勝手にシン・エヴァンゲリオン   作:hekusokazura

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第壱拾五話

 

 窓枠から手を離すと、VTOL機とは一瞬にして遠く離れてしまった。

 もはや見えなくなってしまったが、操縦席のガラス窓の向こうでは、赤毛の彼女がさぞかし呆れた様子で自分を見つめていることだろう。

 

 ああでも。

 さすがだね。

 

 燃え盛るエンジンを白い消火剤が覆い炎を消していくと、機体は平衡感覚を取り戻し、曲がりなりにも滑空を開始していく。

 

 大丈夫だ。彼女なら、きっとあのコをミサトさんたちのところまで送り届けてくれる。

 そうすればきっとカノジョも…。

 

 突風に呷られ体がくるっと半回転し、VTOL機は見えなくなってしまった。

 視界に収まるものは赤い大地から青い空へ。 

 

 さて、と。

 さあ、僕はどうしようか。

 この強烈な上昇気流に乗って、うまいことこの馬鹿みたいにデカい構造物の屋上に着地できないかと思ってみたけれど。

 あ~あ。

 これはすでに落下を始めちゃってるね。

 ここから地上まで、自分を受け止めてくれるものは何もない。

 もう自分にできることはなにもない。

 自分の背中と地上とがくっつくまで、ただ空を眺めながら待つだけ。

 

 

 彼を失って。

 初めて出来た、心の全てを赦せる少年の命を、目の前で散らせてしまって。

 もう全てがどうでもいいと思っていて。

 でも、もう少しだけ頑張ってみよう。

 そう空の彼方の彼に誓った。

 

 その矢先にこれだ。

 

 何と言うか…。

 まったくもって、僕らしい。

 

 まあでも。

 僕にしては頑張った方だよね。

 そうだろ?

 カヲルくん。

 

 君は言っていたね。

 また会えるって。

 

 ああもしかして、こうゆうことなのかな?

 地上までの時間はあとどれくらいだろう。

 もう少しで君に会えるね。

 あと少しで。

 

 なんて気持ちの良い空なんだろう。

 青い、青い空。

 まるで全てを包み込んでくれる君の笑顔のような空。

 

 その空の隅に、まるで染みのような黒い点があった。

 

 なんだろう。

 鳥だろうか。

 まあどうでもいいか。

 今さら黒い点の正体が鳥だろうが何だろうが。

 地上に激突してしまえば、この空も何もかもが見えなくなってしまうのだから。

 でも気になってしまう黒い点。

 なぜならその黒い点が少しずつ大きくなってきているからだ。

 黒い点は、明らかにこちらに近づいてくる。

 

 少しずつその面積を広げていく小さな黒い点が、少し大きな点になって。

 黒い点が、黒だけではないことに気付く。

 

 それはまるでこの青い青い空のような色。

 黒い点の上に、空色の何かが乗っている。

 

 それは空色の髪。

 風に暴れる空色の髪の下に収まるのは、見知った顔。

 

 

「碇くん!」

 

 見知った顔が、僕の名を呼ぶ。

 その声音で、そんな大きな声を聴くのは初めてだったから。

 ちょっとびっくりしてしまった。

 いや。

 空から女の子が降ってきたこと自体が、かなりびっくりなんだけれど。

 

 背筋も肘も膝も足首も、体の全ての関節をぴんと伸ばし、空気の抵抗となるものを最大限に削った姿勢で、まっすぐにこちらに落ちてきた彼女。

 お互いの顔がはっきりと分かるまでの距離まで近づくと、彼女は空気の塊を全身で抱き締めるように両腕と両足を大きく開いた。

 全身で空気抵抗を最大限に発生させ、限界の速度で落下していた彼女の体が一気に減速。互いの落下速度を可能な限り近づける。

 

 空気の塊に煽られ、彼女の髪が全て逆立っている。

 そう言えば、この顔の額を見るのはこれが初めてだな、とどこか呑気に彼女の顔を見つめていたら。

 

「碇くん!」

 

 再び彼女に大声で名を呼ばれた。

 彼女がこちらとの距離を埋めようとしている。まるで大気の海の中を泳ぐように、必死にその細い手足をばたつかせて。

 この顔のこんなに必死な表情を見るのもこれが初めてだな、とやはりどこか呑気に彼の顔を見つめていたら。

 

「手を…!」

 彼女がこちらに向けて手を懸命に伸ばしていた。

 

 彼女が伸ばす手を見つめる。

 

 その手の向こうの彼女の顔を見つめる。

 よく知っている顔。

 でも僕の知らない彼女。

 

 その彼女の口が、大きく開く。

 

「来て…!」

 

 僕の知らない彼女が叫び、手を差し伸べてくる。

 

 おずおずと、その手に自分の手を近づけてみる。

 

 彼女の中指と、自分の中指とが触れ合い。

 

