【解説】 天安門事件30周年、中国の一大「忘却」事業

ジョン・サドワース、北京

動画説明, 天安門事件から30年 中国が忘れた映像

1989年に北京で起きた出来事について、中国政府による公式行事はない。……とはいえ、そう断定することは事実としては正確かもしれないが、あまりに中立的すぎる。

実際はどうかといえば、天安門広場での出来事は毎年、忠実に、受け止められている。「忘却」と呼ぶのがふさわしいかもしれない、大々的な国家的取り組みによって。

6月4日に向かって、世界最大の検閲システムはフル回転態勢に入る。自動アルゴリズムと数万人の検閲官がインターネットを徹底的に調べてまわり、天安門事件に関するありとあらゆる言及を削除しまくる。どれほど間接的にぼかした表現でも、容赦はない。

検閲逃れの手口があまりに挑発的過ぎるとみなされれば、禁錮刑もあり得る。今年4月には、「八酒六四」というラベルの中国酒・白酒を販売しようとして2016年に逮捕された香港の男性4人が最長3年半の禁錮刑判決(一部は執行猶予つき)を受けた。

こういう画像をツイッターに投稿するだけで、拘束される可能性がある。そもそもほとんどの中国人は、ツイッターの利用を禁止されているのだが。

数カ月前には私自身、中国当局がいかに徹底的に天安門事件について市民の行動を取り締まるか、目の当たりにした。市民が一切、天安門事件を公に話題にしたり、見える形で追悼しようとしたりしないよう、当局はとことん手を尽くす。

中国では4月の清明節に帰省し、先祖や家族の墓を掃除するのがならわしだ。この時期に合わせてBBCは、事件犠牲者の遺族に取材の手はずを整えていた。1989年6月初め、人民解放軍の第一陣が天安門広場に入った直後、この高齢女性の息子は広場の北側で頭を撃たれて亡くなった。

Zhang Xianling

画像提供, Reuters

画像説明, 天安門事件で死亡した息子の写真を報道陣に示す2014年の張先玲さん

張先玲(チャン・シャンリン)さん(81)は毎年そうしてきたように、19歳で死亡した息子、王楠(ワン・ナン)さんの遺骨が納められている小さくて静かな墓地に花を持参するつもりだった。墓地は、北京市内の頤和園の近くにある。

しかし私たちが到着すると、家族の墓の周りには警備兵がびっしり張り付いて警戒に当たっていた。

そして私たちは制服警官に職務質問され、旅券や記者証を調べられ、個人情報の記録をとられた。

さらに、張さんは警察の同行つきで墓地を離れ、報道陣との接触は認められなかった。

Chinese grave
画像説明, 張さんの家の墓には、夫と息子が埋葬されている
Presentational white space

王楠さんの死はあの日の出来事のごく一部に過ぎない。BBCのアーカイブには当時の記録が多数残されており、それは見る者の胸を打つ。

映像記録は一コマ一コマ全てが、撮影した人の勇気の証しだ。燃え盛るたくさんの車両を背に黒い影となった兵士たちが、武器を水平に構えて群衆に向かっていく様子が映っている。

そして映像には、パニック状態のデモ参加者たちが、何度も撃たれて血まみれになった仲間を、必死になって自転車や徒歩で病院に運ぼうとする様子も映っている。

その中で私にとって特に印象的なのは、ひとつの短い場面だ。

「もう撃たないでと懇願したが

夜が明けてもなお、市内では散発的な銃声が聞こえていた。見るからにショック状態にあるイギリス人観光客のマーガレット・ホルトさんは、20世紀の決定的な歴史的瞬間のひとつに、たまたま巻き込まれてしまったのだ。

「1人の兵士がやたらめったら銃を撃ちまくっていて、群衆に向かって無差別に発砲していた。3人の若い女子学生が、この兵士の前にひざまずいて、もう撃たないでと懇願していた」と、ホルトさんは語りながら、両手を合わせて拝む仕草をした。

「なのに兵士は、3人を撃ち殺した」

記録映像の中で、ホルトさんは続ける。「お年寄りが、道を渡ろうと手を上げた。すると同じ兵士は、このお年寄りも撃った」。

50代後半か60代前半のホルトさんは、天安門広場から数百メートルしか離れていない建物の中で、絵の勉強をしていた。その建物の窓の向こうで、この兵士がそれからどうなったかを、ホルトさんは語り続ける。

