大人のエヴァンゲリオン   作:しゅとるむ

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二十七話 アイとサツキとカエデとアオイ

 今日もいつの間にか、放課後になっていた。

 

 相変わらず第壱中の女子制服に身を包み、アイは他者と交わらない中学生の一日を終えようとしている。

 

 ひと月ほど前、中学一年に編入となった当初、アイは「転校生」として一時、クラス内で注目を浴びていた。

 

 しかし、元来、積極的に他人に接触するタイプではない。

 

 授業用のタブレット端末で、授業をさぼりながら、転校生に向けて興味津々で色々な質問をぶつけてくるクラスメートたちに、

 

「前はどこの学校に通っていたの?」

「どこに住んでたの?」

 

と聞かれても十八年前の事情や前歴を説明できず、上手く答えられない。

 

「好きなタレントは?」

「好きなアーティストは?音楽は?」

 

などと聞かれても、記憶の中にある十八年前に流行だった芸能人の名前や曲名しか出て来ない。

 

 そのうちの何人か、いくつかを素直に告げると、

 

「えぇ、しらない(笑)」

「渋い、懐メロ?」

 

 テキストチャットで、そんな反応が返ってくるのだ。話題は広がらなかった。

 

 事はたかだか芸能の話だ。しかし一事が万事、その調子でアイのクラスメートとの初めてのやり取りは中々上手く行かず、上手く行かないと余計に焦り拙い返信をしてしまう……そんな悪循環で、そういったコミュニケーションのズレが続くと、アイも少しずつ、心が折れそうになって、レスポンスが次第に遅くなり、遂には返信もしなくなった。

 

 それから、アイの一人称が「ボク」というのも、無用なキャラ付けという反撥を招いたのかも知れない。明るい子ならば、風変わりでも受け入れられる。それは却って一点ものの魅力になる。でも明るくなければ単に痛々しいだけだ。明るい子であるかどうかがまず思春期の人間関係を左右する。アイもどうやら明るくない痛い子という枠に入れられてしまったのかも知れなかった。

 

 一週間もすると、アイは初日以上に孤独になっていた。他人との関わりを一度知った後の孤独はひとしおだ。それなら最初から最後までずっと孤独で居れば良かった。誰も話し掛けなどしないで欲しかった。ずっとそっとしておいて欲しかった。最後まで面倒を見てくれないのなら、最後まで優しくしてくれないのなら、構わないで欲しかった。ボクのことを透明なままにしておいて欲しかった。

 

 そうでしょ、アスカ……さん。アスカ……さんだって、ボクにキスをしたり、ボクに初めてを呉れたりしなければ良かった。最後までボクを好きで居てくれないなら、構わないで欲しかった。他の男を好きになるのなら、最初から無視してくれれば良かったんだ。でなくっちゃ、心が痛いよ……やり切れないんだよ……。

 

 

 家では朝食の時などに、アスカに学校の様子を訊ねられる。アイが用意したトーストやハムエッグなどをゆっくり食べながら、アスカは尋ねる。

 

「どう、友達は出来た?」

「うん……まあ、ボチボチ……だよ」

 

 その表情は、言葉とは裏腹に友達なんか一人もいないと物語っている。

 

(まあ、シンジと同じ性格ならしゃあないか。あいつ、友達作るの苦手だもんな……)

 

 アスカはいつもシンジの性格の事を思うたびに、彼が可哀想になる。もしアスカがシンジとこれほど濃密な関係を結んでいなければ、根暗な奴!の一言で切って捨てていたかも知れない、そのぐらいシンジにはウジウジした所がある。だが、今はシンジの寂しさが分かる。どれほどアスカと交わろうと本質的にはシンジの寂しさが癒えないのかも知れないと思うと愛しくて哀しくて堪らなくなるのだ。

 

 そのシンジと同じ性格を持つ少女、六分儀アイ。彼女がその割に、アスカにグイグイ迫ってきたのは、自分とアスカが特別でステディな関係だという誤解を抱いているからだ。友達が少ない人間は、たまたま出来た特別な関係に対して、かえって強気で、「相手は全部自分のもの」みたいな態度を取ってしまうものだ。自分にとって特別な関係が相手にとってはそうではなく、ワンオブゼムである可能性を考慮できないからだろう。その勘違いぶりは、もちろん、端から見ていて痛々しいものだ。

 

(その点、アタシとシンジとの関係とは違う)

 

