サッカー元日本代表で横浜F・マリノスなどでプレーした松田直樹さんが練習中の事故で命を落としてから10年。
サッカーへの思い、そしてAED普及の活動は共にプレーした仲間たちへと受け継がれている。
突然の知らせ。そして…
「マツくんがやばい」
かつて横浜F・マリノスで松田直樹さんと共にプレーし、当時はFC東京の中心的選手だった石川直宏さんは2011年8月、突然の知らせに愕然とした。
石川さんの弟・扶さんは当時、松田さんが所属する松本山雅のGKだった。扶さんから電話で詳しい状況を聞いた弟の言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
自分にとって恩人である松田さんが、松本山雅での練習中に突然、倒れたという。いてもたってもいられず、石川さんは松本に向かった。
病院へ到着する前に、松田さんの意識がないことは聞いていた。
それでも、ディフェンダーとして数々の強敵に競り勝ってきた松田さんの身体に様々な管がつながる様子を見て、改めて現実を突きつけられた。
翌日、松田さんは息を引き取った。
「FC東京ではチームの顔としてプレーできるんじゃないか」
「めちゃくちゃ怖い人だな」
初対面の印象は最悪だった。
当時、横浜F・マリノスのユースに所属し、プレーしていた石川直宏さんはサテライトリーグの試合で初めて松田さんと一緒にプレーした。
当時、トップチームの中心的存在でアトランタオリンピック日本代表でも活躍していた松田さん。この日はケガの調整のために、サテライトリーグの試合に出場していた。
2000年にトップチームに昇格を果たし、一緒にプレーをするとその印象が大きく変わった。
「確かに練習では激しくぶつかり合うこともありますが、ピッチを離れれば、すごく面倒見も良い。食事にも連れて行ってくれたり、とにかく頼れる先輩でした」
2003年、石川さんは横浜F・マリノスを離れ、期限付き移籍先でもあったFC東京でプレーし続けることを選んだ。
この決断の背景には、松田さんのある言葉があった。
FC東京では中心的な役割を期待されていた。プレーも好調で不満はない。このまま、このチームにとどまるか。それとも、横浜F・マリノスへ戻るか。石川さんは迷っていた。
松田さんへ相談すると、こんな言葉が返ってきたという。
「正直、帰ってきてほしいという思いもあるけど、今のマリノスで中心になってやれるかって言ったら、まだそこまでではないと思う。FC東京は成長途中のチーム。その中心で、チームの顔としてプレーできるんじゃないか」
キャリアを大きく左右する選択。石川さんは、この言葉を胸にFC東京への完全移籍を決めた。
「甘えてるんじゃねえ」頭の中で聞こえたエール
松田さんの死後、石川さん自身も年齢を重ねる中で、「マツくんだったら、どう考えるかな」と頭の中で考えることが増えていった。
そんな中、石川さんはキャリアの終盤、再び松田さんに背中を押されたと言う。
2015年8月2日、ドイツのフランクフルトで開催された親善試合で石川さんは左膝の前十字靭帯を損傷した。
前年は腰のケガでほとんどピッチに立つことができていなかっただけに、石川さんの心は折れかけた。
「自分の中では、右膝の前十字も一度切ったことがあったので、リハビリの大変さを知っていました。それに、ようやくパフォーマンスが上がってきたというタイミングでのケガだったので、また手術をして、リハビリをして…という繰り返しはしんどいなと」
ドイツで医師の診察を受けた際には、どれほどの期間の治療が必要になるかわからないと宣告された。
日本へ帰国した日は松田さんの命日でもある8月4日。羽田空港国際線ターミナルに着くやいなや、その暑さに4年前にこの世を去った先輩の姿を思い出した。
「そういえば、4年前のあの日もこんな暑い日だったなって。その時、もしもマツくんだったらどうするんだろうと、考えたんです。引退するのか、それとも手術をして、もう一回復活しようと頑張るのか」
