マズロー批判

マズローの欲求階層説批判

           人間存在論(後編)』 より ☞ マズロー批判解説 欲求とは 心とは

 ① 価値的記述は科学的心理学とは分離し、哲学や倫理学のなかで論じるべき

② 自己実現欲求の強調は、人間的欲求の否定的側面から目を背け、真実への探究の障害になる

③ 欲求五段階説とは何か、また分類の妥当性はあるのか

④ 安全の欲求は、個体維持のための生理的欲求として基本的なものである

⑤ 所属と愛、承認の欲求も生存のための基本的欲求である

⑥ 生命の欲求は、個体維持と種族維持に優劣・強弱を付けることはできない


 アブラハム・マズロー(1908-1970)は、人間性心理学の提唱者とされており、人間行動の動機や人格の研究において、それまで主流であった精神分析や行動主義と異なる第三の勢力として出発した。精神分析や行動主義とは対照的に、主体性・創造性・自己実現・個人の成長促進といった人間の肯定的側面を強調した人間観にもとづく心理学で、臨床に携わる一般のカウンセラーやセラピスト、教育者に歓迎された。しかし、人間欲求や本性についての事実認識や至高経験等の価値的位置づけにおいて、科学的検証が困難であり誤りや限界が見られる。

① 価値的記述は科学的心理学とは分離し、哲学や倫理学のなかで論じるべき

 まず人間性(存在)の本質において科学的な観点から、欲求に価値や優劣を伴う5段階の階層(hierarchy)を設けるべきではなくもし設けるとしても動物的な基本的欲求と、人間的な二次的欲求の二分類に限定し、価値的記述は科学的心理学とは分離し、哲学や倫理学のなかで積極的肯定的生き方として論じるべきであった。我々が今まで述べてきたように(生命言語心理学)、基本的欲求とは個体と種の維持・存続を目的とする生理的社会的欲求であり、人間的な欲求とは言語的構想力を前提とした創造的・発展的欲求である。どのような言語的構想(「いかに生きるべきか」「何を肯定すべきか」等の生き方・価値観)を持つべきかは、まさに人間としての生き方の問題なのである。

② 自己実現欲求の強調は、人間的欲求の否定的側面から目を背け、真実への探究の障害になる

 次いで、マズローの強調する「自己実現欲求(the self-actualization need)」の問題性は、人間性の肯定的側面を強調するあまり、人間的欲求の否定的側面から目を背け、人間や社会の真実への探究の障害になるということである。現実の人間の利害関係を隠蔽し、集団的人間管理や組織経営に悪用される恐れがある。自己実現(成長や発展を含む)自体は推奨されるべき倫理的目標ではあるが、排他的な競争に勝ち、選ばれた一部の人間にしかなし得ない自己実現では、心理学の顔をした人間管理の特権的イデオロギーといわれても仕方がない。例えば経営学で重視される企業内の自己実現は、排他的競争を助長するし、人間管理のみを強調する管理主義を自己犠牲・奉仕的労働を合理化することに利用されかねない。また、マズロー自身が意図することはなかったが、否定的・排他的欲求が極端な場合、搾取的自己実現(労働者の酷使)、暴力的自己実現(暴力団、戦争の英雄行為)、全体主義的自己実現(独裁、カルト宗教)という歪んだ非人間的自己実現が実際に起こっている。

③ 欲求五段階説とは何か、また分類の妥当性はあるのか

 まずマズローの主張から上記二側面のうち欲求五階層説を検討してみよう。

 彼が唱えた欲求階層説では,人間の基本的欲求は,優先(強弱)性があり5階層の1階層目の欲求が満たされると,1階層上の欲求を志すというものである。つまり、人間の基本的欲求階層(THE BASIC NEED HIERARCHY)は,①生理的欲求(The Physiological Needs),②安全の欲求(the safety Needs),③所属と愛の欲求(The Belongingness and Love needs),④承認の欲求(The Esteem Needs),⑤自己実現の欲求(The Self-acutualization Need)がある。①生理的欲求と②安全の欲求は,人間が生きる上での衣食住等の根源的な欲求,③所属と愛の欲求とは,他人と関わりたい,他者と同じようにしたいなどの社会的欲求である。また④承認の欲求とは,自分が集団から価値ある存在と認められ,尊敬されることを求める自尊と承認の社会的欲求のことである。そして,⑤自己実現の欲求とは,自分の能力,可能性を発揮し,創造的活動や自己の成長を図りたいと思う欲求のことである。

