『もやしもん』はなにを可視化したのか

情報学研究者のドミニク・チェンが「情報社会と発酵」というテーマについて、さまざまな角度からの検証を試みていく本連載。今回から2回にわたり、マンガ『もやしもん』の作者、石川雅之との対談をお届けする。「発酵」に対する社会的認知に革命的変革をもたらしたと言っていい同作品は、いかなる背景から生まれたのか。そしていま改めて、『もやしもん』から読み解くべきこととは!?
『もやしもん』はなにを可視化したのか
石川雅之(左)と初顔合わせとなったドミニク・チェン(右)。かねてから「石川雅之ファン」を公言していた。PHOTOGRAPH BY YURI MANABE

最初は戦争モノを描こうと思っていた

ドミニク はじめまして。この度は、本連載ページのあちこちに『もやしもん』の菌の皆さんをご登場させていただき、ありがとうございます。

石川 いえいえ。

ドミニク ぼくは『もやしもん』をリアルタイムで読んでいましたが、今回の対談にあたって全巻読み返しました。すると、最近になってよく考えていることがすでにここに書かれている気がして、改めてすごく先見の明にあふれる作品だなと思いました。ぼくが勝手な読み方をしているだけかもしれないのですが、『もやしもん』だけではなく、『純潔のマリア』や『惑わない星』にも、石川さんの作品には通底するテーマがある気がしています。そもそも『もやしもん』では、どうして菌、発酵をテーマにしようと思ったんですか?

『もやしもん』13巻 ©石川雅之/講談社

石川 最初は群像劇みたいなことをやりたかったんです。たとえばモブシーンがあって、上から見下ろしてバーっと人がいたときに、大きな足がビチャっときて、足が上がるとぺちゃんこの人もいれば、ギリギリ助かった人もいれば、半分助からなかった人もいる。で、「どうした?」ってそれを周りで見てる人たちがいる、という絵を1コマのなかで描きたいと思ってたんです。

最初は戦争モノを描けばいいのかなと考えたのですが、もっと身近なものにしたいと思ったんです。それで、大学を舞台にする発想に行き着いたんです。足は落ちてこないけど、「いろいろな人が1コマのなかでいろんなことをしてるとしたら…」というところから構想が始まりました。ただ、一般的な大学を舞台にしても勉強してるだけじゃないですか。たとえば30歳くらいになって、「大学時代のやつらと飲もう」となったときに、「勉強辛かったね」って話じゃ盛り上がりませんよね。酔っ払って2階から落ちたとか、勉強以外のことが面白いから盛り上がるはずですよね。でもそれだけだったら大学である必要はない。外から見て「なんだあの学校は?」「なにをやってるんだ?」という大学はどこだろうって考えたときに、農業大学というアイデアが浮かびあがったんです。白衣を着ている人がウロウロしてるのに、豚とか馬とかもいて、毎日なにをしているの?っていう疑問がスタートでした。

ドミニク なんと、そうだったんですね。それにしても、どうして「農大」というテーマが目に入ってきたんですか?

石川 東京農業大学の近くに住んでいた初代の編集さんが、アイデアを出してくれたんです。「じゃあ一度東京農大を見に行こう」となって。あと、ぼくが住んでいたのは大阪の堺という場所なのですが、そこにも大阪府立大学農学部(現 大阪府立大学 生命環境科学域)があって、一般の人も学内に入ってよかったんです。なので、小さいころからザリガニ釣りとかに行ってたんですよ。そのときから既に、「この学校こんなに大きいけどなにしてるのかな」という疑問は潜在的にあったのだと思います。

ドミニク へえ、子どものころから農大への好奇心が育っていたんですね。

石川 はい。それで東京農大を見学してみると、たとえば微生物学っていうご大層な名前がついてるけど、お酒とかお味噌とか毎日使うモノにまつわる勉強をしているってことを知って、そこからですね。「じゃあ菌を入れていこう」となったのは。最初から菌ありきではなかったんです。

ドミニク 群像劇が描きたいっていうところから菌の世界へと次第に移っていったという過程がすごくおもしろいです。前から思っていたことなのですが、『純潔のマリア』の1巻を読んだときに、お城がドラゴンに攻められるシーンがあって、そのモブシーンがものすごく印象に残っていたんです。人々がワ〜ッと動いてて、ごった煮になってる。それを横からの引いた視線や俯瞰で見たりしてますよね。そのシーンと、『もやしもん』のなかで菌が遥[編註:登場人物のひとりで、農大の大学院生]のベッドルームに付着したり、もしくは農大のお祭りの人々の描きかたとかだったり、石川さんは大量にエージェントが動いている絵をものすごく楽しそうに描いてるなぁと思ったんですね。

『純潔のマリア』より ©石川雅之/講談社

ドミニク 石川さんはすべてアシスタントなしで描かれているのは知っていたんですけど、モブシーンへの執着みたいなものがあるのですか?