「最後は練習中のグランドで倒れてしまったけど、マツくんは、サッカーが大好きだった。マツくんに『お前、甘えてるんじゃねえ』って言われる気がしました。そんなことを考えて、もう手術をして、リバビリをするしかないと決めました」
リハビリは2年半にも及んだ。
2017年12月、石川さんは怪我からようやく復帰したものの、それが現役最後の試合となった。
「マツくんは、自分の中の信念を貫く人でした。本当に唯一無二。やっぱりもう、ああいう人は出てこないんじゃないですか。あの人を超えようと、ずっと頑張ってきたけど、結局超えられませんでした」
同じ日に生まれた「親友」の思い
マリノスでともにプレーし、同じ1977年3月14日に生まれた親友・吉田孝行さんは今、J2のV・ファーレン長崎でコーチを務めている。
吉田孝行さんはU-17日本代表の合宿で松田さんと出会った。横浜フリューゲルスがマリノスに吸収合併されて横浜・Fマリノスとなったことで、チームメイトになった。誕生日も松田さんと同じ1977年3月14日だ。
「最初に出会った頃はお互い子どもでしたからね。でも、マツのその時の印象とプロになってからの印象ってあんまり変わっていないんですよ」
「とにかく熱い男。それにファッションもおしゃれで。大人になってからも、本当にそのまま。子どものまま大きくなったような感じでした」
2011年8月2日、当時ヴィッセル神戸に所属していた吉田さんのもとに、松田さんが倒れたというニュースが飛び込んできた。
事故が起きたのは、所属するJFL・松本山雅FCの練習中。松田さんはすぐに信州大学附属病院へ搬送された。
すぐにでも、病院へ駆けつけたいと思ったが、週末の試合を控え、翌日には練習も入っていた。
「大丈夫?」何度も関係者と連絡を取り合いながら、松田さんの身を案じ続けた。
チームの許可がおり、ようやく4日に松本へ向かった。松田さんの訃報が届いたのは、その道中のことだ。
同じ日に生まれた親友は、34歳の若さでこの世を去った。
病院に到着すると、報道陣が待ち受けていた。
病院の滞在時間は約30分。亡くなったばかりの松田さんに対面し、すぐに神戸への帰路についた。
当時を振り返り、吉田さんはつぶやく。
「マツの顔を見たとき、笑顔で、眠っているような表情だったことを今でもはっきり覚えています」
「コンディションは最悪」それでも決めた2ゴール
松田さんが亡くなった2日後、吉田さんは浦和レッズとの試合に出場した。
「あの日の試合のことは忘れられません。正直、コンディションは最悪でした。ずっとマツのことを考えていて落ち着かなかったですし」
「でも、マツが若くして亡くなったことに対する悔しさと、現実を受け入れられない気持ちが胸の中にある中で、まずは無心でただただサッカーをプレーしようと決めました」
試合開始から14分後、吉田さんはボレーシュートをゴールに決める。得点後、腕に巻いた喪章を天に掲げた。
さらにその5分後にも、再び得点。指で松田さんの背番号「3」を形作り、2点目も松田さんにささげた。
2013年に現役を引退するまで、「マツの分も頑張らないといけない」と自分に言い聞かせてきた。
今頃は生きていたら…
「お前ら負けてるんだろ! 攻めて来いよ! 」
ある日のアウェー戦、松田さんが相手選手たちにこう叫ぶ姿が、今でも脳裏に浮かぶ。
松田さんはとにかくサッカーが好きだった。
もしも、松田さんが生きていたら、今年で44歳になる。
「あれだけサッカーが好きな男だったので、もしかすると今もどこかで現役を続けていたかもしれませんね」
吉田さんはヴィッセル神戸やV・ファーレン長崎で監督を経験し、いまはV・ファーレン長崎のコーチだ。
クラブは練習でも必ず、AEDを準備している。
もう2度と、松田さんを襲った悲劇を繰り返さない。AEDはJリーグの現場に根付いている。
AEDの利用率は現在、5.1%。私たち一人ひとりがAEDについてしっかりと知り、何かが起きた時に使えるよう準備をするだけで救える命が増えます。
松田直樹さんの死から10年。BuzzFeedではこの夏、改めてAEDの重要性を伝える記事を配信します。