 上記の五階層の分類は、人間の基本的欲求の分類として妥当であろうか。また欲求間の階層性はあるのであろうか。あるとすればどのように位置づけるベきだろうか。彼による次の説明から考えてみよう。

幅広く動機を理解しようとするなら、すべての動機の間に存在する関係をこそ学ぶ必要があるのであり、けっして動機を別々に分離して取り扱ってはならないのである。・・・・・ すなわち、第一に、人間というものは、相対的・段階的にしか、満足しないものであり、第二に、人間のいろいろな欲求間には、常に一種の優先序列のヒエラルキーが存在するという事実である。」(『人間性の心理学』p75 強調は引用者による)

 彼の言う「動機」とは「欲求」のことであるが、欲求を分類しそれらの関係を明らかにすることは正しい。しかし、人間の諸欲求の充足度がそれぞれ独立的・相対的である(例えば食欲と性欲)としても、段階的にしか満足しないものであろうか。また欲求間の関係は、彼の言うように階層的な「優先序列のヒエラルキー」が存在するのであろうか。彼の③所属と愛の欲求を述べた部分の説明によって検討してみよう。

「もし、生理的欲求と安全の欲求がかなりじゅうぶんに満足されるならば、愛と愛情、所属の欲求が起こってくるであろう。そして、今まで述べてきた一連の過程がこの新しい中心のもとに繰り返されるであろう。いまやかつてなかったほど、友だち、あるいは恋人、妻、子どものないことを痛切に感じる。人は一般に他者との愛情に満ちた関係、すなわち、自己の所属しているグループ内での地位を切望しているし、この目標を達成するために一生けんめい努力するであろう。人はこの世の中の何物よりもこのような地位を得たいと思い、自分がかつて空腹なとき、愛を非現実的、あるいは不必要な取るに足りないことと軽蔑していたのさえ忘れるであろう。」(『人間性の心理学』p99)

④ 安全の欲求は、個体維持のための生理的欲求として基本的なものである

 我々の基本的欲求の分類と比べると分かるように、②安全の欲求は①生理的欲求と同様に個体維持の基本的欲求であるし、哺乳動物にとって愛や所属の欲求なくして種の維持・存続はありえない。所属や愛は、安全を保障し母子関係や育児・保護などの種族維持するのに不可欠な欲求であり、空腹な時でさえ、社会的種族維持的に必要で現実的な欲求なのである。①②③は共に分類はできても、優劣を伴って階層的に捉えることのできない生存活動における基本的前提なのである。むしろ人間は、空腹や危険なときこそ「友だち、あるいは恋人、妻、子どものないことを痛切に感じ」精神的な救いを求めることもあるのではないだろうか。戦場での瀕死の兵士が、生理的欲求や安全の欲求が満たされていないにもかかわらず、母親や恋人への思いを強めることこそ「人間的欲求」と言えないだろうか。マズローの欲求階層論はあまりにも現実を無視した観念的独断と言わざるを得ない。

⑤ 所属と愛、承認の欲求も生存のための基本的欲求である

 ④承認の欲求についても、自己表出・主張(存在)が社会的に承認されることは、子どもの成長や発達、自信や自尊心、生存能力を高める基本的な条件(欲求)である。我々は承認欲求を、<個体維持における③自己表出:模倣・学習、探索,「承認」,優越,遊び(発達享楽性)>という分類の中に含めたが、これらも個体が生きていくのに必要な、階層的に捉えることのできない、そして動物においても共通する社会的生得的欲求の一部である。また、彼が説明の中で「自尊心の欲求に満足を与えることは、自信、価値、強さ、可能性、適切さ、有用性や必要性などの感情へと通じている」と述べているように、社会的に承認されているという「肯定的感情」とも関係している。

