戦後の日本で大ヒットした歌謡曲「東京ブギウギ」(1948年)。明るいメロディにのせて、大胆なダンスとともに力強く歌った歌手の笠置シヅ子(かさぎしづこ)は、「ブギの女王」として一躍スターとなりました。2023年度秋放送NHK連続テレビ小説『ブギウギ』の主人公・福来スズ子は彼女がモデルとなっています。
創刊119年目を迎えた雑誌『婦人画報』では、1946年(昭和21年)6月号で、同郷の文芸評論家・編集者の十返一(十返肇/とがえりはじめ)が笠置シヅ子の楽屋を訪問。笠置シヅ子のファンの一人として、舞台を終えたばかりの彼女の様子を綴っています。
笠置シヅ子楽屋訪問記
取材・文=十返一(十返肇)
エノケン相手に大芝居
訪問する前に、久し振りに笠置さんを見ておこうと思って折から有楽座のエノケン[*1]一座に特別出演する『舞台は廻る』を客席でみた。
『舞台は廻る』での彼女は、単に歌うだけではなく、エノケン相手に達者な芝居を見せる。生地の大阪弁を縦横に駆使にして、科白[*2]は闊達[*3]だし、何より、例によっての芸熱心には、率直に言って敬服した。
彼女に初めて会ったのは、昭和13年。まだ三笠静子という芸名だったと思うが、淡谷のり子の『別れのブルース』がヒットしたときのお祝いの会の席上であった。
その後、彼女が帝劇の舞台で、篠田賞の『紺屋高尾』[*4]を替歌にした。「あれはダイロンバーワ(編集部注:原文ママ/タイロン・パワー[*5])といういま売り出しの2枚目で」なぞという妙な歌謡浪曲をしばしば聞くに及んで、僕はすっかり彼女のファンになってしまった。替歌が僕をひきつけたのではなく、その芸熱心が僕のこころを「ドキン」とひきつけたのである。
さて、僕は舞台からうけた印象を失わない間にと思って、客席から大急ぎで楽屋を訪れた。
神経質な芸熱心
夜はバンドが進駐軍のキャバレーに出る関係上、番組が昼と逆になる。昼の部を終えたばかりの彼女は休む間もなく夜の準備をしなくてはならない。それでも彼女は、狭い楽屋でお茶をいれてくれたり、「忙中閑あり」という余裕をしめす。そして芸熱心な彼女は、今日の舞台の反省から語りはじめた。
「今日は、具合わるうてなあ」と、舞台と同じ大阪弁である。
聞けばすんでのところで手術しなければならない盲腸を「あてが神経質なんで、早よう気づきまして助かりましたのや」と言う。
医者は舞台なんかとんでもないというけれど頑張って、今日は7日目になる。そんなことでどうしても稽古が充分でない。彼女はこの稽古不足をしきりに気にしている。
それと、彼女は二度も被災したので、全財産のリュック一つと座布団2枚を持って、友人のところを居候して回っていると言う。
「こんなことも、たしかに、今度の舞台に響いていると思うんですの。それと笑うとお腹が痛いし……」
全く御同情の出来る大変なことである。
思いがけなく小さな心臓
笠置さんが、最近一番身に染みて痛感していることは、アメリカからきている「女流ジャズバンド」をみて、今更ながら、自分たち日本歌手の貧困さについてである。
「もう歌うのをやめよかと思いましたわ。みんなが進駐軍の慰問で大変でしょって言やはるけど、あれみたらとても恥ずかしゅうて、アメリカ人の前ではよう歌えません」
どうも、思いがけなく小さな心臓である。では一体、舞台でのあの大胆きわまる動きはどうしたことであろうか。
それに対して彼女は「あれは、つけマツゲにライトが反射しますやろ、それで客席が見えないからです」とおっしゃる。
「もし見えたら、恥ずかしゅうてたまりませんわ」
まことに彼女は思いがけない恥ずかしがりやである。
反省ぶり・勉強ぶり
「戦争中、私たちは本当に不勉強でした」
今日の舞台に始まった反省は、戦争中の反省にまで発展する。
「でも、何時死ぬかわからんという時にも、仕事の道だけは外すまいと一心に思うていました。私は、同じものを評判がよいからと何度も歌うイージーゴーイングは随分気ぃつけて、新作をみなさんにお願いしたものです。けどああいうときは作詞の方も作曲の方もなかなか新作は出来ず、そう君みたいに新作云々言うてもでけるかい、なんてよう叱られました」
彼女の反省ぶり、彼女の勉強ぶり、彼女は単なる芸熱心ではない。
目下のところ、彼女と淡谷のり子だけが、顧客に媚びないポーズの本当のステージ・シンガーである。ただ彼女の場合は、その誠実さゆえに余裕がなく、観客と遊ぶことを知らないと言われている。彼女をよく知る東宝のE君は、彼女について、うまいことを言っている。
「今日、彼女のモダンなジャズ訓に酔うものは、それが古めかしい大阪芸界の伝統の中に育ち、古めかしい芸道修業を10年にわたって続けてきた成果に接しているわけだ。まことに彼女のアグレッシブな歌い方が、文楽座の義太夫を請じる太夫のと同じ感じをいだかせるのは、決して偶然ではない」
なるほどと思う。
長所とそして短所
彼女は常に前進的である。彼女ほど、歌うことに対する誠実さを情熱的に表現しているステージ・シンガーは少ない。その野性的で精力的な気概のこもった歌声。そのジャズ・アップの力強さ等々。これらはたしかに彼女の長所である。しかし、人間は、ことに芸術家は短所で失敗するよりも、多くは長所で失敗するものである。
僕はさきほども言ったように、笠置さんのファンである。ファンの一つの特権として、訳のわからぬこのような注告[*6]を申し上げたい。
[*1]エノケン=喜劇俳優・榎本健一の愛称。笠置シヅ子との有楽座での舞台は連日満員を記録した。
[*2]科白(かはく)=俳優のセリフや仕草のこと。
[*3]闊達(かったつ)=度量が広く、小さな物事にこだわらない様子。
[*4]紺屋高尾(こんやたかお)=吉原を題材にした古典落語演目で浪曲の演目としても著名。大正の浪曲師、初代・篠田実の浪曲レコードが大ヒットした。
[*5]タイロン・パワー=イギリス出身のハリウッドスター
[*6]注告=相手に伝えて知らせるという意味。
※上記は原文を現代仮名づかいにあらため、送り仮名等を補った文章です。
かさぎしづこ◯1914年香川県生まれ。戦前から戦後にかけて歌手として活躍。幼少の頃より歌や踊りが上手と評判だった。その後「松竹楽劇部生徒養成所(OSK日本歌劇団の前身)」に入所。戦時中、作曲家・服部良一と出会ったことによってジャズ歌手として活動する。戦後、服部良一が作曲した「東京ブギウギ」(1948年)が大ヒットし、一世を風靡した。1985年、70歳で逝去。
とがえりはじめ○1914年香川県生まれ。文芸評論家。本名は十返一。学生時代から文芸評論を行っていたが、森永製菓に勤務後、第一書房に入社。その後、文芸評論家として、十返肇を名乗る。 著書に『「文壇」の崩壊』(講談社文芸文庫)など。妻は婦人画報社(現・ハースト婦人画報社)記者で、後に随筆家となった十返千鶴子である。1963年、49歳で逝去。
『婦人画報』1946年6月号より