東浩紀、『動物化するポストモダン』刊行から18年後の現在地を語る

ポストモダン社会において、与えられるファストフード化された消費財を動物みたいに食べる人間像──。それを『動物化』と表現したのは、思想家・東浩紀だった。『動物化するポストモダン』の刊行から18年、東にとって現代社会はどのように映っているのだろう。デジタル・ガジェットに囲まれた動物的な人間たちの現在地とこれからを考える。
東浩紀、『動物化するポストモダン』刊行から18年後の現在地を語る
ILLUSTRATION BY AMARENDRA ADHIKARI

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「動物には精神がないから、単なる機械である」と定義したのはデカルトだ。さらに彼は「人間には精神があるから単なる機械ではない」と人間と動物の区別をその精神の有無に寄るものとした。では動物が単なる機械なら、人間は複雑な機械なのだろうか。

「動物と機械における制御と通信」という挑発的な副題がついた『サイバネティックス』の著者である数学者、故ノーバート・ウィーナーは、コンピュータ文化の生みの親のひとり。彼は第二次世界大戦中に米国防総省の要請を受けて、ナチス・ドイツを打ち破るため、まずはナチスの爆撃機を効率よく撃ち落とす対空砲火の開発のため、数学を軸に、脳科学、物理学、生物学の研究者を一堂に集めて領域を横断した新たな学問を生み出す。それが「サイバネティックス」だ。

そこでウィーナーは計算機、しかも自らが計算する機械を構想する。彼は『サイバネティックス』のなかでこう述べる。「演算の全過程を計算機の内部に置いて、データが計算機の中にはいり、計算の最終結果がとりだされるまでのあいだ、人間が介入しなくてもよいようにすること、またそのために必要な論理的判断は、計算機が自ら行うこと」

この本が世に出されたのが戦後すぐの1948年。ウィーナーのサイバネティックスと、イギリスでは数学者アラン・チューリングの自動計算機の発明から、コンピューターの歴史が始まったと言っていいだろう。

だがウィーナーは次の著作『人間機械論──人間の人間的な利用』において、自動で判断する計算機がもたらす危険性への警鐘を鳴らす。

「現実に危険なのは、そのような機械が、それ自体では無力だが、一人の人間または一握りの人間によって、人類の他のすべてのメンバーを管理するのに利用されること。または政治の指導者たちが大衆を、機械そのものによって管理するのではなく、あたかも機械によって算出されたかのような狭くて人間の可能性を無視した政治的技術によって管理しようとすることである」

このように、自ら計算する機械への信奉と恐怖も、この時点から始まっているのだ。ウィーナーはなおも続ける。「ファシストや実業界や政界の実力者の支配のもとで、人間は、ある高級な神経系をもつ有機体といわれるものの行動器官のレベルに引き下げられてしまった。私は本書を、人間のこのような非人間的な利用に対する抗議に捧げたいのである」。人間の機械性を先んじて研究し発表したウィーナーは、それがもたらす人間の動物的な利用への抗議に残りの半生を費やすことになる。

自ら計算する機械──この連載ではそれをAIとまとめて語っているが──の可能性とダークサイドを考えることは、人間の動物性ならびに機械性を考えることにほかならない。この連載タイトル「動物と機械からはなれて」を決める際に、もうひとつ参照したのが、思想家の東浩紀が『動物化するポストモダン』で提唱した「動物化」の概念だった。

動物化とはなにか。フランスの思想家アレクサンドル・コジェーヴが『ヘーゲル読解入門』にて人間と動物の差異を「欲望」と「欲求」という言葉を用いて表現した。コジェーヴによれば人間は欲望をもつが、動物は欲求しかもたない。動物の欲求は他者なしに満たされるが、人間の欲望は本質的に他者を必要とする。「『動物になる』とは、そのような間主観的な構造が消え、各人がそれぞれ欠乏─満足の回路を閉じてしまう状態の到来を意味する」と、東は『動物化するポストモダン』で解説している。

また、2009年9月号の『文學界』に掲載されているエッセイ「動物化について」では、「動物化」を次のように説明している。

「それはとりあえずは、社会が複雑化し、その全体を見渡すことがだれにもできなくなってしまい、結果として多くのひとが短期的な視野と局所的な利害だけに基づいて行動するようになる、そのような社会の変化を意味する言葉です。だからこそ、動物化の時代にいかにして公共性が成立するのか、問われなければならない」

『動物化するポストモダン』の刊行から18年が経つ。改めて東に「動物化」について話を伺うべく、五反田にある彼の事務所兼出版社、ゲンロンを訪れた。彼はその予見は「かなり当たっていると思いますよ」と語りながら、その主題について解説してくれた。