 我々が分類している「人間的二次的欲求」は、言語的構想力に伴う感情の肥大(もっと)化から生じるとと考えているが、それによって承認欲求を、より階層的に高次の欲求(甘えや我がまま、貪欲や権力欲等の社会的欲求に通じる)に分類することも可能になる。欲求に階層性があるとすれば、①から④の階層に属するとされる食欲や性欲、安全や所属の欲求も、感情的な次元で「もっと」快適な充足(肯定的感情)を求めることになれば、動物的基本的欲求と人間的二次的欲求を分類することができるようになる。もっと美味しいものが食べたい、もっと素晴らしい家庭が築きたい、もっと社会的に認められたい、権力をふるいたい等々の欲求は、実はマズローが基本的欲求の最上位に位置づけ理想化した⑤自己実現欲求に他ならないのである。さらにマズローの引用を加えて補強しておこう。

「基本的欲求自体は、どちらが強力かという原則に従って、はっきり定まったヒエラルキーにその位置づけを行なうものである。こうして、安全の欲求は愛の欲求よりも強力である。なぜなら、この二つの欲求が阻止されたときに、いろいろと論証可能な形で有機体を支配していくのが安全の欲求だからである。この意味において、生理的欲求(下位階層のうちに位置づけられる)は安全の欲求よりも強く、安全の欲求は愛の欲求よりも強く、愛の欲求は承認の欲求よりも強く、そして承認の欲求は、われわれが自己実現の欲求と呼ぶ特異な欲求よりも強いということになる。」(『人間性の心理学』邦訳p164)

⑥ 生命の欲求は、個体維持と種族維持に優劣・強弱を付けることはできない

今まで述べたところから、このような欲求の位置づけが誤りであることは明らかであろう。生命の欲求は、個体維持と種族維持に優劣・強弱を付けることはできない。根本で強弱を付けられるのは、種よりも個体の維持が優先すると考えることもできるが、生命の持続性(生命の生存目的)から見るとナンセンスであることが分かる。確かに食欲等の生理的欲求が満たされなければ個体死を迎えるが、種族維持のための性的育児的欲求が満たされなくても個体は死なない。しかし、生命の種としては滅亡してしまう。そうにならないように、安定した社会環境のもとで性的欲求や養育の欲求を満たすことができれば最大級の快感が得られるのである。

⑥ 生命の欲求は、個体維持と種族維持に優劣・強弱を付けることはできない

 また人間に特有の自己実現の欲求は、もし実現できなければ、つまり自己の人生計画や家庭職場等の快適な環境への願望や希望──人間だけが持つ言語的特性──が実現しなければ、多くの人は失望のストレスや苦痛を避けたり忘れたり、教訓にしながら発想(人生計画等)の転換や欲求水準の調整をはかって成長していくのであろう。マズローにとっては、それこそ「心理的に健康な人間」として推奨すべきと考えたのであろう。しかし、失望や苦痛をもたらす環境(逆境)によって、愛や承認の欲求が充足されなくても、自己実現の欲求は、それが人間的欲求であるがために<より強く>求められ、たとえ歪んだものであろうとも(犯罪集団のように)実現されることがある。

 また我々が一般に社会的不適応とみなす神経症や心身症状態、さらには若者に見られる「高次の価値」に対する絶望と無力感のように、愛や承認が満たされても、自己実現の方向に向かわず価値の追求や自己の成長をめざすこともできずに挫折に追い込まれる状態が生じることもある。これはマズローの人間欲求や人間性そのものの理解に限界や誤りがあることを示している。これは彼が人間的本質と考えた「自己実現欲求」が、「言語的構想力」ないし「言語的疑問形式」を根源とする言語の創造的本質から生起していることを見抜けず、また「欲求と感情」の分析に失敗したことによるのである。