 そして彼女は一気に肘を伸ばすと、その細い体からは想像できないような強い力で、僕の手を握りしめた。

 一度掴んだ手は二度と離すまいと、彼女はその指を僕の指に絡めていく。

 そして少しずつ肘を曲げ、彼女と僕との距離を縮めようとする。

 

 彼女の鼻先と、僕の鼻先とが、触れる寸前にまで近付く。

 彼女はすぐさま空いた腕を僕の背中に回し、僕の体をぐっと抱き寄せた。

 

 そして僕は。

 

 僕は少し躊躇った後。

 

 彼女に倣って空いた手を彼女の細い背中へと回した。

 

 

 

 空中で抱き締め合う2人。

 頭から真っ逆さまに地上へと向かって落ちていく。

 

 少女は少年が自分の背中にしっかりと腕を回したことを確認すると、少年の背中を抱き締めていた腕を一旦解き、その手で自身が着る黒のプラグスーツの腰の辺りを探る。スーツの突起部分を引っ張ると、そこからするすると紐が伸びた。紐の先端は小さな鉤状になっている。

 間もなく自分たちを襲うことになる衝撃で2人の体が離れてしまわないよう、そのフックを少年のズボンのベルトに引っ掛けた。

 

 少年の顔を見上げる。

 少年は、腕の中の少女の顔を見下ろす。

 

 少女は少年の顔を見つめながら、手を自身の背中へと回した。

 細い指がスーツの背部に触れる。指で、ぐっと押し込む。押し込んだ部分が浮き上がり、そこからも小さなフックが現れた。

 少女はそのフックに人差し指を引っ掛ける。

 

 少年の手を握る自身の手に、ぐっと力を籠める。

 少年もその手を強く握り返し、少女の背中を抱いていた腕を腰まで下ろすと、自身の体へと力強く抱き寄せた。

 

 少年の胸元に、少女の頬が埋まる。

 少年の体温と、微かに聴こえる胸の鼓動を感じながら、少女はフックを思い切り引っ張った。

 

 

 空気が一気に膨張するような音。

 少女のスーツの背部がたちまち膨れ上がり、次の瞬間には音を立てて破裂。

 スーツの背部に圧縮して収められていた白い布が空中へと解き放たれる。

 空気を纏い、瞬く間に広がっていく白い布。

 少年の目には、少女が大きな白い翼を広げたように見えた。

 

 抱き締め合う2人を、何かに引っ張られるような強い衝撃が襲う。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 どこまでも続く赤い大地。

 その上空を浮遊する真っ白なパラシュートは、天から見ればまるで赤い海に浮かぶ小さな孤島のようだった。

 その傘にたっぷりと空気を抱き込んだパラシュートは、ゆっくりとその高度を下げていく。

 

 傍から見ればゆっくりと地上に近づいているように見えるパラシュート。しかし実際にそのパラシュートに吊り下げられている者から見れば、足もとの地上がぐんぐんと凄い速さで迫っているように見える。

 パラシュートにぶら下がる少年と少女。少女はパラシュートによる降下訓練を受けていたが、2人吊り下げられた状態で降下するのは初めての経験であり、おまけに十分に安全とは言えない高度でパラシュートを開いているため、訓練を受けた時とはかけ離れた状況だ。

 結局、2人は自然の成り行きに任せて、地上へと落下することになる。

 

「わわっ!」

「きゃっ!」

 

 大地に足を襲撃され、2人の悲鳴が重なる。

 2人の踵はずるずると大地を引き摺っていき、続いて膝が地面を削り、腰が地面を削る。

 腕の中で少女の顔が痛みに歪む。強い衝撃に体もまともに動かせないが、せめて頭部だけはと少年は少女の頭部を守るように精一杯抱き締めた。

 

 2人を錨にして大地を削っていったパラシュートはやがて速度を失い、停止する。

 暫く風を纏って宙を漂っていたパラシュートの傘。重力に引かれ、ゆっくりと地上へと舞い降りていき、錨の2人を隠していった。

 

 

 

 

 白い布地と、赤い地面に挟まれて。

 

 少年は少女の顔を見つめていた。

 視界一杯に広がる少女の顔。

 自分の鼻先と、少女の鼻先とが触れ合うほどの、間近にある少女の顔。

 上気し、火照った頬。大粒の汗が浮かぶ額。

 瞬きもせず、自分の目を見つめ返してくる真っ赤な瞳。

 小さな鼻の孔が小刻みに拡大と収縮を繰り返し、肺の中の空気を出し入れしている。

 自分の鼻先を、彼女の呼気が擽った。

 握った少女の手が温かい。スーツ越しでも、少女が滲ませた手の汗が伝わってきそう。

 もう一方の手も彼女の体温を感じる。

 彼女の激しく脈打つ鼓動を感じる。

 彼女の体の柔らかさを感じる。

 

 鼓動?

