどここへ、腰元ふうの女を・・」 老人「おうおう、いかにも連れ込んだ。わしの言いつけでな」 当時の観客は、今か今かと、期待と興奮は最高潮に達したことと思われる。 ─つづく─ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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