ジャズに関心がなくてもビリー・ホリデイという名前は耳にしたことがあるだろう。1930年代から20年ほど活躍した偉大な歌い手、通称レディ・デイ。エラ・フィッツジェラルド、サラ・ボーンと並び、御三家などと呼ばれている。
ビリー・ホリデイの代表曲「奇妙な果実」は「南部の木々には奇妙な果実がなる」という歌詞で始まる。果実とは黒人の遺体のことである。
この歌が作られた1930年当時、新聞にはリンチされた2人の黒人が木に吊るされている写真が掲載された。作者はその写真に衝撃を受け、詞を書いたという。私はついネットで検索して写真を見てしまった。吊るされた黒人たちを白人たちが取り囲み、なかにはそれらの遺体をめずらしいものでも見つけたように指差す人もいる。見なければよかったという気持ちと、こうした事実を知り、忘れてはならないという気持ちがぶつかり合った。
ビリー・ホリデイ亡き後、「奇妙な果実」はニーナ・シモンが歌い、ユーリズミックのアニー・レノックスが歌い、カニエ・ウエストやラプソディがサンプリングし、今もなお受け継がれている。映画『Lady Sings Blues』でビリー・ホリデイを演じたダイアナ・ロスももちろん劇中で歌っている。
その歌詞は意見を主張したり、怒りを表す言葉が並んだりするわけではない。ただ黒人の遺体が果物か何かのように木にぶら下がっている様を描写してあるだけだ。
「美しい南部ののどかな風景/飛び出た目玉/歪んだ口/マグノリアの香りは甘くかぐわしい」
「その実はカラスがついばみ/雨にうたれ風で干からび日差しで腐り/ついにその実は地に落ちる」
ニーナ・シモンは、アニー・レノックスは、カニエ・ウエストは、ラプソディは、ダイアナ・ロスは、こうした言葉をメロディにのせる時、どんな気持ちになったのだろうか。
ビリー・ホリデイの自伝によれば、彼女の父親は仕事先で体調を崩したのに黒人であることを理由に治療を拒否され、病院をたらい回しにされ、挙句に亡くなった。彼女の父親もまた果物か何かのように扱われたのだ。彼女はこの歌を歌うと身体中の力が抜けてぐったりするので、ショーの最後にしか歌えないといったそうだ。観客には静寂を求めたという。
『ザ・ユナイテッド・ステイツvs.ビリー・ホリデイ』は、アメリカ政府がビリー・ホリデイに「奇妙な果実」を歌わせないために何をしたかを描いた物語だ。「奇妙な果実」は黒人差別を告発している、国民を惑わせるというのが理由である。
まずマネージャーや夫に圧力をかけ、説得させようと試みるが、レディ・デイは屈しない。歌い続ける。政府といえども、歌っただけでは逮捕できない。そこで麻薬で逮捕する。執拗に彼女を追い回す宿敵は連邦麻薬取締局だった。捜査官がファンである記者を装い、懐に潜り込んでくる。夫を手懐け、彼女に罪を被せようともする。
それだけアメリカ政府にとっては「奇妙な果実」、そしてビリー・ホリデイという象徴が恐ろしかったのだ。彼女は演説をするわけでも人々を扇動するわけでもデモをするわけでもなく、ただ歌を歌うだけなのに。
あれだけ周りの人たちに裏切られたら、麻薬と酒に溺れたくもなるだろう。1959年に44歳の若さで亡くなった。信念のない人生はどんなに楽しいことであふれていても本当の幸福といえないのではないか、物語を見終わった後も、そんなことを考えた。私は幸福を望む覚悟があるだろうか。
ビリー・ホリデイを演じたのはR&Bシンガーのアンドラ・デイ。スティービー・ワンダーの妻に見出されてデビューし、パフォーマンスを見たスパイク・リーに最初のMVは自分に監督させて欲しいと言わしめたという才能の持ち主。演技はこの作品が初めてだったが、2021年度のアカデミー賞主演女優賞にノミネートされている。
『ザ・ユナイテッド・ステイツvs.ビリー・ホリデイ』
2月11日(金・祝)新宿ピカデリー他全国公開
© 2021 BILLIE HOLIDAY FILMS, LLC.
配給:ギャガ
公式ホームページ:https://gaga.ne.jp/billie/
文・甘糟りり子