 シンジにとって、アスカにとって、お互いとの関係は本当に特別かつ排他的で、シンジには他に誰一人、肉親も友達も生き残っておらず、新しい関係も殆ど築かず、アスカだけが友達で親友で肉体関係までもある唯一の他者だった。北上ミドリや真希波マリや鈴原サクラはある意味ではシンジの理解者ではあったが、それはあくまで一方的な理解者であって、シンジにとっては「よい人」どまりだった。アスカには何人かの親友と呼びうる同性の友人が居たが、やはり異性の交遊関係としてはシンジが唯一のものだった。アスカにとって、知人以上に親密な関係に至った男性はこれまでシンジしか居たことがなかった。

 

(アタシたちの肉体関係を交遊関係と言って良いのか、分からないけど……)

 

 シンジはとても寂しい男の子だ。もう男の子と言っていい歳ではないけれど、アスカにとっては矢張りいつまでも出会った時と変わらぬ男の子だ。荒野あるいは浜辺に独りぼっちで俯くシンジの姿が思い浮かぶ。そんなシンジをぎゅっと抱きしめてやりたい。アスカの想いはシンジを素通りして、けっきょく殆ど届かないのかも知れないけれど、それでも身体の温もりだけはきっと届くはずで。アスカはそれだけでも届けてやりたいのだ。

 

 そんな物思いにふけるアスカをアイはじっと見つめている。

 

「アスカ……さんは、お義父さんのどこが好きなの?」

「え……」

 

 突然、アイの質問に現実に引き戻されてアスカは戸惑う。しかし、シンジの何が好きなのか、何に惹かれるのかはアスカもずっと内省し、考え込んできた所なのだ。

 

「……欠けているところ」

 

 かねてから考えていた言葉が自然にアスカの口から漏れでていた。

 

「どういう……意味なの?」

「アタシが、補ってあげないといけないところ……アイツ、駄目なんだ。あらゆる意味で駄目な男の子なの。とうてい、独りにしてはおけないの。明るさ、自信、社交性、勇気、如才なさ、相手の気持ちへの想像力……アイツには色んなものが欠けていて、アタシが助けてあげると、なんとかそれで一人前になれる。だからアタシはアイツのそばに居てあげるの。居てあげたいの」

 

 なぜそんな所が好きなのだろう。控えめにいっても、それはシンジの欠点だ。シンジにも良いところはあるのに、なぜかアスカはシンジの欠陥に強く惹かれている。

 

「だって、それが人間らしさなんだもの。シンジには駄目な所が一杯だよ。でも他の皆は誤魔化して、他人から見えないように、あるいは自分には関係ないと思い込もうとしているだけの欠点だよ。皆が持ってる欠点だから、自分たちはシンジの欠点なんかとは全然無縁だなんて言い切れるひと……嘘つきだよ。皆シンジと同じなんだよ、アタシだってシンジと同じだ」

 

 昔からシンジはその行動や招いた災厄を非難され、あるいは侮蔑されて来た。シンジの事を多少なりとも知るものなら、なぜ立ち向かえないのだ、なぜちゃんと出来ないのだと思うのだろう。ちょくせつシンジが言われたのを見たことはないが、そういう教育者風の陰口は聞いたことがない訳ではない。しかし皆がシンジのような醜態を晒さないで済んでいるのは、ひとえに幸運のなせる技で、別に皆がシンジより立派だからではない─アスカはそう思うのだ。

 

「少なくともシンジは自分の駄目さを誤魔化してはいない。シンジはちゃんと自分が駄目だって思ってる、だからしょっちゅう落ち込んでいるんだ。それだけでも落ち込みもしない他の人間たちよりもちょっとだけ立派だよ。アイツは欠点を取り繕うだけの機転もなくて、それをそのまま他人にさらけ出してる。だからバカシンジなんだけど、でも他人にシンジをバカにする資格なんてないよ。そんな事したら、アイツだけ可哀想だよ……可哀想過ぎるんだよ……」

 

 アスカは最後には泣いていた。シンジを想って泣いていた。─可哀想なシンジ、アタシのシンジ。過酷な彼だけの宿命を背負わされて、振り回されて、憎まれて、足掻いて、立ち向かって、逃げ出して、成長してもそのたびに残酷な運命が彼を待ち受けていた。シンジが死にたくなるのも分かる。でも死んだらダメなんだよ……アンタのこと愛おしく想っているアタシがそばに居るんだから。アタシはアンタとずっとずっと一緒に居たいんだ。

 

 そして可哀想過ぎるシンジを抱きしめてあげられるなら、アスカはシンジにとっての特別でいられる。だって、アイツには他に誰もいないから。肉親も友人ももはや誰一人いなくて、アスカだけがシンジを構ってやれる。庇ってやれる。シンジにとっての不可欠になれる。そして、そうなれるのなら、アスカはほかに何も要らなかった。