そこで「自己実現」とそれに関連したマズローの「高次の欲求」について検討しよう。

「裕福で、基本的欲求を満たし、特権をもった高校生や大学生のかんばしからぬ行動の多くは、若者によく見られる、「理想主義」の挫折によるものである。・・・・・この理想主義の挫折と断続的な無力感は、ひとつには、世界中にいきわたっている、馬鹿げた制限的動機理論の影響である。行動主義的、実証主義的な理論─無理論といった方がよいかもしれない─を、問題を見ることさえ単純に拒否するもの、すなわち一種の精神分析的な拒否として除外するとして、その後、理想主義的若者たちに何を教えることができるのだろうか。・・・・・十九世紀の公式科学全体、ならびに正統派の心理学は、若者に提供するものを何ももたないだけでなく、大部分の人びとの生活の根拠となっている主要な欲求理論は、若者を、意気阻喪と冷笑とに導いている。」(『人間性の最高価値』邦訳p379-380 強調は引用者による)

 マズローが、1960年代の若者の退廃的状態を嘆き、若者の未来に危機感を持っているのは、西洋近代の科学(心理学においては、フロイト派や行動主義の流れ)によって、伝統的価値観が崩壊し、それに代わる目指すべき新たな価値観のないことに対してであろう。人生の全体を病的なもの、動物的に規制されたものと見るのではなく、創造的成長的なものとして肯定的に見ることを自己の使命と考えたのである。

 では具体的に現実の社会でどのようにすれば、若者に自己の成長する機会を与えられるか。彼は一つには教育に影響を及ぼそうとしたが、より実践的な機会として、人生の多くを過ごす企業社会での活動が自己実現の最大の場所であると考えた。企業における自己実現を指導するものが経営者であり、従来の権威主義的経営よりも個々の労働者の自己実現の機会を与えるような主体的参加型の人間的進歩的経営の方が効率が上がり、利益を増大させることができると考えた。

 彼は、指導者に活力があり相互信頼されている社会として、カナダの先住民ブラックフット族の社会の在り方に一つの理想を見いだしている。

「そこでは富と技能、知性等がほぼ完壁な相関関係にあった。富はその人間の能力を示す有力な証拠だったのだ。理想的な社会では、まちがいなくこのような状態が見られるはずだ。そうなれば、成功や富、地位と、現実の能力、技能、才能との間には完全な相関関係が成りたつ。もしそうしたいのなら、いい社会とはそのような関係の成り立つ社会である、と定義しても構わない。すなわち、その地位にふさわしい人間が社会のトップに位置するような社会、選ばれて高い地位につく者が最も優秀な人間であるような社会、最も優秀な人間が必然的に選ばれて高い地位につくような社会である。」(『完全なる経営』2001 p236)

 すなわちカナダ先住民の指導者の優越意識は、物質的な優越性よりも度量の広さによって部族員から積極的に支持され、部族全体の持続的利益が維持できることを前提とする。マズローは、近代人の排他的競争による発展よりも、先住民の中に個性とチームワークを生かしたシナジー(構成員間の協力による相乗効果)効果を評価する。マズローによれば、シナジーとは、個人にとっての利益が同時にすべての人間にとっても利益となるような文化である。「一人の利益が全体の利益となる。進歩的な経済活動のためには、このようなシナジーの仕組みを整えることが第一条件となる。」(同上p36)彼の理想社会論は共産社会の理念を彷彿とさせる。この引用に続く次の言葉「ゼネラル・モーターズにとっての利益はアメリカにとっても利益であり、アメリカにとっての利益は全世界にとっても利益である」は、彼がアメリカ的価値(楽天的実用主義)の単純な信奉者であり、社会科学の本質(経済的利害と運動法則の解明)に対して浅薄な理解しかないことを示している。

