日本での公開は、9月18日から始まった。
撮影:三ツ村崇志
9月に上映が開始された、クリストファー・ノーラン監督の最新作「TENET」。
物語の「検証」のために「テネる」(映画をリピートする)人が続出した。
以下、ネタバレを交えながら、書籍『時間とはなんだろう』の著者、物理学者の慶應義塾大学・松浦壮教授とともに、「時間」の謎について、5つのポイントで考えていこう。
1. 本来、時間には「方向がない」!?
TENETのストーリーが難解と言われる原因の一つは、作中で「時の流れが正常な世界」と「時の流れが逆転(時間逆行)した世界」が混在していることによって生じる、ストーリーの複雑さにある。
作中で描かれる、後ろ向きに進む車や人、拳銃の弾倉に戻っていく弾丸(逆行弾)など、時間逆行した世界の描写は、私たちに摩訶不思議な体験を与えてくれる。その先にあるのは、「時間とは何か?」という深淵な問いだ。
「TENETはタイムマシン物ではなく、『時間逆行』なんですよね。部分的に逆行しているというところが新しいところ。あれが不自然にうつるんです」(松浦教授)
時間が逆行すると不自然に感じるのは当たり前、と思う人は多いかもしれない。でも、現実には、そう見えないシチュエーションも存在する。まず、次の動画を見て欲しい。
鉄球が転がっていくだけの動画、この動きに、特別に違和感を感じる人は少ないだろう。この動画は、右から左に転がる鉄球の映像を「逆再生」、つまり「時間逆行」させたものだ。
しかし、TENETの映像とは異なり、特に不自然には見えない。この違いは何なのか。
松浦教授は、この違いについて考える上でのポイントをこう説明する。
「本来、時間には方向がないんです。だから、物理学の理論は、時間を逆転させても基本的に成立します」
基本的に、物体の動きは、何らかの「物理法則」によって決まっている。
あらゆる現象は、物理法則によって支配されている。
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例えば、鉄球の動画は、一定の速度で左から右に転がっているように見えた。もう少し、物理っぽく言うと、「等速直線運動」に見えたということだ。
ただし、鉄球が左から右に転がっているように見えようが、右から左に転がっているように見えようが、一定の速度で移動していれば、どちらも等速直線運動に見える。つまり、物理法則だけを考えると、逆再生したときの動きが、時間が逆転していない場合の運動と一致してしまうのだ。
だからこそ、鉄球の動画は、逆再生しているにも関わらず「自然」に見えているわけだ。
これはつまり、「基本的な物理法則の通りに動く物体を見ただけでは、時間の流れる方向を判別することができない」ということでもある。
では、TENETの世界のような、逆再生特有の「不自然さ」は何によって生み出されているのか。
「自然と不自然。この鍵を握るのが『エントロピー』です」(松浦教授)
エントロピーは、TENETでもキーワードの1つとなっている物理学の専門用語だ。そして何より、時間を理解する上で、欠かせない概念でもある。
2. 「エントロピーは増大する」ってどういう意味?
コーヒーの中に入れたミルクは、自然と広がっていく。これは、ばらばらに混ざったほうが、エントロピーが大きな状態であるためだ。
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「エントロピーとは、大雑把に言うと『ばらばら』の度合いをあらわす量です。どんな現象も、エントロピーが大きくなるように変化しています」(松浦教授)
例えば、コーヒーの中にミルクを入れて放っておくだけでも、自然とミルクはコーヒー全体に広がっていく。時間はかかるが、コーヒーの粒子の間に、ミルクの粒子がばらばらに広がっていくというわけだ。
この様子を逆再生すると、鉄球の逆再生動画とは異なり、途端に不自然に見える。
実は、自然界は、このように物事のエントロピーが増大する現象にあふれている。というよりも、あらゆる現象は、エントロピーが増大する方向に自然と変化しているといえるのだ。
私たちはよく、時間という絶対的な流れが存在し、その流れの中で、さまざまな出来事が起こっていると考えがちだ。
しかし、実際にはエントロピー(ばらばら加減)が増大するような変化を見て初めて、過去から未来への時間の流れを感じ取っているといえる。
だからこそ、エントロピーが増加する現象を「自然」に感じ、一方でTENETの作中で表現されている「逆行する銃弾」や「破壊された状態から元通りになる建物」など、エントロピーが減少するような現象が逆再生しているように感じるわけだ。
ちなみに、私たちの住む家の中にはエントロピーを減少させる装置が存在する。
エアコンだ。
エアコンは、時間逆行装置なのだろうか?