 

 でも、もしそうなれなかったら?……シンジがアスカにすがりつき、しかし、アスカの顔など一切見ずに、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 アスカには、まだその答えがなかった。アスカはそれをあえて深く考えないようにしている。北上ミドリのいうシンジへの甘やかしを、アスカはどうしても止められないでいるのだから。

 

 アイはそんな懊悩するアスカにすがるようにテーブルの上にある手を取った。

 

「ボクだって、色々欠けてるよ……そんな事でアスカ……さんと一緒に居られるの?だったら!」

 

 そのアイの迫り方は正論のようでいて、もちろんずれていて。必要条件と十分条件の混同に過ぎなくて。

 

「ごめん。……アタシには一人しか選べない」

 

 アスカの答えに、アイはそっと目を伏せる。

 

「アスカ……さん……」

「アイツしか選べないんだ」

 

 真っ直ぐ過ぎる純愛は、混じり気がないから残酷で、アスカとシンジ以外の全てを排除する。シンジに余りにも似すぎている少女も、その例外ではない。

 

「アタシにはアイツだけなんだ……そしてアイツにもアタシだけ……」

 

 そっと呟くアスカの優しい声が、遠い目をして今この場に居ない「アイツ」に向けられる。二人だけの排他的な絆を愛おしく大切に思っている。あの赤い海の浜辺でのように、世界にたった二人だけになっても良いとさえ思っている。その一途な想いが、アイの耳朶を打つ。アスカが自分以外に与え続けてきた優しさがアイを苦しめる。

 

(アスカ……さんは、お義父さん─碇シンジが居なくなったら狼狽える。悲しんで、慟哭して、怒り狂って、もしかしたら正気を喪うかも知れない。でも、ボクが居なくなっても、きっと壊れる事はないだろう。だってボクはまがい物なんだから……)

 

 それはアイにとって唯一の救いだった。自分の運命がどうなろうとも、アスカを苦しめないで済むというのは、本当に救いだ。

 

(こればかりはお義父さんには真似できないよね。ボクにはアスカ……さんを傷付けることなく、ボクを犠牲にする事が出来るんだ、アスカ……さんの為に……)

 

 

 アイはそっと溜め息をつきながら、鞄を手に持ち席を立ち上がった。

 

 家にはあまり帰りたくないので、どこかで時間を潰そうか。アスカ……さんを待つのも、アスカ……さんに会うのもしんどかった。本当は会いたくてたまらないのに。

 

 アイが教室の出口に向かうと、三人の女生徒が近付いて来た。アイは思わず立ち竦む。

 

 三人とも制服はバラバラだ。サードインパクト後のこの時代、物資は常に窮乏気味であり、服装などは間に合わせのもので良しとされている。この中学でも制服は義務ではない。めいめいが好きな服を着ており、制服にしている生徒も、毎日同じ服を着回せるからという理由で家族のお下がりや闇市で入手した適当な学校の制服を着ているに過ぎないのだ。

 

 やや茶色みがかったショートの少女が屈託のない笑顔をアイに向ける。

 

「わたし、阿賀野カエデ。アイちゃんが転校してきた初日に挨拶させてもらったんだけど、覚えてるかな?」

「あ、あの……すみま……」

「あ、いいの。いいの。一回だけだと覚えるの大変だよね」

 

 続いて色の薄いセミロングヘアをした少女が一歩足を踏み出した。ちょっと欧風の顔立ちをしているから、ハーフか何かなのかも知れなかった。

 

「大井サツキ。よろしく」

 

 最後にショートボブの眼鏡の少女が名乗り、丁寧に頭を下げる。理知的な印象の少女だ。

 

「最上アオイです、こんにちは」

 

 たぶん、三人とも初日に挨拶してくれた相手だ。うっすらと記憶があったが、その後は特に接触がなかった相手だけに、アイは戸惑う。

 

「あの何か……」

「わたしたち、これからカラオケに行くの。アイちゃんも一緒に行こうよ」

 

 阿賀野カエデはそう言って、アイを誘う。

 

「い、いえ、ボクは……」

「何か用事があるんですか?」

 

 眼鏡の弦を持ち上げながら、最上アオイが首を傾げて確認する。

 

「え、いや、特には……」

「だったら行こう。あたしたち、あなたに興味がある」

 

 大井サツキはそれだけ言って、くるりと背中を向ける。セミロングの髪が肩から下に伸びている。

 