「銃の弾倉が空になったので、兵士は弾をこめ直そうとした。すると、大勢が一気に押し寄せて取り囲み、兵士を木から吊るした」

わずか24秒間の描写だ。

しかし、あっという間に語り終えた内容だからこそ、平和的抗議集会がどれほど残酷な形で鎮圧されたのか、そして暴力を浴びせられた群衆がどれほど怒り狂っていたのかが、短い描写からくっきりと浮かび上がる。

そしてだからこそ、なぜ中国当局が今なおこれほど躍起(やっき)になって、事件の話題を封じ込めようとするのか、その理由の一端がうかがえる。

変化の風

1989年の春から夏にかけて、北京を初め中国各地の都市を揺さぶった何十もの民主化要求デモは、ありがちなことだが、ごくごくありきたりな出来事がきっかけで始まった。

中国共産党の総書記にまでなりながら、政治経済改革を主張して失脚した胡耀邦氏が、この年の4月に急死した。それが引き金となったのだ。

学生を中心に、前総書記の死を悼む声が巷にあふれ、それがたちまち、胡氏の名誉回復を求める大規模な街頭デモにつながった。学生を中心にした抗議行動は、胡氏の遺志を尊重し功績を称える手段として、報道の自由や集会の自由、汚職打倒など、幅広い改革を要求した。

Protesters on Tiananmen in 1989

画像提供, Reuters

画像説明, 抗議運動にどう対応すべきかをめぐり、中国共産党内の意見は割れた

北京では最大100万人が天安門広場に流れ込み、たくさんの旗をはためかせ、色とりどりの横断幕を掲げ、テントを立て、首都の政治的心臓にある巨大な公共の場を占領した。

当時は東欧でもすでに変化の風が吹き始めていた。そしてこれも奇遇だったが、抗議が展開されている最中の5月半ば、ソ連のミハイル・ゴルバチョフ書記長が30年来初の中ソ首脳会談のために北京を訪れたのだ。

中国の指導部にとって、そしてそのお膝元で抗議を続ける市民にとって、とてつもない歴史的瞬間の瀬戸際で国は揺れ動いているように思えた時期だった。そして中国共産党は、何が最善の対応なのかを決めかねて、割れていた。

最終的に勝ったのは、党内の強硬派だった。

6月3日の深夜から翌朝にかけて、本格的な武力攻撃が広場で展開された。戦車と兵士の隊列が進軍し、抗議集会に実弾を浴びせ続けた。

天安門広場に至る道路では、各所の交差点で市民が軍の隊列を止めようと立ちはだかり、一斉射撃によってなぎ倒された。

中には、上に書いた観光客の目撃談にもあるように、素手で反撃した人たちもいる。デモ参加者の投げる火炎瓶で、数台の装甲車が炎上したという情報もある。

A burning APC on 4 June 1989 near Tiananmen Square

画像提供, Getty Images

画像説明, 天安門広場の近くで燃える装甲兵員輸送車(1989年6月4日)

今となっては、政府による隠ぺいと検閲のため、あの夜に何人が死亡したのか知るのは不可能だ。死傷者の公式人数は一度も公表されたことがない。

現場にいた外国人記者の多くは、市内の病院を訪れて取材している。その様々な話を総合すると、死者数は数百人から2000~3000人という数字が浮かび上がる。

一方で、事件の渦中に書かれた当時の外交文書は、「少なくとも1万人」という遥かに高い数字を挙げている。

犠牲者の人数には諸説あるが、議論の余地がないことがひとつある。国を守るための軍隊が、自国の首都において侵略軍となった瞬間は決定的な転機だった。そして、あの瞬間に訪れた変化は今も、言葉にならない無数の形で、現代の中国を決定づけている。

「タンクマン」

30年間続いてきた中国の検閲の威力を何よりも表すのが、「タンクマン」かもしれない。戦車の前に立ちはだかった男性のことだ。

武力弾圧の翌日、6月5日に戦車の隊列が天安門広場を離れようとしていた。犠牲者が特に集中した長安街を通って。

この時に撮影された映像には、たった1人の男性が先頭の戦車の前に立つ姿が映っている。男性は、戦車が迂回しようとするたびに自分も横に動いてその進路を阻んだ。

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白いシャツと黒いズボン姿で2つの買い物袋を提げたこの男性は、やがて戦車によじ登り、砲塔から戦車内をのぞき込み、兵士に抗議しようとする。

専制的な抑圧と、それに立ちはだかる、決して枯れることのない反骨精神。両者が真正面から相対する図式だった。中国の外の世界にとってはこのあまりに象徴的な映像が、天安門広場とその周辺で起きたことを何よりも象徴するものとなった。

戦車の指揮官が、国際メディアの長距離レンズが一部始終を撮影していると承知していたはずもない。それだけに、指揮官は一定の自制心を発揮したではないかという指摘もある。