 このように、マズローは、一方で集団(企業や団体等の組織)における個人の創造性の発揮や自己実現が、集団全体のシナジーを高め生産性や利益を上げることに貢献すると主張する。しかし他方では、資本主義の精緻な分析を欠いたマズローの優秀な人間の自己実現は、必ずしも諸集団全体にシナジー効果を産み出すとは限らない。利己的競争を前提としたシステムは、公正公平な道徳的規制を伴わない限り、自己実現した勝者と挫折する敗者を産み出す。勝者(個人や企業集団)は、自己犠牲を部下や競争相手に強い、自分達だけ生き残る自己実現を享受するが、敗者への配慮は自己実現には含まれない。結局はその地位で成功を収めている者が優秀であり。失敗すれば劣っていたことになる。つまり、人間的心理学とは言っても、何が人間的かの基準はなきに等しく、結果が敗北につながれば自己実現など雲散霧消し、路頭に迷うことになる。現在しかるべき地位についており、それを保守しさらに革新しうる者が優秀なのである。危険を冒して成功したものが優秀と言われる。マズローの企業経営理念は容易に新自由主義の経済学と結合する

 資本主義のもとでは、カナダ先住民の道徳は社会全体には通用しないのである。マズローが権威主義的経営を批判するのは、企業の活性化と従業員の自己実現のためには有益であることは誤りない。しかし社会科学的(政治経済学的)認識が不十分なままに、一企業内の進歩的経営管理や創造的経営を唱え、個別の産業や団体に心理学を応用しても、国家社会の福祉や国際的協調・平和を確立し、世界的な規模での人類的自己実現は不可能である。

 本来世界資本主義は、周期的景気変動や恐慌の災厄(調整とも言う)によって、個別の企業や国家の利益のみを追求しても、個別の利益さえ得ることができない事態(不況・恐慌による倒産、失業、社会不安)を招くものである。しかし、巨大企業が出現し自由と繁栄を享受していたマズローの時代とは異なり、21世紀の現代にあっては資本主義の修正、資源エネルギー問題や環境問題等の成長の限界、新興国の台頭など、さらに相互依存性(関係性)が強まっている。ヒト・モノ・カネは、個別の利益を追求するために国境を越え、多くの人間が物質的繁栄を享受しているかに見える。マズローは健康的で創造性豊かな人間社会を構想したが、競争社会が作りだした不健康な人間(精神病質者、偏執症、絶望した人間等々)への配慮は意図的に排除した。有限で偏った地球環境に人類の平和的な共存を持続させるためには、心理学を社会科学とを結合させ、マズローのような勝者に偏った人間性心理学は克服されねばならない。そのためには、欲求階層説からの脱却と組織内自己実現の内容の再検討(社会的責任の自覚──個人と組織に限定されない自己実現)が必要になるが、これは「新社会契約論」で論述する。

⑦ 自己実現的人間の検討――新自由主義的人間擁護論

 ここではマズローの人間理解の着眼点を明瞭化するために、自己実現的人間についてさらに引用し、その積極面と限界を指摘しておく。

「自己実現する人びとは、普通の人たちに比べて、正邪を疑う気持がはるかに少ないというのが、経験的にみた彼らの特徴である。彼らは、仝体の九五パーセントが自分たちに反対しているからといって、困惑するようなことはない。そして、少なくとも私が研究したグループにおいては、そういう人びとは、個々人に相対的な好みを比較するというより、何か本ものの、超人間的なものを見ているかのように、何が正しく何が間違っているかについての意見が一致しやすいものである。」(『人間性の最高価値』邦訳p10)

 自己実現する人々は、自己の信念と目標を持ち、他人の反対意見は聞いても動揺することなく、何か究極的な価値によって判断し行動しているような人物とされる。歴史的人物で言えば、晩年のA.リンカーンとT.ジェファーソンは確実に、アインシュタイン、エレノア・ルーズベルト、ジェーン・アダムズ、W.ジェームズ、スピノザ等は可能性が高いとされる。彼等は生涯にわたって自己の高い理想を追求し、社会の進歩や真理の探究に貢献した。彼等は、他人の「好み」を気にせず、自己自身の信念や目標を実現していくという強い信念を持った人々である。またマズローの用語でいえば、何らかの困難を克服する過程で「至高体験(peak experience)」(恍惚とした覚醒・着想の体験)を得て、人生の目標や信念を確立し実現した人々である。社会的に評価されたその道の達人、恵まれた才能の持ち主、宗教家、芸術家、思想家等も自己実現した人物とされる。孔子の「七十にして心の欲するところに従いて矩(ノリ=法)をこえず」という言葉は、自己実現した人間の一つの境地であろうか。

