追い詰められてきたミャンマー軍事政権

98年9月29日  田中 宇


 7-8月はミャンマー(ビルマ)にとって、あわただしい時期だった。

 皮切りは7月24日、アウン・サン・スー・チー女史が、首都ヤンゴン(ラングーン)から郊外の町へ行く途中で、乗っていた自動車を軍に止められ、29日までの6日間、車の後部座席に座ったままのスーチー女史と軍との間で、にらみ合いが続いたことだった。スーチー女史はミャンマーの民主派政党「国民民主連盟」(NLD)の書記長で、ミャンマーの民主化運動の中心的存在だ。

 独自の鎖国的な社会主義体制を40年近く続けたミャンマーでは、1988年、ソ連で政治の自由化が始まったことや、前年のコメ不足などを受け、大規模な民主化要求運動が起きた。この運動は、軍事クーデターとその後の弾圧によってつぶされてしまい、スーチー女史は「国家破壊分子」として、自宅軟禁状態に置かれた。

 だが、1988年のクーデターの結果作られた軍事政権「国家法秩序回復評議会」(SLORC)に対しては、欧米からの民主化要求圧力もあり、1990年に総選挙を実施した。その結果は、スーチー女史らNLDが、議会議席の82%を獲得しての圧勝だった。

 予想外の結果に、軍事政権は選挙結果を無視して議会を開かず、NLDメンバーに対する弾圧を続けた。その後、スーチー女史は1995年に自宅軟禁を解かれたが、ヤンゴン市内から外へ出ることは禁止されている。

 NLDは今年5月末に党大会を開いて以来、軍事政権に挑戦する態度を、少しずつ強めている。その戦略の一環として、スーチー女史は7月に入り、ヤンゴン市外の支持者宅に行こうとして途中で軍に制止され、そのまま軍とにらみ合う、という行動をとるようになった。

 最初は7月7日、スーチー女史は一晩を車の中で過ごしたが、軍の対応は変化せず、引き返した。2回目は7月20日で、このときは数時間にらみ合った。そして3回目の7月24日、スーチー女史は食料や水を十分に車に積み込んで出発し、案の定郊外の検問所で軍に阻止されると、車の中で篭城を開始した。

 おりしも、フィリピンのマニラでは、ASEAN(東南アジア諸国連合)の年次総会が開かれており、昨年からASEANの正式メンバーとなったミャンマー政府の代表として、外務大臣が出席していた。

 スーチー女史が軍に進行を阻まれている、というニュースが欧米メディアを通じて流れると、タイやフィリピンといったASEANメンバー国のほか、出席していたアメリカやEUの代表らが、「国内移動の自由を制限することは、基本的人権の侵害だ」などと、相次いでミャンマー政府を批判する発言を行った。

 ミャンマー政府は国際会議の席上で、恥をかかされることになった。

 また、欧米や日本の政府は、スーチー女史が軍と対峙している場所まで、自国の外交官を派遣し、女史と面会しようとしたが、ミャンマー政府は認めなかった。逆にミャンマー政府は、女史の行動を「外国政府と共謀した行為だ」と非難した。

 確かに、ちょうどASEAN総会が開かれている時期を見計らって、軍との対峙を開始し、軍がスーチー女史を制止するや、アメリカのオルブライト国務長官らがミャンマー非難を声高に開始する、という一連の流れを見ていると、ミャンマー政府が女史を弾圧しているという側面と同様に、アメリカやイギリスが女史を使ってミャンマー政府を攻撃している、という構図が透けて見える。これは、女史が1991年にノーベル平和賞を受賞して以来の構図である。

 結局、スーチー女史と軍の対峙は、始まってから6日たち、炎天下の車中に座り続けた女史の健康状態が悪化し始めた7月29日夜、軍が自動車の運転手を強制的に降ろし、代わりに軍人がドライバーとして乗り込み、後部座席のスーチー女史の両側には女性兵士が乗り込んで降りられないようにした上で、女史を自宅まで強制送還した。

●「アリス夫人」から「スーチーさん」へ

 それから10日後の8月8日は、1988年8月8日に、民主化を求める人々に軍が発砲し、1000人以上が殺された事件から10年目の記念日だった。この日、ヤンゴンなどで反政府デモが実施されるかもしれないとの懸念から、政府はNLDメンバーを相次いで逮捕するなど、弾圧を強めた。