「ポストモダン社会になり、消費者はさまざまな記号の波を軽やかに渡っていくことになりましたが、実際にそこに拡がったのは、消費のなかで与えられるファストフード化された消費財を動物みたいに食べることになる、という現実でした。ポストモダン化された社会で行き着く先の人間像は『動物化』というわけです。動物化に対抗すべきか、それとも人間は動物なのだから柔軟に管理すべきか、人間性を巡る議論はこの2つの道に分かれています。現代社会において『人間であるためにはどうすればよいか』を改めて考えるべきだと思いますね」

人間は環境と調和し、「動物的」に生きていれば幸福である

エッセイ「動物化について」にて、東は「ぼくたちは人間をモノのように処理する社会に生きている。その極限がアウシュビッツですが、原理的には消費社会の日常についても同じことが言える」とも指摘している。消費社会においてそれは加速しているように思えるが、東はどのように捉えているのか。Amazonのレコメンデーションエンジンやグーグルによる検索カスタマイズを例に挙げながら、こう答えた。

「わたしたちは最適な商品が与えられ、そのことに対してお金を供給する機械のような存在になっています。それでも人間が幸せならば、それでいいという考え方もあります。フロイトが言うところの快楽原則では、幸福とはわたしたちの身体が要求している機械的なものなので、それを満たす環境が整うこと自体はよいことです。飢えているよりも満腹がいいし、硬い床で寝るよりも柔らかいベッドで寝たいでしょう。空虚な日常よりも適度に耳障りな音楽を与えられ、適度に泣ける物語を与えられたほうがよいに決まっています」

「動物化とは、そんなに悪いことではないんですよ」と東は意外にもそう語る。しかし「そこに飽き足らない人々のことも考えなければいけないんです」と補足する。

「人間は動物的に生きても問題ないわけです。コジェーヴが動物化を定義するときに、人間は環境と調和していない、動物は環境と調和していると表現しましたが、周りの環境と調和して生きたっていいわけです。でも、どんな人でも環境と調和したくなくなるときはあるんですよ。親族の不幸かもしれないし、病気になった瞬間かもしれない。『なぜ人は生きているのか』や『なぜ世界は存在するのだろう』と超越論的な思考をしてしまうときが人間にはあるんです」

そのような人々が集い、考える場所が社会にとって必要ではないか──。東がゲンロンを立ち上げ、現在も運営を続けている根幹にはこの考え方がある。

「超越的な視野が欲しいかどうかは、その人が決めることです。ただ、超越的・哲学的・文学的・人文的な思考をしたい人たちには社会はそれを提供しなくてはならない。言っておきたいのは、人が文学的なことばかりを専門的に考えている状態はおかしいということ。『文学的である』状態とは、文学的ではない生活、つまりは動物化が広がっているなかで、あるタイミングで人に訪れるものなんです」

現実よりもデジタル世界のほうが息苦しい

東は2014年の著書『弱いつながり 検索ワードを探す旅』にて、最適化された世界の外側に向かうために旅や弱いつながりの重要性を挙げた。かつてはインターネットやヴァーチャル空間こそが、人間にとっての新しいフロンティアとしてもてはやされていたが、いまそれは逆転していると東は考える。

「リアルな社会に息苦しさを感じるからこそ、さまざまな出会いや発見のあるヴァーチャルな世界が必要だと言われますよね。ぼくは逆だと思っています。リアルな世界のほうが偶然性が高く、さまざまなものに出合える可能性が存在しています。リアルな世界での思いがけないものや知らないこととの出合いが、実は頭をリフレッシュしてくれるんです」

人間は支配に順応する生き物

巨大プラットフォーマーである米国のGAFAや中国のBATの成長に伴い、アリババのような企業が提供する「芝麻信用」などのサーヴィスを、ドイツの政治学者セバスチャン・ハイルマンは「デジタル・レーニン主義」と表現した。しかしながら「共産主義をAI社会のメタファーとしてもち出すのは間違いではないか」と東は指摘する。

「共産主義というのは、所有権を廃止するなどの人間の本性に反することをやらせる体制です。一方で現代の巨大デジタルプラットフォーマーは、人間の本性に反することをやらせていません。GAFA批判やBAT批判をしてもしょうがないんです。なぜなら彼らが提供するサーヴィスは人間の本性に基づいていますし、プラットフォーマーが交代しても、また同じものが出てくるだけですから」

巨大デジタルプラットフォーマーの発展の先に、AIによる人類の支配を恐れるような考え方も登場している。東はその指摘に対して「いまの世界と本質的に何が変わるのだろう?」と疑問を呈する。