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例えば、夏にエアコンで室内の温度を外よりも低く設定したとする。
エアコンを動かさなければ、室内の温度は外気の温度にどんどん近づいていく。これはエントロピーが増大していくことに相当する。
エアコンは、室内の熱を外に排出する装置だ。これは、エネルギーを消費することで、無理やり室内の空気のエントロピーを減少させていると言い換えることができる。
「室内の『温度だけ』を見ると、時間が逆行していると言えるかもしれません」(松浦教授)
3. 時間逆行をしても、因果関係は崩壊しない
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TENETでは、時間を逆行させる装置「回転ドア」が物語の重要な鍵を握る。
作中では、この装置を通過することで、時間の流れが逆転した世界へと行くことができるのだ。時間の流れが逆転した世界では、周囲の様子は、どんどんエントロピーが減少してくように見える。
一方で、松浦教授は次のように話す。
「非常に面白いのですが、時間軸を逆転させているときに、時間逆行をしている人が起こす現象は(過去に向かって)エントロピーを増大させているんです」
つまり、時間が逆行している世界にいる人が拳銃を打てば、銃弾は拳銃を撃った人から見れば通常通り撃ち込まれるし、コーヒーにミルクを入れれば、自然と混ざり合っていくのだ。
TENETでは、登場人物が「順行世界」と「逆行世界」を行き来しながら物語が進んでいく。これにより、逆行弾やばらばらになっていた建物が崩壊している状態から元通りに戻る不自然な現象など、一見、因果関係が逆転しているように見えるシーンがいくつも存在する。
TENETの中では、こういった弾痕を見て「未来で銃撃戦があったこと」を知って危機を回避するシーンも。
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しかしこういったシーンは、あくまでも「逆行世界の現象を、順行世界から見たとき」にそう見えているだけだ。それぞれの時間の流れの世界で考えてみると、冷静に考えれば、物事の「因果関係」は一切崩壊していない。
ただ、やっかいなのが、順行世界の人物と逆行世界の人物が関わる瞬間だ。
「例えば、物語の中で、主人公が時間が逆転した世界にいるときに、腕に痛みを訴えるシーンがありました。あの怪我は、未来から過去に向かっている最中に、過去から未来に向かっている人からつけられた怪我です」(松浦教授)
順行世界の人につけられた傷は、時間の経過と共に治っていく。
しかし、主人公はそのとき、未来から過去に時間をさかのぼっていたため、
「怪我が治った(何もない)状態から痛みを感じ始め。怪我をした瞬間に近づいていくにつれて傷が悪化していきました。そして、怪我をした瞬間よりも過去にまでさかのぼると、全く傷を負っていない状態になります」(松浦教授)
4. 「時間逆行する粒子」は実在する
原子は、中性子と陽子からなる原子核と、その周囲をまわる電子でできている。陽子や中性子は、それぞれ3つのクォークという素粒子からなる。電子はそれ自体が素粒子だ。素粒子には、必ずペアとなる反粒子が存在する。
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現実的に、私達が時間を逆行することは難しい。一方で、スケールを小さくしていくと、実際に時間を逆行する粒子は存在する。
それがいわゆる、「反物質」だ。
作中でも、反物質の一種として「陽電子」の名前が挙がっていた。
「陽電子とは、電子の『反物質』です。反物質とは、既存の粒子とはほとんど同じ性質を持っているにも関わらず、電気的な性質が逆になっている粒子です。どんな素粒子にも、反物質は存在します」(松浦教授)
そして実は、こういった反物質は、通常の物質の時間逆行粒子だと考えられている。つまり、「陽電子は、時間をさかのぼっている『電子』」なのだ。
この反物質は、通常の粒子と遭遇すると大量のエネルギーと光を放出して消滅する。これがいわゆる「対消滅」だ。作中では、主人公に対して「時間が逆転している最中に、『自分自身に出会うと、対消滅する』」と警告がなされていた。
「TENETの世界では、人間を素粒子として見ているのではないでしょうか。つまり、時間を逆転させる『回転装置』は、自分自身を『反物質』に変換する装置なのかもしれません」(松浦教授)
では仮に、主人公が自分自身に出会い、対消滅してしまった場合、何が起きるのか?
「逆行世界にいる中で、順行世界の自分が出会ってしまうと、対消滅が起きてしまいます。
対消滅を起こすには、逆行世界で未来から過去にさかのぼる自分が存在しなければなりません。そのためには、順行世界の未来で回転ドアに入る自分も存在しなければなりません」
対消滅が生じる原因として必要になる要素は、この2つだ。
この要素を満たすようにしようと考えると、実に奇妙な仮説が成り立つ。順行世界にいる第三者がこの対消滅の様子を見たときに、「何もないところから、逆行する主人公と順行する主人公が突然出現(対生成)し、未来で回転ドアに入り消滅(対消滅)する」という現象が起きていることになる。
「順行世界の『過去』が消滅しなければいけないんです。対生成前の記憶は、ただの記憶であり、実際には存在しない。実はフェイクだったという話になるかもしれません」(松浦教授)
5. 宇宙が誕生した「138億年前」の世界には何がある?
宇宙は、誕生直後から今まで、ずっと膨張し続けてきた。時間をさかのぼっていけばいくほど、宇宙は徐々に収縮し、いずれ1点に収束する。これが、約138億年前、宇宙誕生の瞬間だと考えられている。
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ところで、仮にTENETの世界のように時間が逆転できたとして、私たちはどこまで時間をさかのぼることができるのだろうか。
この宇宙は、約138億年前に誕生したと考えられている。では、138億年前よりも前には、いったい何が存在するのだろうか?
「普通の人は、時間は常に流れているものであると感じているかもしれませんが、ずっと過去にさかのぼっていったとき、宇宙が誕生する瞬間よりも『前』には、時間は存在しないと考えられています。
時間も空間も物質も、宇宙が誕生した際に生まれたんです。そのため、宇宙の誕生時は、時間なのか、物質なのか、空間なのか、区別ができない世界があったといえます」(松浦教授)
TENETには、エンターテイメントとして成立させるために、物理学的に見るとおかしな点も当然存在する。
しかしそれ以上に、作中の描写の端々から、時間にまつわる深遠な問いかけをいくつも提示してくれる。いわば「ネタの宝庫」だ。
TENETのヒットは、間違いない多くの人を物理学の「入口」へと誘った。
私たちがそこで感じた不自然さ、そして、それに対して感じた好奇心は、まさに物理学の深淵の一端なのではないだろうか。
取材の最後に、「結局、時間とは一体なんなのでしょうか」と松浦教授に尋ねると、こんな答えが返ってきた。
「物理的に、時間はあくまでもパラメーターの1つにしか過ぎません。それが順方向に進もうが、逆方向に進もうが、気にしません」
(文・三ツ村崇志)