泣きわめく紺野あさ美を吉澤ひとみが連れ出した…フットサルチーム「ガッタス」はなぜ始まり、なぜ終わったのか

芸能女子フットサルチーム「ガッタス」の活躍を記憶している人は多いでしょう。「ハロー!プロジェクト」所属のメンバーらで構成されたフットサルチームとして発足したガッタスですが、サッカーファンも驚く本気の戦いで活動を休止する2015年までフットサルの普及に貢献しました。今回はガッタスの中心メンバーでキャプテンでもあった吉澤ひとみさんに、ガッタスの裏にあった人間ドラマやエピソードを語っていただきました。 (お台場のグルメランチ

泣きわめく紺野あさ美を吉澤ひとみが連れ出した…フットサルチーム「ガッタス」はなぜ始まり、なぜ終わったのか

f:id:g-gourmedia:20160517113129j:plain

(c)ジェイピィールーム

 

2015年3月、あるチームが活動を休止した。

フットサルチーム、「ハロー! プロジェクト」のガッタス・ブリリャンチスHPが活動を止めることになったのだ。

足かけ13年活動した「女子芸能フットサルチーム」のパイオニアは、本来なら2カ月限定のプロジェクトだった。だが、大敗が彼女たちに火を付ける。

週2回の練習では、お互いのミスを許さないピリピリとした空気が流れていた。
「今のこっちのこと見えてた? 見えてたの?」
「……見えてました」
「見えてたのならいいわ!」
そんな刺々しくも思えるほどの会話の中で、彼女たちはフットサルにのめり込む。

練習でも試合でも負傷する。その傷をごまかしながら、彼女たちはステージで踊っていた。

彼女たちは、キレイな女性たちがかわいく、そしてケガをしない程度にやっていたわけではない。

彼女たちのプレーを見たことがある人は、どれほど必死だったかを知ることができただろう。

試合前の円陣にまでカメラを突っ込まれるほどプレッシャーを受けながら、勝つことで自分たちの価値を証明しようとしていた選手たちは「リアル」だった。汗も涙も怒りも喜びも、みんな本物だった。

彼女たちの技術は飛躍的に進歩したが、一般の大会に参加したときには苦戦することが多かった。0-7、2-9など大敗した試合も少なくはない。それでも彼女たちは厳しい相手との挑戦を続けた。その姿こそ、彼女たちが目標とした「フットサルの普及」に勇気を与えたことだろう。「負けても、勝つまで続けよう」という無言のメッセージを発信し続けたのだ。

今となっては、もう彼女たちの勇姿を見ることができない。だから、せめて最後にキャプテンだった吉澤ひとみさんの思い出話だけは記録しておこう。

f:id:g-gourmedia:20160517114239j:plain

 (c)ジェイピィールーム

 

厳しい練習と強すぎた「自分が」の気持ち

練習、厳しかったですね。選手同士の接し方も厳しかったし。

 

身体の向きから詳しく指示されていました。パスが来たら最初のタッチで前を向けるところにボールを置いて、そこから次のプレーに移るとか、とにかく細かいところまでこだわってた。

 

CKの練習は、タイミングを合わせて走り込む選手のどちらかの足にパスを出さなければいけないんです。そういう練習では、左足にパスを出さなければいけないとき、右足にボールが来たら蹴らない。黙って右足を上げて触らないんです。「それ、違うよ」って。

 

練習は週2回、午前中です。寝てないような状態でも行ってました。練習後の自主練もあって。「カントリー娘。」の里田まい、あさみ、みうなの3人は、終わった後も必ず自分たちでトレーニングしてたかな。室内の練習場で夏は暑いし、シャワー取り合いだし。更衣室もエアコンが効かなかったので大変でしたね。全力で練習して、汗だくになって、そこからリハーサルに行ってましたよ。今思うと、すごい体力。

 

それくらいやって勝たなきゃいけないし、勝ちたいと思ってました。自分たちで自分たちを追い詰める状況ですね。

 

たとえばダンスだと、先生が評価してくださいますが、フットサルは監督がいても、評価は監督がするものじゃない。評価は試合の結果として出る。試合をするとなると、何十分後には自分たちへの評価が出る。そこに向かって、みんなの意識、集中力はものすごく高かったと思います。

 

開始5分で、ゴールが奪えていないと誰かが怒り出すんですよ。「なんで点が入ってないんだ。こんなんじゃ負ける!」とか、負けたときに「ほら、負けたじゃん。どうすんの、これ」って。誰のせいでもないけど、何か原因を探って、このままじゃいけないと指摘し合う。

 