「いまぼくたちが生きている世界は、世界の超富裕層26人が資産150兆円をもち、それは世界の貧困層38億人と同額と言われています。ごく少数の人々の意向によって世界はガラリと様相を変えているとも言えるわけです。それでもぼくたちは普通に生きている。『AIに富が集中していておかしくないかな? でもやむなし』と適度に対処するだけだと思うんです。ぼくらが考える以上に、人間は支配や権力に対して柔軟です。AIやロボットによってぼくらのアイデンティティや日常的な感覚、暮らし方も大きく変わらないと思っています」

そのような人間の動物的な側面を意識した上での社会設計が求められていると東は提唱している。

「いまや人間性は、動物性や機械性のノイズとしてしか存在しないんです。人間は基本的に動物なんですよ。ただ与えられたモノを食べ、働けと言われたら働き、何も考えずに税金を納め、選挙に行ったらなんとなく政党に票を投じるんです。ゆえに人間の動物的な部分と人間的な部分を考えたときに、どうバランスをとるかが社会設計にとって重要です。今後は、人々の無意識の行動がビッグデータによって自動的に政策になったり、社会的な改善策になったりするデジタル・デモクラシーも台頭してくるでしょう。そのような『動物的な民主主義』と、投票による議会制民主主義をどのように調停させるか、ぼくが以前提唱した『一般意志2.0』のような仕組みを考えていかなければなりません」

デジタル・テクノロジーによって人間も社会も大きく変わらなかった

情報技術と人文知の交差点に立ち、インターネットの黎明期からそのインパクトを世に伝えてきた東は、社会のテクノロジーに対する捉え方が大きく変化していると指摘する。

「昔はデジタルテクノロジーがもつ能力が過小評価されていたと思います。でも、それはどこかで逆転したんです。いまはテクノロジーへの期待がむしろ過大すぎると思います。気の利いたアプリをひとつつくったとしても社会は変えられないですよ。でも、そう考えている人が本当に多い」

インターネットの急速な普及や、その後のソーシャルメディアの登場によるコミュニケーションの変化は人々の生活を大きく変える──かつてはそう思われていた。たとえば、2010年代の前半は「アラブの春」や「Occupy Wall Street」などのソーシャルメディアを起点とした社会運動が発生したが、どれも失敗に終わってしまった。代わりに台頭したのがポピュリズムであり、16年のトランプ大統領当選以降はソーシャルメディアに託された希望も潰えていった。

「10年ほど前までは、資金やイデオロギーがなくても、ソーシャルメディアで人を動員すれば政治的な力がつくれるという夢があった。でも、その果てがトランプです。ソーシャルメディアによる政治の実験は終わった、と認めるべきだと思います。これからは、いままで放置していた問題に立ち戻るべきです。単に人を動員すればいいと考えるのではなく、いまの時代において政治組織とはどうあるべきなのか、新しい時代のイデオロギーや社会を導く理念はどうあるべきなのか、それらの難しい問題に立ち向かうべきです」

それは政治運動に限らない。コミュニケーション・テクノロジーは、わたしたちのライフスタイルを大きく変えたと思われていたが、東はそのあり方にも疑問を呈する。

「コミュニケーションのテクノロジーがいくら進化しても、人々は同じように喧嘩し、恋愛し、薄っぺらいカリスマに熱狂している。人々の行動パターンはあまり変わっていませんし、関心をもつことは何も変わっていない。ぼくもインターネットは少なくとも政治くらいは変えるだろうと思っていました。でも、変わらなかった。むしろ社会を変えていくためには、新しいテクノロジーに過剰な期待をするのをやめたほうがいいんじゃないかと思います」

だからこそ東は「市民社会をどうつくるか」という古い問題に関心が移っているという。

「デジタル・ガジェットに囲まれた動物的な人々が、それに飽きたらなくなったときに言葉を与える場所をどうつくるか。ゲンロンは、そういうときに社会や政治について考える人が集まる場所として育てていきたいと思っています。これまでは批評や哲学などの伝統を引き継いで残す場所というアイデンティティだったのですが、少し方向性を変えました。いまの社会のなかで哲学的、文学的なことを考えられる場所にしていきたいんですよ」

Editorial Researcher:Kotaro Okada
Editorial Assistants: Joyce Lam, James Collins, Ching Jo Hsu, Matheus Katayama, Darina Obukhova, Victor Leclercq

TEXT BY MASANOBU SUGATSUKE

ILLUSTRATION BY AMARENDRA ADHIKARI