 次にマズローは、『人間性の心理学』において一章を設けて、自己実現的人間の特徴を、<心理学的健康の研究>として18項目に分類して説明している。その中から一部を引用して検討する。

「自己実現者は、他の者よりはるかに容易に、新鮮で特殊なものと、一般的で抽象的で類型化されたものとを区別できることがわかった。その結果、多くの人がこれが『世界』だと思い込んでいる人工の概念、抽象、期待、信念や固定観念を越えて、自然という現実の世界の中に生きることができる。」(同上p230)

 この引用では、自己実現的人間は、人間が考え想像した常識的価値観・固定観念に縛られず、そのような観念が構想される以前の「新鮮で特殊なもの」「自然という現実の世界」に生きている。「自然」こそが本質であり、「自然」から人間が概念化し抽象したものは、自然の一面を類型化したものであり限界がある。つまり、言語的概念を越えなければ、至高の人間的価値は得られない、と述べている。マズローが言おうとしているのは、道教の「無為自然」に通じると彼自身も述べているのである。

「子どもが世界を、広い批判のない無邪気な目で眺め、事実をそのまま認め、観察するように、自己実現者は、自分自身や、他の人の中に見られる人間性を、いたずらに論じたり、また別のものであればと願ったりすることなく、そのままに受けとめる。」(同上p232)

「目己実現者は行動においてかなり自発的であり、内面生活、思考、衝動などにおいて、さらにいっそう自発的だといえる。彼らの行動の特色は、その単純さや自然さにあり、また、それが人為や、何らかの効果をねらって努力がなされたりすることがない点に見られる。」(同上p234)

 上記二つの引用はわかりやすい。通常大人は種々の偏見・先入見に囚われ、真実をそのまま受容するより、今までの経験や色眼鏡で物事を観察し価値判断する。このような功利的打算的な態度(現実的な態度)は世俗の大人にはよく見られることである。しかし、子どもの純真さ、単純さは、ありのままを観察し感動や疑問をそのまま表現する。自己実現者には、子どものように邪念がないかそれを越えている。

「自己実現者は思考、衝動、行動、感情において、他の人々とは非常に異なっているのである。つまるところ、ある基本的な点で、見知らぬ土地にいる異邦人に似ている。どのように彼を好きになってくれるとしても、彼を理解してくれる人はほんの少ししかいない。」(同上p244)

 自己実現者は、自己が確立し、現実をありのままに認め、多様性を受容できるため、自らは人間関係を求めようとはしない。『論語』学而篇の冒頭にある「人知らずして慍(ウラ)まず、また君子ならずや」という心境であろうか。

「過去において対極性とか、対立性とか、二分性などと考えられてきたものが、実は不健康な人々についてのみそうなのであるということが結論された。健康な人にあっては、これらの二分性は解消され、対極性は消失し、本質的と考えられた多くの対立は、相互に融合し合体して統一体となった。」(同上p261下線は引用者)

 この「二分性の解消(Resolution of dichotomies)」という主張は、西洋哲学に特徴的な弁証法における対立物の止揚・発展という意味ではなく、東洋の宗教思想に見られる「融合・合体」である。仏教における「不二の法門」「無分別智」、道教における「無為自然」「彼是方生」の考え方は、対極的二分性を解消し、「空」や「道」という知的統一状態(境地)を体得しようとするものである。このようにマズローは東洋的覚醒状態に関心を持ったが、人間性心理学に共鳴した臨床心理学者で来談者中心療法の創始者カール・ロジャーズ(1902-1987)も同様に東洋思想に関心を持っていた。実存精神療法の第一人者であったメダルト・ボス(1903ー1990)は、自らもインドのヒンドゥー思想を学んで次のように述べている。「たとえ東洋哲学と西洋の精神療法とがいかに一致しようと、西洋の精神療法がもちうる照明力の『程度』はあまりにも不十分であるため、わたしはインドの伝統に助力を求めるようになったのである。」(『東洋の英知と西洋の精神療法』p183)東洋の叡智が西洋的合理主義の限界を補うものであることは衆目の認めるところであるが、東洋の科学的認識欠如の限界については後に述べるであろう。