石川 そうですね。背景ってすごく大事だと思っています。ぼくは黒澤明さんの映画が大好きなのですが、『羅生門』をはじめて観たときにびっくりしたんですよ。三船敏郎(盗賊・多襄丸)が自らの行動を証言するシーンの回想で、三船が木漏れ日の中に寝転がっていて「俺が寝っ転がっていたら風が吹いたんだ」って言って。この「木漏れ日のなかで寝っ転がってるだけ」で風をどう表現したかというと、影を揺らしたんです。そのとき「ああ、こうやって見せ方を工夫するのか」と思ったんです。

その後、画面手前にいる2人の主人公が言い争いをしてるとき、後ろの人たちが突っ立っているだけで演技をしていないことに黒澤さんが怒ったというエピソードを聞いて、「そうよね、背景じゃなくて人やもんね」って妙に納得しました。背景の説得力さえあれば、前の人物に多少難があっても空間全体として認められる、ということを黒澤映画から教えてもらったような気がします。

ドミニク なるほど。ゲームのNPC(Non Player Character)っているじゃないですか。RPGだと村人Aとか村人Bのように背景的な人物たちですが、彼らの存在に説得力がないと気持ちが萎えてしまうっていうのを思い出しました。石川さんのマンガは、たとえば農大のお祭りの、1回しか出てこない人の顔がすごく丁寧に、濃く描かれていますよね。アシスタントを使われるマンガ家さんの作品で、明らかにその先生の画風とは違うモブが出てくるときはすごい違和感を感じてしまいます(笑)。石川さんのモブは全部、石川さんご自身の渾身の一筆で描かれているように思えて、そこからにじみ出る世界観のリアリティがすごいですよね。『もやしもん』の菌たちも、もちろんスーパーデフォルメされていますが、ひとつひとつ綺麗に描かれているのを見て、とても引き寄せられる気がします。

『もやしもん』2巻より ©石川雅之/講談社
石川雅之 | MASAYUKI ISHIKAWA | 大阪府出身。1997年に『日本政府直轄機動戦隊コームインV』でデビュー、初連載。99年、『神の棲む山』(『人斬り龍馬』所収)でちばてつや賞準入選受賞。「モーニング」連載の『週刊石川雅之』などを経て、2004年『もやしもん』を連載開始(14年完結)。同作で第12回手塚治虫文化賞マンガ大賞、第32回講談社漫画賞受賞。09年より『純潔のマリア』を連載開始(15年完結)。15年5月に『惑わない星』連載開始。PHOTOGRAPH BY YURI MANABE

嫌いなテーマだからこそマンガが描ける

ドミニク 菌でモブを描くとなったときに、どういうふうにあの造形をデザインされたんですか? 実際に図鑑みたいなものを見て、そこから着想を得られたのでしょうか。

石川 実は、第1話のOKがずっと出なかったんです。担当編集さんがOKでも、編集長からOKが出なかった。菌なんて、顕微鏡サイズで見ても丸いか細長いかみたいなもんなんですよ。だからどうしようってなったときに、「その丸に目と口を描けばいいんじゃないの」って担当編集さんが言うものだから、イライラして、丸とちょんちょんでFAXをバーンって送ったら、編集長からOKが出た(笑)。それが最初で、微生物学の本とかを読んだのは、その後のことです。エラい世界に手を出してしまったぞと思いましたね。

『もやしもん』5巻より ©石川雅之/講談社

ドミニク スーパーデフォルメされた菌が目に見えて話もできるという主人公、というのはすごくぶっ飛んだ設定だと思いますが、その一方ですごく真面目に農業や発酵について調べて描かれていますよね。お酒の三段仕込みの説明が以前の巻で間違っていたということを、その後、別の巻の冒頭のマンガで描かれたりしていて、なんて真面目な方なんだろうと思いました。生半可な勉強量ではないと、恐れ入りました。

石川 なにも知らなかったからだと思うんですよね。たとえば自分の大好きなものを描いたとしても、多分おもしろくないと思うんですよ。知っていることを描いているだけですからね。それより自分の知らないことを知って、「面白いことを見つけてしまいました」ってみんなに見てもらう方が、自分も楽しいのではないかと。だからマンガ家として、嫌いなことばかりやろうと思っているんです。ということで、細菌をやって、宗教をやって、いまは一番大嫌いなものをやっているわけです。宇宙って大嫌いすぎて、触れたくもなかったんです。ぼく、宇宙のことを考えるだけで「わーっ」てなるんですよね。デカいし想像もつかないし、なにがなんだかわからない。それに、マンガにするときは真っ暗に点や丸じゃないですか宇宙空間って。なんだか手抜きっぽいし、なにが面白いのかと思っていて、だからこそ、「じゃあやってみよう」となるんです。

『惑わない星』1巻 ©石川雅之/講談社

ドミニク 嫌いなものを毎回にテーマにするって、凄いですね(笑)。嫌いというか苦手、という感じでしょうか。でも、『もやしもん』のときは群像劇を描きたいという自分の好きなテーマが先行していたと思うんですけど、最初は細菌とか微生物も嫌いだったんですか。

石川 日本酒も苦手でした。

ドミニク え! では、いわゆる発酵食品は?