 柔らかさ?

 

 仰向けに倒れている彼女。

 俯せに倒れている自分。

 折り重なっている2人の体。

 右手は彼女の手を握っていて。

 そして左手は。

 

「わああああ!?」

 

 シンジは情けない悲鳴を上げながら左手を少女の胸から離す。

「ご、ごめん!」

 何かに弾かれたように上半身を起こした。

 途端に、

「うぅ!」

 少女が呻き声を上げる。

 シンジが起き上がった拍子にシンジのズボンのベルトと少女のスーツの腰の部分とを結びつけていた紐がピンと張り、少女の体も背を弓なりに反らせて浮き上がった。

「ああ、ごめ…、わっ!」

 少女の呻きに慌てて動きを止めようとしたシンジだったが、只でさえ浮足立っていたところに視界をパラシュートの白い布に覆われてしまい、パニックになってしまった。

「わっ、なんだこれ、なん…!」

 腕をばたつかせている間に布はどんどん2人の体に纏わりつき、2人の体を包み込んでしまう。

「わっ!わっ!」

「うっ」

 相変わらずシンジの情けない悲鳴と、少女の控えめな呻き声が重なり合って。

 そして2人の体も重なり合って、再び地面へと倒れ込んだ。

 

 

 今度はシンジは背中に地面を付け。

 少女がシンジの体に覆い被さって。

 そして触れ合う2人の鼻先同士。

 

 少女は相変わらず上気した頬で、瞬きもせずにシンジの瞳を見つめていて。

 額から伝う汗はやがて少女の小さな鼻先へ集まり。

 少女の鼻先から垂れる汗の粒は、少年の鼻の頭へと滴り落ちる。

 

 そんな少女の顔を、シンジは顔を真っ赤にしながら見上げていて。

 

 全てを白が埋め尽くした世界。

 真っ白な世界の中で、2人はただ黙ってお互いの顔を見つめ合う。

 

 

 少女の呼気は相変わらず小刻みなまま。

 一方、シンジの呼吸は小刻みなものから、深く、ゆっくりとしたものへと変わっていく。

 シンジの深呼吸に合わせてシンジの胸が大きく上下し、シンジの胸に合わせてその上に乗る少女の背中も上に下にゆっくり揺れた。

 

 

「これも…」

 

 長い沈黙の後、最初に口を開いたのはシンジだった。

「これも…、父さんの命令…?」

 シンジのその問い掛けに、少女は地上に降り立って以来初めての瞬きをする。

 ゆっくりと首を横に振った。

「じゃあ…、なぜ…」

 シンジは掠れた声で問い掛けを続ける。

 少女はシンジの顔を見つめたまま、控えめな喉仏を縦に動かして、口の中に溜まっていた唾液を呑み込んだ。

 そして小さな唇を微かに開く。

 

「私が…」

 ぼそりとした少女の呟き。

 

「私が…、そうしたかったから…」

 

 少女の口から漏れ出る吐息が唇に降りかかり、こそばゆかった。

「君が…?」

 シンジの再度の問い微かに首肯する少女。そして静かにシンジの顔を見つめる。

 シンジも少女の顔を見つめ返す。

 

 お互い見つめ合ったまま、再び暫しの沈黙。

 

「あり…が…とう…」

 シンジの口から、ややぎこちなく告げられる感謝の言葉。

 

「ありがとう…。僕の命を…救ってくれて…」

 繰り返された感謝の言葉は、今度は少しはっきりとした口調で告げられる。

 

 自分に向けられた感謝の言葉。

 少女にとって、シンジからその言葉の耳にするのはこれで2度目。

 それでも少女はその言葉をまるで生まれて初めて耳にでもしたかのように、少しだけ目を丸くし、小刻みだった呼気を止めた。

 そしてそっと目を閉じる。

 肩を大きくゆっくりと上下させ、深く深呼吸をする。

 もたれかかるように、顎をシンジの胸に乗せ、そのままくてんと頭部を傾け、頬をシンジの胸にくっ付けた。

 

 自分の胸に少女の体温を感じて。

 大人しくなっていたはずの自分の心臓が再び暴れ始める。

 自分の耳にも伝わってくる心臓の鼓動。

 落ち着かない心音を少女に聴かれ、心の中を恥ずかしさが覆っていくシンジだったが、今は黙って自分の肉付きの薄い、やや頼りない胸を少女に貸していた。

 

 

 赤い大地の上に、まるで孤島のように丸く広がる真っ白な布。

 地面にぴったりとくっ付く布の、その真ん中だけがこんもりと盛り上がっている。

 パラシュートが降り立った吹き曝しの岩場。

 時折強い風が地表に吹き付けるが、白い布はまるでその下にあるものを風から守るように、ただ静かに地面を覆っていた。

 

 

 

 


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