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砂丘の行方 中田島の変容 第2部 佐久間ダム<中> 

2020年6月17日 05時00分 (6月17日 10時02分更新)

◆潤う地元 水害の副作用

戦後約10年で完成した佐久間ダム=浜松市天竜区で、本社ヘリ「おおづる」から

 灰色の巨大な滑り台を思わせる、高さ約百五十五メートルのコンクリートの堤が、戦後間もなくの巨大事業を今に伝える。
 水力で発電する佐久間ダムの着工は、白黒テレビが発売された一九五三年。翌年から日本は「神武景気」に入る。高まる電力需要をまかなうため国策会社の電源開発(Jパワー)が建設した日本のダムの金字塔だ。
 コンクリート用の砂利や砂が豊富に入手できることや、首都圏に近いことなどから、天竜川が選ばれた。ブルドーザーなど最新の米製重機が低音を響かせ、労働者も大量動員された。
 「宿屋が増えて、料理旅館からはいつも三味線の音がしていた」。ダム近くの浜松市天竜区佐久間町浦川地区に暮らす広野勝也さん(75)が記憶を呼び起こす。小学校の児童が増え、山あいの町は大いににぎわい、三年という短期間で五六年に完成した。
 さらに二年後、佐久間ダムの二十キロ下流に秋葉ダム(同区龍山町)もできる。佐久間ダムが電力需給に応じて発電に使う水の量を増減させることで、天竜川下流の水位が変動するのを抑えるためのダムだ。
 佐久間ダムが造られる前、浦川地区は台風や大雨になると、天竜川の支流の大千瀬川がたびたび洪水を起こした。
 「佐久間ダムができたことで“暴れ天竜”の流れが弱くなった」。そう感じていた広野さんだったが、完成から九年後の六五年九月、台風24号により、大千瀬川が氾濫する大水害に襲われた。佐久間ダムが放流した水が秋葉ダムにせき止められて行き場を失い、大千瀬川に逆流した結果だった。広野さんの実家の文房具店は茶色の水に漬かり、プールのようだった。水に潜り手提げ金庫を引き上げた。
 九歳だった近所の笹野訓子さん(63)は生後半年の妹を負ぶり高台に走った。水は自宅一階の天井に届き、二階にとどまった母は念仏を唱え水が引くのを待つしかなかった。
 Jパワーの「電発三十年史」には「佐久間ダムの功績(中略)…それは戦後、萎縮していた日本人に自信を与えたことである」と記されている。高度経済成長に果たした役割は大きい。だが、ダムの地元では副作用のような水害に襲われた。大千瀬川の改修などで次第に水害は減った。
 浦川地区の水害から四十年以上がたった二〇〇九年度、国は、治水の問題とダム湖に堆積する大量の土砂対策を合わせた「天竜川ダム再編事業」を打ち出した。治水ではJパワーに対し、「豪雨時の洪水を防ぐため、佐久間ダムを満杯にせず、総貯水量の約16%に当たる五千四百万立方メートルを空けてほしい」と要望。発電量に影響が出るため、補償金も提示した。
 Jパワーとの治水の協議は今も続き、十年以上、表だった進展はない。土砂対策では今春、ようやく一つの動きがあった。

 <1965年などの洪水被害> 65年9月の台風24号では北遠地方は370ミリを記録。旧龍山村(現・浜松市天竜区)で一家5人が生き埋めとなり、遺体で見つかった。長野県側では2人が死亡し、半壊・床上浸水は静岡、愛知の両県で計782戸。68年8月の台風10号では飯田線の鉄橋が流出。旧佐久間町(同)の浦川地区で家屋流出2戸、床上浸水340戸。同年9月、被災住民による「浦川洪水対策同盟」が秋葉ダム即時撤去の要請を決議した、と地元に残る資料に記載がある。


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