「あたしも小学校で転校生だった。ロシアから来たから、最初は戸惑ってばかりで日本の学校に馴染めなかった。それをカエデとアオイが救ってくれた」

 

 アイに背中を向けたまま、サツキはそう告げた。

 

 だから、サツキも同じことをアイにしてあげたいというのだろうか。アイを誘う発案はこの背中を向けた少女によるものかも知れなかった。

 

 不器用な優しさや、帰国子女といった特性が、アイの大切なひとを思い起こさせる。だからだろうか。

 

「……うん、一緒に行きたい」

 

 アイは、素直に頷いてしまっていた。

 

 

 最近の流行曲などを教えてもらいながら、雑談を交わす。今住んでいるところ、今好きなもの。アイが戸惑う、前に住んでいたところの話ではない。アイがどんな人間だったのか、その前歴を探るのではなく、今目の前にいるアイがどんな人間なのかを尋ねている。だからだろうか、アイはポツポツとだが、少しずつ答えを返せるようになった。三人とも、別に答えを急がない。答えがなくたって構わない。そんな態度が居心地が良かった。

 

「へぇ、じゃあお義父さんと離れて暮らしてるんだ」

 

 サツキは目を丸くした。アイの、思いの外、複雑な家庭環境に純粋に驚いているようだった。

 

「うん、ボクは養女で、お義父さんは独身なのに引き取ってくれたから、同居はまずいと思ってるみたい。だから、お義父さんの知り合いの女の人に預けられている」

「お義父さん、いいひとなんだね」

「わからない」

 

 アイは首を左右に振る。以前はいいひとだと思っていた。でもアスカの想いがシンジに向けられていると知ってからは素直に養父を慕えなくなっている。

 

「アイちゃんは今、好きな人とかいるのかな?」

 

 話題を切り替えるようにカエデが聞いてきた。女子が親しくなるには共感が必要で、その共感を育むには「恋バナ」が一番だった。女子は自分たちが物語のようなヒロインになれる恋愛が好きだし、男子という彼岸の存在への憧れや当惑や愚痴や不満や煩悶はすべて少女たちの共通する想いだったから。その話題をサツキも引き継ぐ。

 

「カエデはね、サッカー部の先輩が好きなんだ」

 

 サツキはアイが話に入りやすいように、まず自分たちの側から、秘密をさらけ出す。カエデの許可も取らずに説明するということは、これは三人の間では「オープンな秘密」なのだろう。どうやらアイはそれに加えてもらえたようだった。

 

「そして、あたしも絶賛片思い中」

「え、それって初耳!」

「私も初めて聞きました。もしかして、あの人ですか?」

 

 とサツキの思いがけない告白にカエデとアオイは盛り上がる。アオイには思い当たった相手がいるらしく、カエデに「ほら、あの人じゃないですか、きっと」などと話をしている。

 

「バイト先のね……今度バイト先に来れば教えてあげるよ」

 

 サツキはファミレスでバイトしているとアイに説明し、職場での仕事や人間関係を軽く説明して、アイが話に置いてけぼりにならないよう、配慮している。

 

「そのバイト先の、大学生の先輩。無口だけどちょっと優しいんだ」

 

 好きな人の優しさを語るとき、女の子の視線や表情は優しさに満ちている。その人の優しさが感染したみたい─そんな風にアイは思った。

 

 優しさが他人に感染するのなら、恋愛って素晴らしい事だと思える。だって世界の人間はこんなにも無慈悲で冷淡で、自分たちの都合のために平然と他人の命や人生を弄んで、犠牲に出来る。それでも、優しさが他人に感染させられるのなら、人間には─人類には、生き残る価値があるのかも知れなかった。そのための犠牲になる事にも意味があるのかも知れなかった。供犠として生まれたことにさえ意味があると言えるのかも知れない。

 

 だから、アイは優しい少女の話に、自然に言葉を繋いでいた。

 

「ボクにも、好きな人がいる……女の人で。ボクも女の子なのに、女の人が好きになってしまって……。だから、皆は気持ち悪いと思うかも知れないけど」

 

 そう言ってしまうと、鼻の奥がツンとなって、両目が潤むのを感じた。

 

 アスカのことを好きだというアイの気持ちは純粋で、それなのに、それを他人が知ったら奇異に思うであろうことが悲しかった。アイは今さらアスカに想いに応じて貰えるとは思っていなかった。アスカのシンジへの想いは純粋で、第三者が入り込める余地などなくて。だから、もう諦めていた。自分の記憶は何かの間違いで、アスカとの記憶もきっと自分のものなんかではなく。でもこの実らぬまま抱えていくであろう、アスカへの気持ちだけは自分自身のもので、他人のものなんかではないと信じたかった。

