俳優生活60年「前田吟」の告白 実母に二度捨てられた孤独な幼少期、自分で飼った鶏の卵を1個7円で売っていた極貧生活とは

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 2024年にデビューから60年という、大きな節目の年を迎える俳優・前田吟(79)。誰もが気さくに「吟さん」と呼ぶが、やはり「博さん」の方がしっくりくるか。映画「男はつらいよ」で、主人公の寅さん(渥美清)の妹・さくら(倍賞千恵子)の夫である博役を、シリーズ全50作で演じた。国民的映画だけでなく、大河ドラマから高視聴率を叩き出したドラマまで、あらゆる作品で、その存在感を強く残す名バイプレイヤーである。これまでの俳優人生を振り返ってもらおうと、話を聞かせてもらった。まずは、俳優になる前、壮絶な経験を重ねた少年時代の話から――(前後編の前編)。

小学校5年生からバイトを始める

 東京・世田谷の閑静な住宅街に、前田の自宅はある。約束の時間に訪ねると、22年6月に再婚した歌手の箱崎幸子(75)と共に、笑顔で出迎えてくれた。今年3月に二人で出したデュエット「幻恋歌/凪の風景」のCDジャケットで使用した衣裳に身を包んでいる。「いいでしょ、これ?」。かなりお気に入りのようだ。

「60年になりますか。早いもんですね。おかげさまで、いまでもお仕事をいただけるのはありがたいことです」

 24年もドラマのスケジュールが入っている。オフには自宅で大好きな映画を観るのが最高の楽しみだと言う前田は、とにかく明るく陽気だ。しかし子どもの頃は、今とはまったく逆の生活を送っていたという。

「生まれは昭和19年。まだ戦争中でした。いわゆるシングルマザーの子です。それで最初は小倉在住の方の籍に入れて頂いて、その家の三男として役所に届けられたんです。でも、その3か月後には、山口県防府市の前田さんの三男としてもらわれて、それで前田になったんです。ところが養母は僕が4歳、養父は僕が中学校の1年生から2年生になる間の春休みに亡くなりました」

 養父は製材所に勤務していた。毎朝8時には家を出て、夕方に帰宅するとそのまま仲間と飲みに出かける。前田が寝ている時に家を出て、そして寝ている時に帰ってくる毎日だった。4歳で養母が亡くなってからは、ずっと一人きり。話し相手もいない。寂しくて泣いたことはもちろん、なかなか帰ってこない養父を探しに、真っ暗な夜道を30分歩いて探しにいったこともあるという。

「小学校5年生の時から自分で七輪に火を熾して、ご飯を炊いて、味噌汁や魚の煮物とか作っていました。あと豆乳やヤギの乳を配るバイトをして、新聞配達もしました。それでも、お金がなくてね…。あの頃の買い物は、すべて通い通帳ですよ。買うたびに品物を書いて、月末にその支払いをするんだけど、いつも何割か支払いが残っていて。行く度に『おい、父さんに言っておけ。今度の正月までには全額払えって!』とか言われるのがとにかく嫌でねぇ…。自分で鶏を飼って、産んだ卵を一つ7円で売っていたこともありました」

「寂しい」と感じる暇もなかった。周りも農家が多く、農繁期には学校に来ないで学業を手伝う子も多い。自分だけが惨めだと感じることもなったという。小学6年生の時、養父が倒れる。重い糖尿病を患っており、前田家の事情を知っていた担当の医師から「お父さんは長くはない。一人で生きていくことを覚悟しなさい」と言われた。

「同じころですよ。心配になったんでしょう。実母がこっそり、僕の様子を見に来たんです。でも、自分から『お前のお母さんだよ』とは名乗らない。近所の人が『あの人があなたの本当のお母さんだよ』と教えてくれました。知らず知らずのうちに、自分の境遇を理解していましたね」

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