興津と戦争(戦前)

西園寺公望の死

弔問に集まる町民ら=1940年11月(山田写真館提供)

最期に「この国どこへ」

 かすかな声で西園寺公望がつぶやく。秘書の原田熊雄が口元に耳を近づけた。「一体どこへこの国を持って行くのや」。1940(昭和15)年11月24日午後9時54分、西園寺は息を引き取った。91歳。最期まで日本の将来を憂えていた。

 本紙の前身である静岡民友新聞は直後の様子を伝えている。坐漁荘前に姿を現した執事の熊谷八十三は震える声で西園寺死去を発表すると、がっくりと腰をかがめた。100人以上の記者にも涙を流す姿があった。

 興津の住民も悲しんだ。4日後に東京での国葬のためにひつぎが運ばれた興津駅までの沿道は見送りの人垣ができた。県警察部(現県警本部)がまとめた「西園寺公爵警備沿革史」は子どもの追悼文を載せている。「僕らも西園寺公をお手本として立派な日本人にならなければ」

沿道を埋めた人々に見送られ、東京での国葬へと運び出される西園寺公望のひつぎ。西園寺は最期まで、日本の将来を憂えた=1940年11月28日、興津町内(山田写真館提供)
始まった太平洋戦争

 死から1年。日本は西園寺が恐れた“轍(わだち)”を刻んだ。太平洋戦争開戦。清水市史は当時を記す。「市民は大熱狂し、町内会・青年隊が旗行列を行って祝賀絵巻を繰り広げた」と。

 「あの戦争は、気付けば戦争せざるを得なくなっていたと言った方が近い」。静岡福祉大で日本近現代史を研究する小田部雄次教授(62)は語る。引き金になったのは経済格差―。小田部教授はそう捉えている。

 満州事変に満州国建国、国際連盟脱退…。大正から昭和初期の恐慌は日本を大陸進出へと駆り立て、世界から孤立させた。だが、国内は楽観していた。その都度、各地で行われた祝賀行事は写真や映像に記録されている。戦時下の内相木戸幸一は36年7月4日の日記で「種々やって見たけれど、結局(政治は)人民の程度しかいかない」との西園寺の嘆きを残している。

西園寺公望(熊谷真太郎さん提供)
心境重ねた 2つの軸

興津の坐漁荘にある「万事如意」の掛け軸。西園寺がこの地に移り住んで間もない1919年ごろ作成

 実は、坐漁荘は国内に2棟現存する。興津の跡地に建つ再現家屋と、愛知県犬山市の明治村にある実物。二つの坐漁荘は対照的な掛け軸を展示している。

 興津にあるのは「万事如意」。ここへ越してきた19年ごろ、西園寺は理想通りに進む世を書で表した。だが、明治村にある39年の絶筆の掛け軸は「所憂非我力(憂うる所はわが力にあらず)」の句で結ばれる中国の漢詩だった。国の将来への憂いは自分の力ではいかんともしがたい―。そんな詩に自らの心境をなぞらえた。わずか20年で日本は変わってしまった。

 まちで出会った戦争体験者も、格差社会が叫ばれる現代を危惧している。「当時は誰も『今が戦前』なんて思わなかった。戦後の現代もいつの間にか、戦前になっていなければいいが…」

静岡民友新聞の過去紙面

西園寺公望の死を伝える1940年11月25日付の朝刊

1940年11月26日付の夕刊