国外では「タンクマン」、「戦車の男」と呼ばれるようになった男性は、撃たれもせず、ひき殺されもしなかった。しかしやがては、はがいじめにされ、強制的に戦車の前から排除された。男性がその後どうなったのかは、いまだに明らかになっていない。

しかし中国においては、男性が戦車に立ちはだかるこの映像は、世間の意識の上から消し去られた。

非人道的な犯罪

現在の天安門広場は、1989年の映像記録と比べてもあまり変わっていないように見える。

毛沢東総書記の肖像画は、今も広場の中心に誇らしく掲げられている。しみひとつなく穏やかにほほ笑むその顔は、自分に卵と塗料を投げつけた3人を責め続けているようにも見える。3人は「反革命」の罪に問われ、20年もの禁錮刑を受ける羽目になった。

動画説明, 天安門への帰還 30年前の学生が振り返る

しかし、広場を出れば、国としての中国はこの30年でとてつもなく変化した。

中国がますます経済的に豊かになり、政治力をつければつけるほど、過去の暗い出来事をひた隠しにしてきた中国政府のやり方が、究極的には勝つのだろうかと、そんな気にさせられる。この記事を含め、隠ぺいされた暗い過去はそれでも大事なのだと、大量の報道がどれほど主張し続けようとも。

鮑彤(バオ・トン)氏は、1989年の政治動乱の最前線にいた、中国共産党の元高官だ。

しかし、天安門広場で抗議する市民を支持した結果、逮捕され、7年間を独房で過ごした。今では中国で最も著名な反政府活動家の1人だ。

Bao Tong
画像説明, 中国政府は1989年の出来事を話題にすることを認めるべきだと、鮑氏は言う

鮑氏は言う。「30年もの間、中国の指導者全員が、6月4日の非人道的な犯罪を進んで支持してきた。このことは気がかりだ」。

今の中国があるのは、あの時に民主化運動を鎮圧したおかげだという考えについて、鮑氏はこう言う。「(中国共産党は天安門事件を)貴重な教訓とみなしている。国の台頭を可能にした魔法の技だったかのように。今の成功は、鎮圧のおかげだと認識している」のだと。

「中国共産党は、(天安門事件を)人が話題にするのを認めるべきだ。被害者、目撃者、外国人、当時あの場所にいた記者たちに。全員がそれぞれ知っていることを発言するのを認め、真実を割り出すのを許すべきだ」

この望みがいかにむなしいものかを証明するかのように、常時監視され尾行されている鮑氏は我々が訪問した後、外国メディアの取材を今後一切受けてはならないと当局の警告を受けた。

しかし、あの時の民主化運動の要求に政府が耳を傾けていたなら、中国の未来は豊かなものになっただけでなく、今よりもバランスのとれた公平なものになっていたはずだと、鮑氏は確信している。

「巨大なグレートファイアウォールなどない、特権階級のない中国が見える。億万長者は残念ながら今より少ないかもしれないが、少なくとも貧しい出稼ぎ労働者は大都市から追い出されることもなく、自由に暮らすことができていただろう。中国は外国の技術を盗む必要もなかったはずだ」

何はなくとも力を

30年前の天安門広場には、真の変化がついにやってきたと大勢が信じた期待感があふれていた。しかし実際にはそれとは裏腹に、結果的には中国の政治改革を何十年も後退させてしまったかもしれない。それが何よりも皮肉だ。

あからさまな革命を求めていた学生は、ほとんどいなかった。学生たちは内部対立を繰り広げ、自分たちも独裁的な傾向を見せていた。彼らは優秀なリーダーにはならなかっただろう。

それでも中国共産党の強硬派は、学生たちが求めた限定的な法治主義と民主的改革を受け入れようものなら、自分たちの絶対的な独裁体制が終わってしまうと恐れた。

民主化要求の抗議が起こらなかったら、改革派の幹部たちを沈黙、粛清、投獄しなかったら、果たして中国は台湾や韓国など、当時すでに独裁体制から徐々に手続きを踏んで民主化へと移行しつつあった他のアジア諸国と似た道をたどったのだろうか。

中国ではこのようなことを考えることもできない。上の世代は記憶することを禁止され、若い世代は知ることさえ許されない。

代わりに、当時の決定が今も厳然と国を支配している。党が全権を掌握し続けるし、その威力を国民運動が揺るがそうとするなど、そんな事態はもう二度と許さないのだという、30年前の決定が。

そして、あれから30年たった今、中国の一大「忘却」事業は、相変わらず強力にまい進を続けている。