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【石川 砂丘の記憶】㊥「思いを凝縮 かぞえ唄」

2023年10月5日 05時05分 (10月6日 17時13分更新)
「内灘かぞえ唄」への思いを語る大丸文枝さん=石川県内灘町大根布で(栗田啓右撮影)

「内灘かぞえ唄」への思いを語る大丸文枝さん=石川県内灘町大根布で(栗田啓右撮影)

  • 「内灘かぞえ唄」への思いを語る大丸文枝さん=石川県内灘町大根布で(栗田啓右撮影)
  • 今年6月の内灘闘争70年記念事業で、内灘かぞえ唄を大勢の前で披露する大丸文枝さん(中央)ら=内灘町で

「苦労のたまもの」後で実感

 内灘闘争の中で生まれた歌がある。その一つが「内灘かぞえ唄」。闘争体験者の中で今もかぞえ唄を覚えているのが大丸文枝さん(85)=石川県内灘町大根布。6月に同町で開かれた内灘闘争70年記念事業で大勢の前で披露した。
 闘争当時、中学3年生だった大丸さん。学校からは座り込みに参加してはいけないと言われた。だが「お姉さんたちから歌を教えてもらえる」と、ほぼ毎日通っていた。「当時は深く意味も考えず、遊びに行く感覚だった」。お姉さんがどういう立場の人だったのかは分かっていなかったが、アコーディオンの演奏に合わせ、いろんな歌を教えてもらった。
 内灘かぞえ唄はその一つ。大丸さんによると、歌詞の「七つ中山あやまらせ」は、実は当初「七つ何でもやり抜く」だった。政府がいきなり閣議で決めた試射場の永久接収方針を阻止できなかった当時の内灘村長への反感の気持ちから、歌詞が変わったという。「ホヤホーヤ」はそうだそうだという意味。
 闘争が終わってからも、大丸さんはかぞえ唄を忘れることなく、心の中で口ずさんできた。子どもの頃はただ歌っていたが、大人になって発展する内灘で生活を続けるにつれ、かぞえ唄の存在意義が分かってきた。「唄は当時苦労してきた人たちのたまもの。あの時は何でみんな座り込みとかに真剣なのかなと思っていたけど」。土地を守ろうと必死だった闘争の全容が、歌詞に詰め込まれていた。
 6月の闘争70年記念事業で、かぞえ唄の歌唱の依頼を受けた。10年ほど前に地元ラジオ局が制作した内灘闘争のドキュメンタリー番組の中で歌ったことはあるが、これまでステージで披露したことはなく、最初は断った。だが、闘争体験者で歌える人がほとんどいなくなった現状に思いを巡らせ、引き受けることにした。
 当日は地元のコーラスサークルの人たちと一緒に、200人を超す人の前で歌った。「歌いながら当時座り込みをしていたおじちゃんやおばちゃんたちの顔が思い浮かんだ」と大丸さん。披露後、会場にいた人からは、亡くなった両親のいい供養になったと声をかけられた。「まさか歌う機会がまたあるとは思っていなかった。歌って良かったです」
 2010年には、内灘高校の当時の軽音楽同好会の生徒たちが、かぞえ唄をロック調にアレンジしたことが話題になった。音楽は歴史を伝える手段にもなる。大丸さんは「闘争体験者は減っているが、今の若い人たちにも、かぞえ唄を知ってもらえたら。消えることなく皆さんに歌い継がれてほしい」と願っている。 (栗田啓右)

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