 8日が近づくにつれ、ヤンゴン市民たちは、暴動に備えて食料などの買いだめをするようになり、店の棚から商品がなくなった。だが8日には、軍が厳重な警戒を敷く中、結局デモは実施されなかった。

 軍事政権は、この日発行したニュースレターの中で、スーチー女史に対する呼び方を、これまでの「アリス夫人」(Mrs. Aris)から「スーチーさん」(Ms. Suu Kyi)に変えた。アリスというのは、彼女の夫であるイギリス人の名字だ。

 軍はそれまで、「アリス夫人」と呼ぶことで、スーチー女史が外国人同様の人物であるというイメージを強めようとしていた。だから、「スーチーさん」と呼ぶようになったのは、民主化要求運動の高まりを恐れる軍事政権の譲歩であった。

 ところが、8月8日を記念する反政府運動は、ミャンマー人ではなく、外国人によっておこされた。

 8月9日、観光ビザでヤンゴン入りしていたアメリカ人、オーストラリア人、タイ人、インドネシア人、マレーシア人、フィリピン人の、大学生ら合計18人が、市内の目抜き通りで、「8888 - 忘れるな、あきらめるな」と書かれたビラをまき始めた。「8888」は、大弾圧があった1988年8月8日をさしている。

 だが、ビラを受け取ったら、後で公安に捕まって刑務所に入れられるかもしれないので、道行く市民は誰もビラを受け取らなかった。また、ビラまき活動の後、18人が近くのレストランに入ったところ、お客たちのヤンゴン市民たちは、疫病神を避けるように、いっせいに席を立って逃げ出したという。

 18人はその後、ミャンマーから出国しようとするところを、空港で逮捕され、何日かたって国外退去処分となった。

 自国民が逮捕されたアメリカや東南アジア4カ国などの政府は、逮捕者の処遇についてミャンマー政府と交渉したのだが、アセアン4カ国にとっては、難しい対応を迫られることになった。

 というのは、東南アジア諸国はもともと、ミャンマー政府に対して強硬な姿勢をとらず、アセアンの輪の中に迎え入れた上で、ミャンマー政府の閉鎖性を溶かしていこう、と考えていた。「欧米流の民主化はアジアに適さない部分がある。アジアはアジア流の政治を進める」というわけだった。

 だが、昨年からのアジア経済危機をきっかけに、IMFや欧米金融機関から、民主的な政治をしていないと金を貸さない、という姿勢が強まり、東南アジア諸国は、いつまでもアジア流外交を貫けなくなった。そして、その「踏み絵」となったのが、7月末のスーチー女史と軍の対峙事件、そして8月9日の「8888」ビラまき事件に対する対処の仕方だった。

 東南アジア諸国は、表立ってミャンマー政府を批判すれば、ミャンマーとの関係が悪くなるが、かといってミャンマー政府の肩を持ったりすれば、欧米から「民主的でない」とレッテルを貼られ、金を貸してもらえなくなる、というジレンマに立たされることになった。

 18人が、アセアン外交の踏み絵となることを自覚してビラをまいたのかどうかは不明だが、逮捕者の国籍にアセアン加盟国が4つも入っているのは、明らかな戦略と見て取れる。

 結局、フィリピンとタイは、比較的ミャンマー政府を攻撃する傾向が強い立場をとった半面、マレーシアはミャンマーとの関係を重視する立場をとっている。フィリピン政府の代表は「1986年のアキノ革命のような政府転覆が、ミャンマーでも起こるかもしれない」などと発言した。

●軍事政権が作った法律は全部無効だ

 その後、8月21日は、スーチー女史率いるNLDが、軍事政権に要求していた議会召集の期限日であった。

 ミャンマーの議会は、1990年の選挙以来、軍事政権に阻止され、一度も開かれたことがない。NLDは5月の党大会で、政府に対して議会の召集を求め、8月21日までに議会を召集しない場合、自分たちで議会を召集し、軍事政権がこれまでに議会の承認を得ずに発布した法律を、すべて無効だと宣言してしまう、という姿勢を打ち出した。

 これに対して軍事政権は、1990年の選挙で当選したNLD幹部たちを次々と逮捕して、定数割れに追いこんで議会を開けなくする一方、8月18日にはNLDとの対話を試みるなど、硬軟両面の対応に出た。