試合中は言い合いです。ピヴォ(FW)の藤本美貴は前で「ボール全然来ない。これじゃゴールできるわけないでしょ!」って言うし、後ろは後ろで、「前が動いてなくてパス出すところがないから出せない」と言うし。結果、勝ちたいがための、「自分が」という気持ちがすごくて。北澤豪監督も大変だっただはずです。

 

監督が外から指示を出しても、自分の感覚に従っていたと思いますね。まぁ監督の言うことは聞かない、刃向かう、泣く、わめく、帰るって言う(笑)。だから監督には申し訳なかったと思います。

 

自分が出てないときにゴールが入ったら、試合が終わって一度は喜ぶけど、首に巻いていたタオルを床にたたきつけるという選手もいました。そういうのを観客の前でやっちゃってましたけど、そういうのも含めて観客のみなさんは見ててくれた。

 

普段ニコニコ手を振って「みんな、ありがとう」ってやってる人物が、笑顔ない、ふて腐れる、キレてる、ユニフォームつかんでる。そういうのを見ると、本当だったら驚くじゃないですか。でも、ファンのみなさんがそれを楽しんでくれて、応援してもらった。

 

スポーツじゃないと、あれはないと思いますね。だいたいファンの人の声援も「がんばって~」とかじゃなくて、「○○、走れ!」とか「おぅおぅおぅ!」とか、「ディフェンスちゃんと固めろ!」とか。ファンじゃなくてサポーターでしたよ。

 

熱くなってもらったというのは、ありがたいことでしたし、そういうサポーターの声もあったから、私たちもそれに応えたいと思ったし。お互い、サポーターも自分たちも、それを見ている関係者も巻き込んで盛り上がっていったと思います。そんな空間でした。

f:id:g-gourmedia:20160517113300j:plain

(c)ジェイピィールーム 

 

泣き出した紺野あさ美を見てメンバーは固まった

パッと思い出すのは、最初の試合、2003年11月16日のスペランツァFC高槻戦ですね。0-7の敗戦なんですが、7失点で終わりましたっけ? 10数点入れられたんじゃないか?、という感じでした。その後も負け続けましたね。

 

もともとガッタス・ブリリャンチスHPは、2003年冬のイベントまでの期間限定チームとして結成されたんですよ。実は私、最初チームから声がかかっていませんでした。

 

でも10月に選抜チームを作るからと「ハロー! プロジェクト」に所属する子が全員神宮に集められたんです。そこに北澤監督がいてみんなボールを蹴らされて。

 

最初はみんななぜボールを蹴らなければいけないのか、よくわかっていなかったですよね。「なんで蹴ってるの?」「なんでアイドルなのに?」「なんで必死なの?」「なんでまたオーディションやるの?」そんな雰囲気がありました。

 

でも、「やる」となったらみんな負けず嫌いの子たちの集まりなんで、「やりたい」ってなるんです。誰が選手になるかは実力次第で、人気は関係なかったですね。

 

私は幼稚園のころ、サッカークラブに入ってプレーしてたんですよ。男の子たちと一緒に。友だちに誘われて。週に2回練習して、試合したりして。小学校の入ってからもやってました。

 

幼稚園、小学校では男の子よりも身体が大きかった。背が高いし、身体も大きいし、割と足も早いほうだったんで、ボールを持ったら1人で走って行っちゃう、みたいな(笑)。小さいころってパス出さないじゃないですか。自分も持ったらゴール前に行ってシュートしてました。

 

そういう経験があったから、そこでチームに呼んでいただいたんです。

 

チームが始動すると、最初から本当にマジメにサッカーをやってきた人たちとの試合が組まれていました。向こうが「アイドルをケガさせたらどうしよう」と緊張しているのはわかりました。それから「アイドルだからチャラチャラやってくるんだろう」と思っていたと、本気では来なかったでしょうね。子どもたちとプレーするときに、ちょっと遠慮しちゃうというのと同じ気持ちがあった気がします。

 

それでも大敗して、私たちに火がついちゃって(笑)。そこからは1年中、試合していました。今だから言えますけど、本業どっちですかっていいたいくらい。気持ちの入れ方も気合いの入れ方も、身体も張ってましたから。2004年8月の「お台場カップ」でやっと勝った。その大会で優勝できたのは忘れられないです。

 

毎年、お台場の大会は夏なんですよ。40度ぐらいの炎天下で、屋根もない。選手もお客さんも熱中症っぽくなちゃった。結構細かく水も飲んでましたし、「水分補給してください」というアナウンスも小まめに入っていたんですけど、それでもしんどかった。よくやってたと思います。今じゃもう無理でしょうね。

 

でも、そういうところで試合をしていたおかげで、ガッタスのメンバーは、夏のライブでスタミナが違いました。炎天下、あの熱気の中でボールを追って走り回ってるって、結構体力つきました。みんなへとへとになってるのに、ガッタスメンバーだけ動きが違う。もともと、ライブのために始めたわけではなかったですけどね(笑)。