 

 サツキは真剣な顔で、左右にかぶりを振った。

 

「ひとを好きになる事が気持ち悪いわけがないじゃない!……あたしは気持ち悪いだなんて思わない。そんな風に思うやつは哀れで、本当にひとを好きになったことがないんだよ。だって、ひとを好きになった時点で、あたしたち幸せだけど、つらい思いをしてるんじゃないか。叶わないかも知れない想いを抱えて、それでもその人のことを好きになったんじゃないか。そんな想いが神様からあたしたちに与えられるのなら、きっとそれは意味や価値のあることなんだよ、人間にとってとても大切な事なんだよ。それが、人からバカにされるなんて、あっちゃいけないんだよ」

 

 サツキの声に、涙が混じっている。カエデもアオイも黙って俯き、あるいは、ハンカチで目頭を押さえている。

 

 それで、アイも分かったのだ。

 

 ああ、きっと─サツキの想いも片思いのままで、永遠に片思いで終わると分かっていて、彼女はそれでも今、自分の想いに誇りを持っていて、自分の恋を一生懸命、謳歌している。悲恋に終わるかも知れない自分の想いに逃げずに立ち向かっている。キレイだと思った。サツキの魂の形が綺麗で素敵だと思った。

 

 アイの両の目から涙が溢れ出した。サツキの表情が急に見えなくなった。でも、サツキが彼女だって哀しくて辛いのに優しい表情でアイを見ていてくれるのは間違いない。だからアイは安心して泣いた。

 

「あたしたち、きっと良い友達になれる」

 

 サツキがそう言って、アイの手の上に、優しく手を重ねた。会ったばかりでよく知らない他人の想いのために泣いてくれる、それは自分の想いと重ねたからだという理由はあるのだとしても、そんな人がこの世に存在しようとは思わなかった。確かにそんな人が友達になってくれるなら、それはとても素敵な事だろう。

 

「友達になろう、アイ」

「うん、うん」

 

 アイは涙を流しながら、サツキの言葉に何度も何度も頷いた。そして、改めて自分の想いを見つめ直す。

 

(ボクは、アスカ……さん、いやアスカが好きだ。アスカが大好きなんだ。アスカが他の人……碇シンジの事を好きでも、ボクはアスカが好きだ……でも、アスカの幸せを願っている。アスカに幸せになってもらいたいと思っている……)

 

 アスカが幸せになるには、相手が自分ではダメなんだ─そう、アイがたどり着いた結論は、十年近くも前にシンジが出した結論と全く同じで。アイはどうしようもなく、そんな所までシンジと同じで。でも、アスカが好きなのはシンジだから、これはシンジの出した身勝手な結論とは全く違っていて。

 

 だから、涙はいつまでも止まらない。アイはそれをきっと自分の想いの終着駅だと感じていた。行き先の見えなかった自分の想いに、ようやく決着がついたのだと。ならば、涙が止まらないのも当たり前だ。これはアイの想いのお葬式なのだから。かなわぬ想いをかなわぬと知って、きちんと埋葬するための時間がやってきたのだ。 

 

 だから。

 

 最後には、アイは両頬に乾いてもいない涙の線を残したまま、にっこりと笑って、三人に微笑むことが出来た。 

 

「……今は、そのひとと、そのひとの好きな人との仲を応援しようと思ってる。そのひとにはその好きな人でなくっちゃ駄目だと思ってるから。あの二人はどうしようもなく欠けていて、でも二人同士でならそれを補い合うことが出来て。……それは、ボクや他の人では絶対に駄目だと思えるようになったから」

 

 三人は先ほど聞いたばかりのアイの想いに、彼女が自ら訣別を告げるのを聞いて、静かに頷いた。アイの決断に秘められた勇気に、敬意を表した。恋する気持ちは乙女なら皆、分かっている。ある意味では、その気持ちは女の子にとって一番大切なもので、たとえ相手が異性であろうと同性であろうと同じ事だった。そして、その想いが尊ければ、相手の幸せを願い、諦めて身を引く決断が軽かろう筈もない。

 

 だけど、アイは一つの恋を失う代わりに、これから、大きなものを得る事が出来る。

 

 その日の、六分儀アイの日記にはこう書かれている。

 

「初めて友達が出来ました。それも三人。大井さん、阿賀野さん、最上さん。たぶん、ボクにとって一生で一番の友達になれそう」

 


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