「創造的な仕事に絶対必要な謙遜とプライドとのやさしい統合のできない人びとがいる。発明したり、創造したりするためには、非常に多くの研究者の認めているように、「創造性の尊大さ」をもたなければならない。しかし、もちろん、尊大さのみをもって謙遜を忘れるならば、いわゆる偏執病になる。」(『人間性の最高価値』p47下線は引用者)

 マズローは、西洋的な二分法的極端を避け、東洋的な統合を志向する。しかし、成長や創造性、より高度な目標への挑戦は、一貫して追求し続ける。だから上の文にあるように「創造性の尊大さ」という表現が生じる。創造性とは、成長と進歩をもたらすものであり、欠乏欲求(承認欲求以下の欲求)の段階にある不健康な人々(神経症者等)への配慮が軽んじられることになる。欲求階層説も、彼のそのようなアメリカ的成長志向性(進歩主義・実用主義)から構想されたものである。つまり、謙遜を大切にしながらも、創造性をもたず、新しいもの未知なものに対する興味が欠如するような不健康な人々に寄り添うことができなかった。とりわけ産業社会で、創造的で成長しようとしている「健康な」人々にとって、不健康とされた人々は、競争の敗北者として位置づけられることになる。

 マズローの産業社会に対する健康心理学的経営管理(ユーサイキアン・マネジメント Eupsychian Management=マズローの造語:完全なる経営)の理論は、社会や集団・組織におけるあるべき人間関係の姿を求めているが、やはりユートピア的な性格の強いものである。民主的経営、進歩的経営についての勇気ある提言であるが、人間存在への理解が不十分なため説得性は低い。それは、前項でも述べたように民主的進歩的とはいうものの、正義や公正の観念や社会的自覚の観念とその意義についての考察はない。それは彼の学問が心理学的経営管理をめざしているのでやむを得ないが、社会科学的考察なしに産業社会ないし資本主義経済の未来についてユートピアを描くのは危険である。というのも、偶然に恵まれて経済的に豊かな家庭で育ち、創造的能力を発揮し成長をはかれる人々にとっては、競争の勝利者となって自己実現し心理的健康を獲得しやすい。しかし、マズローが次のように望むことは、無い物ねだりに等しいのではないだろうか。

劣った人間が優れたひとを高く評価するか、少なくとも優れたひとを憎まず、彼らに対して攻撃を仕掛けないような状況でなければ、どんな社会もうまく立ち行くことができない。また、優れたひとがその他の人びとの自由意志によって選ばれるようでなければ、いかなる社会、いかなる企業も効率的に機能することはできないのである。」(『完全なる経営』 p234下線は引用者)

 マズローは、18項目の自己実現的人間の特徴の最後に「二分性の解決」を挙げたが、彼自身は二分性(劣った人間と優れたひと)に、一貫して固執している。そしてむしろ、劣った人間に、優れた人を選択することを要請するという本末転倒の結論に達した。一体優れた人をどのように規定するのか。優れた人は何らかの成果を上げたがために評価されるのであって、憎まれたり攻撃を仕掛けられる状況があるとすれば、優れた人とは言えない。成功した優れた実業家のA.カーネギーや松下幸之助、ビル・ゲイツ等々が、「劣った人間」から憎まれるとすれば、彼等が資産家であるとしても、優れた人とは言われないのである。実業家として成功しても、労働者や社会を犠牲にし不幸にして成功する人間は優れた人と言われるべきではない。「鉄鋼王」と言われたカーネギーは、彼の時代(独占資本主義)にあって「裕福な人はその富を浪費するよりも、社会がより豊かになるために使うべきだ」と述べ慈善事業を行っているが、優れた人は他人の評価にかかわらず、自己の社会的責任を自覚しているために優れているのである。「効率的に機能すること」は、マズローの進歩的・民主的経営理念・価値観の中心であり、「劣った人間」はその障害になるのかも知れない。しかし、優れた人間とは、正義や公正の理念をもち、「劣った人間と優れたひと」という二分性を越えなければならない。彼は東洋的二分法の克服に関心を示していたことは事実である。しかし次の引用は、彼には東洋的叡智の理解は困難であることを示している。

