EXPO'70 OSAKA 3Dでよみがえる大阪万博

1970年の大阪万博から、もうすぐ半世紀。大阪府が保存する図面や写真などの貴重な資料を元に、当時の会場を3DCGで克明に再現した。あの日の熱気がいま、よみがえる。

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熱狂の日々、そこに未来があった

 大阪市中心部から北へ約13キロ。大阪府吹田市の千里丘陵にある万博記念公園を訪れた人々を迎えるのが、芸術家の故・岡本太郎がデザインした「太陽の塔」だ。高さ70メートル。大きく両腕を広げた格好の異形の塔は、いまも圧倒的な存在感を放ち、人々を魅了し続けている。

 1970年、この地でアジア初となる国際博覧会(万博)が「人類の進歩と調和」をテーマに半年間にわたって開かれた。山林を造成して完成した約330ヘクタールの広大な会場では、参加した77の国と地域や日本を代表する企業が出展した、未来社会を想起させる様々な形状のパビリオンがずらりと並んだ。時は、高度経済成長のまっただ中。64年に開かれた東京五輪と並び、戦後の復興を成し遂げた日本の姿を国内外に示す、巨大国家プロジェクトだった。

 特に人気を集めたのが、宇宙船アポロ12号が持ち帰った「月の石」を紹介したアメリカ館と、宇宙船ソユーズを展示したソ連館。冷戦下で激しくぶつかり合う宇宙開発競争の一端に触れられる貴重な機会として、入場まで3時間待ちは当たり前だった。会場で売られた缶コーヒーやファストフードはその後に爆発的に広がりをみせ、国民生活にも大きな影響を与えた。

 その中で、メイン会場のお祭り広場にそびえ立つ太陽の塔は、まさに万博の象徴だった。故・丹下健三の設計した「大屋根」をぶち抜く先鋭的なデザインは来場者に強い衝撃を与えた。

 来場者数は、万博史上最多(当時)の約6422万人。約3兆円の経済効果があったとも試算され、会場は連日熱狂に包まれた。

 あれから約半世紀、万博閉幕後にほとんどのパビリオンは解体され、当時の面影を残すものは数少ない。いまでは大阪のシンボルとされる太陽の塔も、当初の計画では解体されるはずだった。だが、市民らの反発や反対の署名運動が起こり、永久保存が決定した経緯がある。

 大阪府では現在、万博のレガシー(遺産)の復興に乗り出している。一昨年から約18億円を投じて太陽の塔の再生事業に着手。今春から、48年ぶりとなる内部公開を開始し、大勢の観客が訪れている。芸術家の故イサム・ノグチが「宇宙空間の夢」をテーマに手がけた6基の独創的な噴水などの復元にも取りかかっている。

 そして2度目の東京五輪から5年後の2025年、国をあげての誘致活動が実り、再び大阪万博が開かれることが決まった。新たな舞台は、大阪湾に浮かぶ人工島の夢洲(ゆめしま)。「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマに、世界の人々がより健康で豊かに生きるための新たな方法を探る「未来社会の実験場」をめざす。

企画
池尻和生石木歩上田悠阪田隼人坂本純也滝坪潤一林尚行
制作・デザイン
内海智裕、小倉誼之、白井政行
(朝日新聞メディアプロダクション)
協力
大阪府日本万国博覧会記念公園事務所
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日本

日本館

テーマ日本と日本人

高さ80メートルの塔を中心に、5棟の円筒形建物が地上から6.5メートルほど浮かんでいた。 空からみると桜の花びらのように見える建物の配置は、万博のシンボルマークをかたどったもの。

展示を見る

スタンプ帳

ARで飛び出す太陽の塔

1970年の大阪万博のシンボルで今春、48年ぶりに一般開放された太陽の塔。AR(拡張現実)であなたの目の前に現れます。上の画像をタップしてご覧ください。

※ iOS 12の「ARkit 2」を使用しています。iOS 12がインストールされているiPhone 6s以降のSafariで動作します。

縦画面でご覧ください。