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  • 執筆者の写真高森明勅

2・26事件と折口信夫

更新日:2021年1月20日

2・26事件と折口信夫

日本の近代史上、最大の「反乱」とされる2・26事件。民俗学者の折口信夫(おりくち・しのぶ)はどう対応したか。その最期を看取った岡野弘彦氏の発言が興味深い。


「2・26事件の後ですぐさま、〈おおきみ(大君=天皇)の伴(とも=側近くに寄り添い従う者、従者)のたけを(建男=強く勇ましい男)と頼みしが、きのふ(昨日)もけふ(今日)も 人をころ(殺)しつ〉という歌を新聞に発表し、(事件に関わった)青年将校に批判的な感情をあらわにします。


しかし、その青年将校たちが処刑された後、『寿詞(よごと)をたてまつる心々』という60枚くらいの論文を『日本評論』へ書くんです。それも決して、青年将校たちへ、とは言葉に出しません。けれども、読んでいるとわかるんです。


古代から、宮廷に謀叛(むほん)を企てて敗れ去った者が、命の最後の際に宮廷を祝福する言葉を言って死ぬ。…そういう例をいくつかあげて、『そういう日本人の持ってきた心のありようが後の世の若者たちの心を清らかにする』と言っています。


これは、裁判らしい裁判もなしに芝生の上にひざまずかせられて銃殺された、にもかかわらず、最後に『天皇陛下万歳』と言って死んだあの青年将校たちへの悼(いた)みなんですね。


…最初に憤って歌を詠(よ)んでいる。その後半年あまりして軍の処刑の無残さを知ると、今度は論文で悼みの心を表現するんです。こういうところは実に折口らしい。ただ、それを単純に右翼に利用されるのは絶対いやだから、大変韜晦(とうかい)した文章になる(『座談会 昭和文学史』第2巻)


ふと、昭和天皇のなさり方を思い浮かべる。事件当時、政府・軍の上層部が揃って浮き足立つ中で、毅然(きぜん)として断固鎮圧の方針を貫かれた。もし天皇がこの時に、少しでも優柔不断なご様子を見せておられたら、事態はどうなったか。暫定内閣から憲法停止へ、という流れが出来てしまったかも知れない。だから、天皇の冷厳なご姿勢こそが、事件を挫折させたと言っても、決して過言ではない。


しかし、将校らが処刑された後に迎えた新盆(にいぼん)の折に、銃殺された者と自決した者の数に合わせて、盆提灯(ぼんぢょうちん)を手配させ、宮中の奥深く、お1人で静かにその魂を慰められたという(影山正治氏『天皇論への示唆』、鬼頭春樹氏『禁断 2・26事件』など)。


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