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いまも身近にいる燃え盛る権力欲の化身──オペラ「アグリッピーナ」は必見だ

ニューヨーク・メトロポリタン劇場(MET)で上演されたオペラを映画館で楽しもう。7月3日から9日はヘンデルのオペラ「アグリッピーナ」が上映される!
いまも身近にいる燃え盛る権力欲の化身──オペラ「アグリッピーナ」は必見だ
Marty Sohl/The Metropolitan Opera
Marty Sohl/The Metropolitan Opera

乱れ飛ぶ権謀術数

「歴史は繰り返す」──。帝政ローマ前期の歴史家、クルティウス・ルフスの言葉だとされるが、確証はないそうだ。しかし、太古から、人間とは同じ轍を踏み続けるものだと看破されてきたことに変わりはない。最近、日本で政治と関わる女性のスキャンダルがめだつ。自身が国会議員である場合も、国の舵をとるほどの人の妻の場合もあるが、ローマ皇帝ネロの母親で、およそ2000年前に生きたアグリッピナ(15-59)の生涯を振り返ったとき、「やはり歴史は繰り返す」という思いを強くさせられる。

それにしても、帝政ローマ時代に権謀術数が乱れ飛んださまはすさまじいばかりだ。アグリッピナは父の死後、母のもとで暮らすが、最初の結婚ののち、母は第2代皇帝ティベリウスによって処刑されてしまう。その後、兄カリグラが第3代皇帝に就任した年(37年)、アグリッピナはのちの皇帝ネロを生んでいる。しばらくしてカリグラに疎まれ、妹とともに離島へ流罪になるが、その翌年(41年)、カリグラが暗殺され、父の弟クラウディウスが第4代皇帝になる。するとアグリッピナは流刑地から戻って、2度目の結婚をする(最初の結婚相手は執政官で、2度目も同様だった)。

彼女がすごいのはここからだ。2人目の夫の死後、クラウディウスの妻が放蕩を理由に自殺させられたのを機に、叔父である皇帝との、当時の法で認められなかった結婚を力づくに実現してしまった。アグリッピナは夫に取り入って、皇帝を示す最高の称号「アウグスタ」を得ると、政治に軍事に口を出したという。加えて、息子を皇帝にするための布石を敷くことに余念がなく、ネロを夫の養子にする一方で、夫の実子が孤立するように仕向けた。そして54年、皇帝クラウディウスが死ぬと、息子ネロが晴れて第5代皇帝の座に就いたのだ。ちなみに、クラウディウスの死因は毒キノコを食べたことだが、それがアグリッピナの策謀であったという説は、古代から有力である。

ただし、末路は悲惨であった。政治に介入し続けた母アグリッピナのことを、ネロ帝は次第に疎ましく思うようになった。そしてネロが妻オクタウィアと離縁し、ポッパエア・サビアと結婚しようとしたことから母子の対立は決定的になり、ついに59年、ネロは母を殺害するにいたったのだ。

さて、アグリッピナの生涯のうち、彼女の権謀術数が大当たりした時期、すなわち夫クラウディウス帝を排除し、息子ネロを帝位に就けるまでが、鮮烈な音楽とともに風刺的に描かれたオペラが、ヘンデル(1685‐1759)の「アグリッピーナ」で(ラテン語表記の「アグリッピナ」に対し、イタリア語の表記はアクセントの関係でこうなる)、これが映画館で味わえる。新型コロナウイルス感染拡大前の2月29日、NYメトロポリタン歌劇場で上演された舞台の映像が、7月3日から9日まで「METライブビューイング」として上映されるのである(東劇のみ7月16日まで)。

Marty Sohl/The Metropolitan Opera

現代化演出で感じる「歴史は繰り返す」

このオペラがヴェネツィアで初演されたのは1709年。ヘンデルの出世作だが、さすがは当時27回も連続上演されただけのことはある。枢機卿グリマーニの手になるたくみな台本の助けを得て、息子ネローネ(ネロのイタリア語表記)を皇帝にするためには、あらゆる手段をいとわないアグリッピーナの欲望と策略が、生々しく描写される。

しかも喜劇的で、シニカルな視点も失われないところがなんとも現代的で、それを終始、ヘンデルの音楽が支え続ける。官能に訴えるメロディから、小気味よいリズム、そこに被せられる超絶技巧を駆使した装飾歌唱──。多彩な表現によって純粋な感情が浮き上がると同時に、どこか突き放したような客観的な音楽が、アグリッピーナの燃え盛る野心や、ほかの登場人物のときに愚かで、ときに狡猾な立ち回りをあらわにする。

また、この舞台は演出家のデイヴィッド・マクヴィカーが舞台を古代から現代へと置き換えている。舞台設定の現代化は、失敗すると目も当てられないが、ここでは、この物語世界が現代であってもなんら不思議ではないと感じさせ、まさに「歴史は繰り返す」を体現してみせるのである。

だが、すべてがかみ合っていると感じられるのも、歌手がそろっているからこそ。アグリッピーナ役のジョイス・ディドナート(メゾソプラノ)の完全に制御された超絶技巧と、こめられた知性に裏打ちされた深みと凄みは、途方もない水準で、この洗練された迫力は聴けば納得してもらえるに違いない。ほかにも、クラウディオ(クラウディウス帝)のお気に入りでもあるポッペアを歌うブレンダ・レイ(ソプラノ)が、女らしい女を表現する華麗な歌を披露。ネローネ役のケイト・リンジー(メゾソプラノ)の(美しい女性歌手が見事に不良少年に化けている)、激しい動作と超絶技巧の両立からは、目も耳も離せない。

そして、極上の音楽体験、舞台体験ののちに、「歴史は繰り返す」と実感させられるはずである。

PROFILE
香原斗志(かはら・とし)
オペラ評論家。イタリア・オペラなど声楽作品を中心にクラシック音楽全般について音楽専門誌や公演プログラム、研究紀要、CDのライナーノーツなどに原稿を執筆。著書に『イタリアを旅する会話』(三修社)、共著に『イタリア文化事典』(丸善出版)。新刊に「イタリア・オペラを疑え!」(アルテスパブリッシング)。毎日新聞クラシック・ナビに「イタリア・オペラの楽しみ」、La valse by ぶらあぼに「いま聴いておきたい歌手たち」連載中。日本の城にも造詣が深い。

<告知URL>
https://www.shochiku.co.jp/met/program/2089/