 

そのうち、「女子芸能人フットサル大会」という位置づけでスフィアリーグも始まって、そこでもいろいろなドラマがありました。

 

ある大会のとき、初戦の前にスターティングメンバーを発表したら、ゴレイロ(GK)で辻希美が指名された。すると紺野あさ美が泣きわめいちゃったんです。「なんで私が先発じゃないんだ!! こんなに練習したのに」って。確かに辻はあんまり練習に来られなかったんですよ。それで紺野はすごい気合いが入ってた。

 

絶対この日は自分が先発で行くもんだと思っていたら「辻」って監督が言ったから、どうしたらいいかわからなくなっちゃったんでしょうね。だから、泣きながら「もう帰る!」って。

 

その場にいたメンバーはみんな固まっちゃったんですよ。そんな紺野のこと、見たことがなかった。普段、大人しい、感情を表に出すような子じゃなかったので。それで「あれ、どうしよう。やばい」って雰囲気になったんです。

 

だからここは連れ出す必要があると思って、「ちょっといいから」って控え室に連れて行って、「どうした?」って聞いたら、そこで初めて彼女が自分の考えをはき出した。そうしたらスッキリしたみたいで、そのあとは「取り乱してすみません」ってみんなに謝っていました。

 

他にも、決勝戦でみうながPK戦でキッカーに名乗りを挙げたときがありました。引っ込み思案のみうなが手を挙げたので、みんな「え? ウソでしょう?」と驚いたし、誰もが、たぶんファンの人もそう思ったと思います。でも、そこで声を出す勇気も、彼女がフットサルをやってきたことで身につけたのでしょう。そんな台本がない、感動的なシーンがたくさんありましたね。

 

本気のぶつかり合いだったスフィアリーグ

「スフィアリーグ」も本気のぶつかり合いでした。相手が私たちを倒したいとやってきてくれた。だから自分たちは「いかに堂々としてるか」考えていました。相手の当たりも強かったんですけど、逆にそのほうが「こっちのもんだ」って。ガンガンきてくれると、こっちのスイッチが入るんです。「やれるもんならやってみろ」っていう選手が多くて。

 

カレッツァ(2009年解散)とか、チームドリーム(2008年解散)とか、南葛シューターズ、アサイレッドローズ(2008年解散)みたいな、監督から圧力があるチームとは、始まった瞬間からバチバチいった気がします。みんな怖かったですね、当時は。

 

逆に相手チームが、かわいらしい女の子でニコニコとやってくると、ふわっと試合に入っちゃってダメなんですよ。そういうチームが苦手でした。グイグイ来ない、けれど戦術しっかりしてて、パスも回せるという相手。1点取られると、そこからしか自分たちのスイッチが入らなかったですね(笑)。

 

でも、リーグ戦は難しい部分がありました。チームによっては無理矢理でも勝つために変わっちゃった。誰、あれ、みたいな助っ人が入って。そうなったのが残念でした。

 

その後、自分たちの活動は一般のリーグのほうに力が入るようになりました。そこでは負けが続きましたけど、相手が一般であろうと芸能であろうと、やっていることには変わりがない。そこで芸能活動やっていることを敗戦の理由にしたくないと思っていました。だから負けに対しては余計にシビアに捉えるようになりました。自分たちは芸能界のリーグではそこそこできても、一般のずっと練習している人たちと比べると、まだやれるのはこれだけだ、とその先を追求していました。

 

でも最後は練習も週1回になりましたね。仕事で来られない選手がたくさん出てきて。それに試合がないと、みんな練習に来ないんですよ。なんのために練習やるのってなっちゃって。もちろん試合があってそこに勝つための練習なんですけど、みんなだんだん趣味の一つのようになってしまった。やりたい子と、試合があるんだったらやりますという子に分かれちゃいましたよね。

 

ガッタスを振り返ると、今ではもう絶対にできないことだと思います。それぞれ環境も違うし、状況も違うし、考え方も違うし。どうしてあのときだけは、キュッとまとまったのだろう。どうしてできたんだろうと考えると、みんな初めてのことで、やったことがない、想像も付かない、そういう未知の世界に「やるぞ」って言って走り出したから、そのまま突っ走れたんでしょうね。あれは一つの時代というか、ガッタスが作った歴史になっているという気がします。

f:id:g-gourmedia:20160517113354j:plain

 (c)ジェイピィールーム

 

