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平和学習めぐりコース

ページID:0015614 更新日:2023年5月15日更新 印刷ページ表示

真栄里アミヤ原の特攻艇掩体壕 <所要時間目安:3分>

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「小型の特攻艇を格納するための掩体壕」

中央図書館北側を東西にのびる丘陵の崖下には掘り込んで造った奥行き約20メートルの壕がいくつか確認できる。これは、敵艦船に接近し爆雷を投下する任務を負った小型の特攻艇を格納するための掩体壕である。舟を浜まで運ぶのは防衛隊員の任務で、レールのあるところはトロッコに載せて運び、レールのないところでは十名程の防衛隊員が担いで運んだ。

白梅之塔 <所要時間目安:5分>

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「県立第二高等女学校の生徒たちを祀る慰霊の塔」

県立第二高等女学校の生徒・教職員・同窓生を祀る。生徒たちは八重瀬岳にあった第24師団第一野戦病院に配属され、負傷兵の看護にあたった。白梅之塔には学校関係者149人が合祀されている。

バックナー中将戦死之跡 <所要時間目安:5分>

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「バックナー中将が戦死した場所」

米第十軍司令官サイモン・B・バックナー中将は戦闘指揮中にこの地で戦死した。これは2013年現在に至るまで、アメリカ軍史上において最高位の階級で戦死した事例である。米軍の手により記念碑が建立されたが、キャンプフォスターに移設されたため、1975年6月に沖縄県慰霊奉賛会により現在の碑が建立された。

轟壕 <所要時間目安:15分>

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「沖縄県庁最後の地」

全長約100mの東西に延びる自然壕。壕内を川が流れる。名城の住民や他地域からの避難民が隠れていた。6月下旬に島田叡知事以下の県庁職員幹部が避難し、沖縄県庁最後の地とも言われている。18日ごろ米軍が壕を攻撃するが、日本兵は住民の脱出を許可しなかった。

喜屋武岬 <所要時間目安:15分>

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「沖縄本島最南端の岬」

沖縄方言で「きゃん」とは「極み、突端」の意味で、最南端の岬という意味で喜屋武岬と呼ばれた。付近の海岸は断崖絶壁で眺望は抜群で、180度のパノラマで青い海を望め、水平線が丸くカーブを描いている様子を見ることが出来る。

ひめゆり学徒散華の跡 <所要時間目安:20分>

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「逃げ場を失った学徒たちが自決した場所」

南へ南へ逃げ場を失った住民は弾雨の中海岸地帯へと追い詰められた。この中に一部のひめゆり学徒もいた。6月21日平良松四朗教諭引率の学徒らは突然米兵に自動小銃で攻撃され、混乱の中手榴弾で自決し、10名が命を絶った。現在この場所には「ひめゆり学徒散華の跡」の碑が立っている。

沖縄県平和創造の森公園祭記念公園 <所要時間目安:30分>

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「緑いっぱいで散策にぴったりの公園」

沖縄県平和創造の森公園は、第44回全国植樹祭の開催意義である「平和で緑豊かな環境を創り、次の世代へ引き継ぐこと」を目的に、平成10年4月に開園した。広い園内には、いろいろな施設や広場があり、東シナ海と太平洋を一望できるロケーションに恵まれた公園である。

沖縄陸軍病院之塔 <所要時間目安:5分>

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「沖縄陸軍病院の関係者を祀った慰霊の塔」

沖縄戦末期の5月下旬に山城集落の東側に位置する壕、サキアブに陸軍病院の本部の勤務者が撤退し、ここで負傷兵の治療にあたったことから陸軍病院本部壕とも呼ばれる。

ひめゆり平和祈念資料館 <所要時間目安:40分>

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「ひめゆり学徒隊に関する資料館」

戦争の悲惨さや平和の大切さを後世に語り継ぐべく、1989年6月23日に開館した資料館。沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒と引率教師で構成されたひめゆり学徒隊は、6月18日に突然解散命令が出され、死亡者の内80%が6月19日をはじめとする約1週間に戦死した。資料館にはひめゆり学徒の遺品、戦前のひめゆり学徒の写真等の資料が展示されている。

平和祈念公園 <所要時間目安:120分>

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「世界の恒久平和を祈念し、平和情報を発信する場所」

平和祈念公園は本島南部の「沖縄戦終焉の地」糸満市摩文仁の丘陵を南に望み、海岸線を眺望できる台地にある。公園内には沖縄戦の写真や遺品などを展示した平和祈念資料館、沖縄戦で亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ「平和の礎」、戦没者の鎮魂と永遠の平和を祈る「平和祈念像」、そして摩文仁の丘の上には国立沖縄戦没者墓苑や府県、団体の慰霊塔が50基建立されている。

南北之塔 <所要時間目安:5分>

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「真栄平の住民によって建立された慰霊の塔」

激戦地であった真栄平では集落に散在していた身元不明の遺骨を住民が収集し、集落後方のアバタガマに納め、真栄平納骨堂と呼んだ。1966年に各世帯からの分担金と内外からの寄付金によりこの場所に「南北の塔」を建立した。

クラガー <所要時間目安:5分>

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「日本軍最後の抵抗拠点の一つとなった自然壕」

宇江城集落の西側、モクマオウの木立の中に慰霊碑「山雨の塔」が立つ。その下に自然洞穴のクラガーの出入り口がある。首里陥落後は第24師団司令部が移動してきており、宇江城一帯は日本軍最後の抵抗拠点の一つとなる。1945年6月28日、壕入り口を米軍が爆破。30日、師団長の雨宮中将がこの壕で自決。軍旗の奉焼も行われた。

萬華之塔 <所要時間目安:5分>

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「真壁の住民によって建立された慰霊の塔」

戦後に真壁地区の住民が共同作業で遺骨収集を行い、1951年に集落の北側に納骨堂を建立し、遺骨を安置した。納骨堂の中には現在も無名の戦没者が眠る。毎年6月22日に字主催の慰霊祭を開催している。