石川 そんなに意識したことなかったですね。

ドミニク 衝撃的ですね(笑)。『もやしもん』を描く過程で、それは変わったりしたんですか?

石川 お酒を飲むようになりましたね。あと、お味噌やお醤油にこだわるようにもなりました。それまでは、なんでもよかったんですけど。

ドミニク 描いていく過程で、対象に対する解像度が上がっていくような感じなんですかね。

石川 それがまた怖いと思っているんです。自分がわからないと思って勉強して、わかったから描いてる、というのを続けていくと、知識が蓄えられていくじゃないですか。そうなると今度は、わかった目線から描いちゃったらどうしよう、という怖さが生まれてくるんです。偉い先生で教えるのが苦手な人っているじゃないですか。なんでも知っているから、「こんなこともわからないの?」っていうところから始めてしまうわけです。頭のいい人って結論を言えるから、中間を端折って会話をしてしまうことがある。偉くなるというのとは少し違うけど、自分も知識を得ることでそうなってしまわないかという怖さがあって、ビクビクしてましたね。「教科書をつくっているわけじゃないし、これはマンガなんだから、ややこしくしてはダメ」って思うのですが、怖くて、ついつい描いてしまうんです。

ドミニク あれだけの文字量と欄外コメントが多いマンガは石川さん以外だと士郎正宗さんくらいだと思います。ぼくは読み返す度に発見があるので、すごく好きですけど。

石川 トイレに置いてほしいなと思っています。暇つぶしにずっと読めるみたいな。そうしたいなっていう思いは最初からありますね。

対談は大泉学園のとある喫茶店にて行われた。

「最後は日本酒」と決めていた

ドミニク 菌のマンガを続けていく過程で、菌に関するテーマだったり、なんらかの事象を取り上げるときに選ぶポイントってありましたか? それこそお酒の三段仕込みの話などは、「これは描いたらビジュアル的に面白そうだな」という風に考えるんですか?

石川 最後は日本酒と決めていました。日本酒を描いたら終わり。で、1〜2巻くらいまでは担当編集さんと内容について詰めて話し合っていたのですが、3巻からはもう自由にやってほしいってことになりました。自分は売る側の仕事をするから、きみは描けって。まったくお互い干渉しない完全な分業ってほどではないにせよ、珍しい体勢だとは思いますが、編集さんが口を出さなくなったんです。そこからですね。一応、ちゃんと季節がめぐるように1年間を描くということにして、じゃあ次は夏だし沖縄いく? とか、ワインはやらなきゃいけないなとか、メインの食材から考えるという感じでしたね。学生生活のなかで、どんな発酵食をその季節にやるか、みたいな感じでテーマを決めていた気がします。

ドミニク そうだったんですね。確かにフランスやアメリカを巡って最後に日本に戻ってくるという流れがしっかりしていますね。海外の話題だと、オクトーバーフェストの写真が出てきますよね。大きな会場のなかで数百人が描かれていて、全員が笑顔になっているという。だからぼくはオクトーバーフェストっていうと『もやしもん』を思い出します(笑)。

『もやしもん』8巻より ©石川雅之/講談社

石川 ものすごく大きいテントなんですよ、あれ。ビール編はものすごく苦労しました。

ドミニク 『もやしもん』を描く全体を通して、どの部分が一番苦労の元だったんですか? やはり取材でしょうか。

石川 取材は大変でしたね。『もやしもん』の取材って結構弾丸が多いんです。オクトーバーフェストのときも、ドイツへ行ってチェコへ行って、最後にベルギーへ行ってという旅程を1週間でこなしました。ひとつの街に1日しかいないみたいな感じで、走り回って帰ってきたので、なにも得られなかったと思いましたね。「どうする?」みたいな。オチも見つからないままどんどん話が進んでいくなかで、ある日、どなたかのお通夜に行ったんですよ。お通夜のあと、寿司があるから食べていってみたいな空間があるじゃないですか。そこにビールがあったんです。みんな、「じゃあ一口だけいただいて失礼しよう」みたいな感じでビールを注ぐじゃないですか。当たり前ですが、あんまり楽しくない。おいしくない。じゃあ、ビールってどういう席が合うのかなって、改めて思いました。で、やっぱり華やかで、みんなが楽しんでる席が合うというのを、お通夜で再認識したんです。それで一気にオチまで考えがまとまりました。オクトーバーフェストの場では、自然にみんな笑顔だったので逆に気付けなかったんですよね。お通夜の席で、「ああ、あそこは楽しい空間だったんだな」と、改めて思ったわけです。