「百人の人間に対して十人分の食糧しかなく、九十人は餓死するよりほかないということになれば、私は自分が絶対に九十人の中の一人にならないようにするだろう。そして、かっての豊かな社会で機能した道徳観や倫理観をかなぐり捨て、弱肉強食の社会に適合した考え方に乗り換えるのはまちがいない。」(同上p129下線は引用者)

 彼は正直な現実主義者だが、本物の至高経験を多少とも経験した人であるなら、まずもっとよく考えて打開策を考えるだろう。「絶対に」という仮定自体が問題である。しかし彼は自分の理論に正直で、生理的欲求が充足されないのに、他人のことなどかまっておられないということであろう。自己犠牲は崇高な道徳的行為であろうのに。

「権威にもろい性格の持ち主[終戦直後のドイツ人学生]に対処する正しい方法は、相手を劣悪な人間と見なし、劣悪な人間にふさわしい扱いをすることだ。これが、唯一現実的な方法である。彼らに微笑みかけ、こちらが信頼して食糧貯蔵庫の鍵を預ければ、彼らもすぐさま態度を改めるはずだなどと考えているとしたら、銀の食器を盗まれた挙げくに、『意志の弱い』アメリカ人呼ばわりされるのが落ちである。意気地なしで、愚かで煮えきらない、つけこみやすい人間だといって馬鹿にされるだけだ。私が権威にもろい性格の学生に対するときには、まず真っ先にその鼻っ柱をへし折り、こちらに権威があることを思い知らせてやることにしている。学生が飛びあがらんばかりに脅し、ときには頭をこつんと叩いて、その場のボスはだれなのかをはっきりとわからせてやるのが、最も効果的なのだ。学生がこのことを理解した場合に限って、その後徐々にアメリカ人らしく振る舞うようにしている。そうして、拳を振るう強力なボスであっても、親切で穏やかな態度で目下の者に接し、寛大な気持ちで相手を信頼することができることを、学生たちに示してやるのである。権威にもろい性格がそれほど深刻でない場合は、このような管理方法をとることによって彼等の世界観を変え少なくとも一部の人間を民主的な人間に変えることが分できる。これは、まったく疑問の余地のないことなのだ。」(同上p131下線は引用者)

 彼は将来の資本主義に期待して、「産業界が個人の成長を促進する方向に向かう」(『完全なる経営』2001p402 原著1965)と述べた。1960年代に出された彼のこの予言は、半世紀を経た今日、アメリカの産業界の常識になっているだろうか。ハイエクやフリードマン等の新自由主義によって、弱肉強食の職場や管理的人間は増大していないだろうか。これは後に社会契約論において述べてみたいが、マズローの楽天的予言が実現していないのは、ビジネスの本質、組織や社会関係の分析(社会科学の理解)が不十分であったことによる。 さらに欲求の階層説に見られるように、個体と種族の維持の欲求は、本来一体のものであるにもかかわらずこれに優劣を付け、人間に特徴的な自己実現過程の言語的意味(言語的目標構想力)を解明することもできなかった。また人間の感情・情動反応を自己実現の過程の中に取り出すことができず、幸福感や恍惚感、希望や意志の感情、宗教的感情としての覚醒・悟り・心の平安・救済感等々を科学的に分析しないで「至高体験」などという神秘主義的用語を持ち出してしまった。彼がそのような境地を実現することができなかったことが、産業界に進出し、自己の成長の手段として心理学を経営の現場に応用しようとしたことに現れている。結局彼の理想「健康心理学」はユートピアに終わったのである。

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