 スーチー女史の側が、8年間も開かれていなかった議会の召集を、今になって改めて要求した背景には、昨年以来のアジア経済危機によって、外資系企業が相次いでミャンマーから引き上げてしまい、経済が悪化して軍事政権が困っている、という事情があった。

 ミャンマーに対しては、昨年5月にアメリカの経済制裁が強化され、欧米企業の多くは、その前後に撤退している。そのため、投資の大半は東南アジアや日本、韓国の企業によるものだった。アジア経済危機は、これらのアジア企業に打撃を与え、多くの企業は、ミャンマーへの投資を続けられなくなった。

 そんな中、昨年11月、軍事政権内で、小さなクーデターともいえるトップ交代があった。それまでナンバー3だったキン・ニュン中将が、ナンバー1ポストであるSLORC議長となり、ナンバー2だったマウン・エイ大将らは、汚職行為をした容疑をかけられて、投獄されてしまった。

 この政変の黒幕は、1962年-88年まで政権の座につき、その後も院政を敷いているネ・ウィン将軍だとされる。そして、民主化を決して認めなかったそれまでの政権の態度を少しだけ改めて、欧米に対するイメージアップをはかり、アメリカの経済制裁を解除してもらって、外資系企業を再び呼び込もうとするための動きだったようだ。

 その後、ミャンマー政府は、アメリカのPR会社と契約し、国家イメージ戦略についてアドバイスしてもらったり、「国家法秩序回復評議会」(SLORC)といういかめしい政権名を、「国家平和発展評議会」(SPDC)に変えるといった「化粧直し」を行った。だが、こうした作戦は、あまり効果があがっていない。

 それを見抜いたスーチー女史らNLDは、強い姿勢に出るようになった。そのひとつが、議会の召集要求であった。

 結局、8月21日を過ぎても、政府は議会を召集しなかった。自党の議員の多くが逮捕されてしまったため、NLDは9月17日に残った議員で「10人委員会」というのを作り、そこが議会議長の指名と、これまでに軍事政権が発布したすべての法律の無効化を宣言した。

 10人委員会が指名した議長すら、すでに投獄されていたため、ミャンマー議会が開かれる可能性はほとんどなく、法律の無効化も軍事政権には無視されている。

 だが、欧米では「スーチー率いるNLDが正しく、軍事政権は汚い」というイメージが定着することになった。その意味で、軍事政権は守勢に立たされている。

●アメリカの中国封じ込め戦略の一環?

 一方、アメリカなど欧米にとって、ミャンマーの軍事政権を倒して民主化することは、「世界中を民主化する」という、きれいなお題目以外に、中国を牽制するという意味があるようだ。

 ミャンマーの軍事政権にとって中国は、武器を供給し、経済支援をしてくれるありがたい存在だ。その代わり中国は、ミャンマーを自国の影響下に置き、インド洋に軍事拠点を持つことができ、インドや東南アジアなどを威圧することができる、という関係が続いている。

 ミャンマーで軍事政権が終わり、スーチー女史が政権を握るようになったとしたら、当然、欧米寄りの姿勢を鮮明にするとともに、中国政府の「人権抑圧」を批判するようになるだろう。そうなれば、アメリカにとっては、中国のインド洋への足掛かりを断ち切ることができる、というわけだ。

 

 


関連サイト

Burma junta wins regional recognition

 ミャンマー軍事政権と少数民族、隣国タイとの関係などについて解説している。ルモンド・ディプロマティーク英語版、97年6月号の記事

'WE KNOW WE HAVE TO GO'The Deputy PM talks politics and economics

 ミャンマー副首相に対するアジアウイークのインタビュー記事。欧米による経済制裁が民主化を遅らせている、とのロジックを展開している。7月17日号。英語。

'Riot squads prepare for anniversary'

 サウスチャイナ・モーニングポスト、7月18日付け。8月8日の大弾圧10周年記念に向け、軍内に特殊部隊が編成されている、と報じた記事。英語。

'The Idea Is Very Poor'- Ohn Gyaw rejects open criticism in ASEAN

 アセアン総会でのミャンマー非難に関する記事。アジアウィーク8月7日号。英語。

Free Burma Coalition

 アメリカにあるNLD系のサイト(英語)。

Myanmar Home Page(The Goldenland)

 ミャンマー政府系のサイト(英語、日本語など)。

エーヤーワディのほとり

 ミャンマーの美しい写真など(日本語)。

Myanmar- The Land of Pagodas

 ミャンマー関連サイトのリンク集。

 






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