合宿での枕投げに深夜の焼肉…そういうのが楽しかった

今でも、私たちのフットサルを見ていたと言う人たちによくお会いするんですよ。「すごくやってたよね」「あれを初めて見てフットサルはじめた」とか、「あの時実際に試合会場の駒沢体育館に行ったんだよね」なんて言っていただいて。しかも私たちのファンじゃなくて、「女子フットサルが盛り上がってるって聞いたから行ってみた」というお話を聞くと、自分たちは自分たちが思っていたより影響力とか発信力を持っていたんだという気がします。

 

日本代表をテレビで見たり、スタジアムに行ったりして応援するというのは当然だと思うんですよ。自分たちの代表なんだし、日本を応援するのだから。でも、「私たちを応援してくれてたんですか?」「見に来てくれてたんですか?」とか、そういう驚きが今でもあります。そうやって応援してもらえるくらい必死にやってたんだ、自分たちって、と気付かせてもらいました。

 

それに当時、試合の日に記者の方々から「見に来ている人たちが待っているときにボールを蹴っていた」と聞いて、うれしかったですね。自分たちの目的の一つに「普及」という大きな課題があったから。私たちがフットサルを始めた2003年ぐらいから、全国にフットサルコートができはじめて、コートの予約ができないくらいフットサル人口が増えていった。そうやってフットサルが普及するのが、本当に目に見えるように変わっていったし、女子サッカーもすごく盛り上がって、「なでしこ」も大きくなった。自分たちのやって来たことも少しは役に立てたのかなぁと感じるようになりました。

 

チームは解散してしまいましたけど、最初から終わりまで、足かけ13年でちゃんと流れをつくれたと思います。同じチームでできたというのはすごいことだとも思います。一つのチームが13年も続けられていたというのは、すごいことですよね。

 

自分の子どもができたら、サッカーは……もう大変でしょうね。気になっちゃって。もしサッカーを始めたら、いちいちうるさいかもしれない。「ああしろ」「こうしろ」「あれだめだ」「これダメだ」って。

 

最近、サムライブルーの試合を見に行くんですよ。この前のアフガニスタン戦も行ってました。妊娠してるので、暴れませんけど。そのときに思ったんです。「もし、あそこで息子がボール蹴ってたらもうダメ。見てられない」って。周りがプレーに対していろいろ言うじゃないですか、そういうのを聞いてても、あー、これは耐えられないって。だから、男の子にはやってほしくもあり、やらないほうがいいかもという気持ちもあり、ですね。でも女の子だったら、次の澤穂希さんを目指せ、みたいな(笑)。それもワクワクしますね。

 

フットサルの練習はきつかったけど、楽しいこともありました。合宿したときは、大喜びする選手がいましたね。小さいころからアイドルだった子は、ほとんどみんな修学旅行に行ったことがないし、コンサートでどこかに行っても1人部屋で、枕投げをしたことがなかったんです。だからすごく楽しかったみたいで。

 

合宿は2人部屋だから、辻は待望の枕投げができてはしゃいでました。遠足気分で、バーベキューのときは張り切るし、夜は興奮して寝ないし。あとのメンバーは合宿なんで、今日はしんどいとか、練習ツライとか、そんな感想ですけど、辻だけは「また行きたい」って。同じ部屋だった石川梨華ちゃんは困ってましたよ。

 

それから自分たちの楽しみは、試合が終わった後に必ず行っていた焼肉でした。みんな大好き。焼肉に行きたいから頑張る。紺野がキャッチングの練習するのに、「ボールをタン塩だと思え」とか「冷麺だと思ったら絶対キャッチするだろう」とか、そういうのにも使ってました。紺野も「わかった、これは冷麺だ!」ってPKの練習したりとか、何かと食べ物にかこつけて必死に自分たちを追い込んで。

 

それから、「すかいらーく」さんにもお世話になりました。お台場の大会のときは「すかいらーくグループカフェ」があって、そこで食べさせてもらってたんです。食べる前は「暑くて食べらんない」なんて言ってたのが、いざ注文するとすごい量(笑)。深夜の焼肉も、すかいらーくグループカフェでの甘いものも、一切気にせず食べてました。そういうのが楽しかったんですよ。

 

子どもでしたね。みんな子どもでした。

 

 

吉澤ひとみ プロフィール

f:id:g-gourmedia:20160517171015j:plain

アイドルグループ「モーニング娘。」の元メンバーで、第4代リーダーを務めた。
2000年、モーニング娘。第3回追加オーディションに合格し、石川梨華・辻希美・加護亜依とともに第4期メンバーとしてデビュー。2007年にモーニング娘。を卒業、2015年に結婚し、現在は第一子となる男児を妊娠中。

埼玉県出身、1985年生まれ。

(写真:(c)ジェイピィールーム )

 

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

f:id:g-gourmedia:20150729190216j:plain

佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。

ブログ:http://morimasafumi.blog.jp/

 

                             
ページ上部へ戻る