馬にも「赤紙」があった 明治から戦時下の資料で発見、相模原で展示

三木一哉
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 【神奈川】馬にも「赤紙」が来た――。のちに相模原市となった町村の役場で作成された農耕用の馬に関する名簿など70点が見つかった。明治から戦時下にかけての軍部の動きのほか、市民の生活がうかがい知れる貴重な歴史的公文書だ。

 保管していたのは同市立公文書館。見つけた井上泰学芸員が主に旧津久井郡(相模湖、藤野、城山、津久井各町)から引き継いだ史料を精査・整理した。7月末から、表紙や中身のコピー40点を展示、パネルで解説する企画展「兵事書類と馬 町村役場資料に残る馬匹(ばひつ)書類から考える」が緑区の同館で開催されている。

 これらの文書は、民間で使っている馬を有事の際、強制的に軍に提供させる「徴発」がスムーズにできるよう各地の町村役場が作成したとみられる。

 湘南村(現・同市緑区)が昭和16(1941)年に作成した「(秘)動員(馬匹徴発)実施業務書」というファイルには、「全戸不在者へ通告書」と書かれたページがあり、そこに長細く赤い紙が折り込まれていた。

 「徴発セラル直ニ役場に出頭スベシ 湘南村役場」

 馬を飼う農家へ、徴発の通知を届けに来た係員が家人不在のときに玄関や馬小屋に貼り付けた書状の見本だという。「家人がいれば口頭で伝えたのかもしれませんが、まさに『馬の赤紙』です」と井上学芸員。

 同じファイルには人の召集令状と似た赤い紙がもう1枚、折り込まれていた。「使丁呼集状」とあり、「動員アリ使丁(空欄)名直ニ役場ニ出頭セシムヘシ」とある。

 井上学芸員は「村役場の担当職員に、馬の徴発の連絡に回る非常勤のような係員を集めるよう指示する軍からの命令書でしょう。赤色の書状には軍の緊急命令という意味があったのではないでしょうか」と分析する。

 馬関係の書類は、明治30年代から昭和19年までの分が確認された。相原村、田名村、川尻村、湘南村などで作成された「兵事に関する書類」「馬匹に関する書類綴(つづり)」「徴発馬匹買上(かいあげ)代金請求書」といったファイル名がついている。

 これらの文書で、軍に譲渡、徴発されたことがわかる馬は7頭いた。多くは明治30年代で、義和団事件日露戦争の時期にあたる。明治37(1904)年と記された湘南村の「牡馬(ぼば)原簿」によると、〈江嶋子之吉〉氏所有の6歳の牡馬など2頭が軍の検査に合格し、同年3月に徴発されたと明記されている。

 人の戸籍と同じような「馬籍簿」が作られ、譲渡や死亡、購入なども逐一記録されていた。

 軍は平時には去勢の技術指導、在郷軍人会などとの品評会や定期的な訓練も実施していたことも分かってきた。訓練に来たら日当を払うなど、馬を飼う農民らにも実益を与えていた。もともと運搬や農耕に用いる個人所有の馬を、いつでも軍に提供してもらえるしくみを役場と協力して構築していたことが読み取れる。

 井上学芸員によると、昭和12(1937)年以後は、県の統計から馬の数の項目が消えた。「馬の数が軍事機密になった。軍は『旗競馬』と呼ばれた草競馬にも介入し、馬のけがを防ぐため全力疾走を禁じた」

 馬関係の文書は多いが、残っている期間はばらばらで何頭の馬が徴発されたかといった数値面での全体像は分からない。しかし「馬を例に、普通の暮らしが次第に軍に統制されていく過程が、公文書に記述された手続きや通達などから分かる」と井上学芸員はいう。

 時代の変化も資料から垣間見える。県の統計によると、2006~07年に相模原市と合併した旧津久井郡の馬の数は1885年には958頭だったが、1937年には218頭にまで減っていた。鉄道や自動車による貨物運送が普及したためとみられる。青野原村では、38年に貨物自動車が徴発された例があり、軍からは1台、3700円の代価が払われたと記録されている。

 10月31日まで。観覧無料。平日午前8時45分~午後5時。原則として土日祝日は休館。8月26日と9月16日午後2時~3時には井上学芸員による展示解説があり、土曜日だが開館する。(三木一哉)

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    太田匡彦
    (朝日新聞記者=ペット、動物)
    2023年8月8日16時50分 投稿
    【解説】

    靖国神社には「戦没馬慰霊像」が立っています。そばには「軍犬慰霊像」と「鳩魂塔」も。毎年4月、碑前で合同の慰霊祭が行われています。第2次世界大戦中に出征し、命を落とした軍馬は20万頭とも言われます。靖国神社のHPでは「海外に出征した軍馬、軍犬

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