ドミニク なるほど、日本という別の国の全然違うシチュエーションとのギャップでオクトバーフェストの本質に気づかれたんですね。お話を聞いていて思うのは、石川さんの発想は生活レヴェルからの発酵に対するアプローチですが、ぼくみたいに発酵を抽象的に捉えて興味をもつというのとはベクトルが違っていてすごく面白いですね。

今回『もやしもん』を読み返していて、主人公を指導する樹慶蔵教授のスタンスがすごく面白いなと改めて思いました。いろんな登場人物たちが農業や社会をめぐって極端な肯定論や否定論を展開しますが、樹慶蔵はいつも清濁併せ呑む感じで、そうした極端な意見を媒介する感じですよね。そうやってクールに現実を見つめる眼差しをキャラクターたちにもたせていながら、その反面、ときとしてピュアな反応を見せるギャップがすごく面白くて。一番感動したのは、主人公の沢木が最後に樹慶蔵のために菌たちを呼んであげるシーンで、菌たちが樹先生に対して「お前なんかまだまだ勉強が足りんぞ」と伝えて、彼が感涙するところです。この場面には、人間の感情と科学的な視点の両方がある気がします。

『もやしもん』13巻より ©石川雅之/講談社

加工食品を擁護する意味

ドミニク 先ほどからお話を聞いていて、嫌いであったり苦手なものに興味をもって勉強されてる一方で、対象への共感や感動がないと描けないようなシーンを描いたりもされていて、その理性と感情の両極を行ったり来たりしてるというところが石川さんの作品に通底するテーマなのかなと思いました。

石川 嫌いなものって、「なんとなく嫌い」のままにするのではなく、「どうして嫌いなのか」を明らかにしたくなります。そのためには、それが大好きと言ってる人よりも自分が詳しくなきゃいけない。実は小さいころに、ちょっとした宗教勧誘を受けて、「入らないとバチが当たるよ」って言われたんです。それで、「御釈迦様ってバチを与えるの? 悪魔なの?」って。「そんな宗教に入ってるならあなたたちは邪教の信者だな」と思って、ほんとなのか調べてみたんですよね。ブッダはほんとに天罰とか食らわせるような存在なのかって。調べていくとそんなことはないし、でもヤハウェの方は案外エグい部分もあるなとか、徐々に面白くなってきたんです。別にその人たちを論破したいわけではないのですが、真ん中にいるためには、知っていなきゃいけないのかなと思ったんです。

ドミニク おお、「真ん中にいるため」ですか。

石川 どっちかに寄っちゃうと、そっちの人たちは取り込めるけど、もう一方を全部捨てることになるんじゃないのかなと思っているんです。確かビートたけしが政治家の人にたとえ話で、「おはぎ屋さんが2軒並んでいて、食べて行ってって言われて、食べた後どちらが好みか言っちゃダメだ」と言っていました。「両方おいしい」と言わなければダメって。そのとき、なるほどなあと思ったんです。アイドルが政治のことを語らないのと一緒で、例えば「自民党が好きです」って言ったら、自民党不支持の自分のファンを遠ざけることになる。アイドルの活動とは無関係なのに。常に真ん中の人のふりをしているのが一番いいのかなと。

ドミニク なるほど、フェアであろうということでしょうか。

石川 そうしたら、嫌いな方からも情報をもらったりするんですよね。だからそっちの方がいいかなと思って。

ドミニク 利己的に、自分がより中立的に世界のリアリティを知るためというか、そういう好奇心によってすごくドライヴされている感じですね。

石川 いやー、怒られるのが怖いだけな気もするんですけどね。

ドミニク えー、でも怒られるのが怖かったら『もやしもん』みたいなぶっ飛んだ設定のマンガは描けないと思います(笑)。

石川 批判を避けて通っていく、みたいな感じです。海原雄山みたいな絶対的権威の人から「これはまずい」って言われたら、「そうなのか」って読者は思ってしまうかもしれないけれど、『もやしもん』にそういう人は登場しませんからね。

ドミニク たしかに、樹先生はかなり中立的ですよね。「選択肢が多いことが大事である」ということで加工食品を擁護するくだりは、本当に目からウロコでした。

『もやしもん』9巻より ©石川雅之/講談社
熱い議論はまだまだ半ば。後編は7月下旬に公開予定。PHOTOGRAPH BY YURI MANABE

TEXT BY DOMINIQUE CHEN

PHOTOGRAPHS BY YURI MANABE

ILLUSTRATIONS BY TAKESHI TOMODA

CHARACTERS ©MASAYUKI ISHIKAWA / KODANSHA