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愛知県犬山市にある犬山城は戦国時代、木曽川沿いの小高い丘に築かれました。雄大な木曽川に臨みそびえ立つ美しい姿は、中国の名跡になぞらえ「白帝城」とも称されています。周囲には多くの古跡があり、古い城下町の佇まいが今も残っていることから、多くの観光客が訪れる人気のスポットです。ここでは犬山城の歴史や見どころの他、魅力あふれる周辺の観光情報をお届けしましょう。

安賀川 国光と桃原 ふね
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犬山城(国宝5城)

犬山城(国宝5城)

日本に現存する天守は12ヵ所。中でも、創建当時の姿をほぼそのまま残している犬山城を含めた5つの天守は、国宝に指定されています。犬山城の歴史は、この国宝5城の内で最も古い様式の天守で、その基礎ができたのは豊臣秀吉が生まれた1537年(天文6年)のこと。織田信長の叔父・織田信康によって築かれました。以来、主を変えながら改修が重ねられ、堅固な平山城(ひらやましろ)へとなったのです。

別名の白帝城は、その姿を三国時代の英雄・劉備玄徳が没したとされる長江上流にある城・白帝城に重ねて付けられたもの。木曽川のほとりの小高い丘に建つ凛とした姿は、かの城を彷彿とさせます。城内に入ると優美さだけでなく、戦国の城らしい質実さも見てとることができます。

その他、城下に広がる古い町並みや周辺の古跡など、犬山観光は見どころが満載。ここでは城巡りが10倍楽しくなる、犬山城にまつわる知識や観光情報をご紹介します。

犬山城の紹介動画

犬山城の紹介動画

犬山城の歩み

犬山城の歩み

築城以来、城主を変えながらも戦乱の世を生き抜いてきた犬山城。当時、交通の要衝である木曽川沿いに立つ犬山城は、戦略上重要な拠点であったため、戦国時代の大きな出来事の舞台にもなりました。

ここでは犬山城にかかわった武将や歴代城主、その歴史についてご紹介します。犬山城の歩みについて理解を深めれば、お城巡りがさらに趣深いものになるでしょう。

織田領時代

犬山城は1537年(天文6年)、織田信長の叔父・織田信康によって、木曽川のほとりにある標高88mの見晴らしのいい丘の頂きに築かれました。

当時、犬山城のある尾張国内(現在の愛知県西部)は豪族たちが群雄割拠し、隣国・美濃国(現在の岐阜県)の斎藤家も虎視眈々と尾張の地を狙っている不穏な状況。周囲を一望でき、木曽川を挟んだ斎藤氏の居城である稲葉山城(のちの岐阜城)の動きも把握できるこの地は、城を設けるのに格好の場所だったのでしょう。

その信康は、1544年(天文13年)に斎藤家との合戦の最中に戦死。嫡子・織田信清が犬山城主となります。1551年(天文20年)に、美濃の斎藤道三と縁戚関係を結んでいた織田信長が家督を継ぐと、信清もこれに従いました。しかし、信長と信清の関係は次第に悪化。信清は斎藤方に就くようになります。

舅の道三亡きあと、美濃侵攻を考えていた信長は、その障害となる犬山城の攻略を開始しました。まずは犬山城の支城である黒田城、小口城を調略によって開城。1565年(永禄8年)に遂に犬山城を包囲、城下に火を放って攻め立てたところで、信清は負けを悟り降伏しました。

その後、犬山城主には功績のあった丹羽長秀が就いています。信長政権下で犬山城の主は幾度も変わり、1567年(永禄10年)に柘植長定に、1570年(元亀元年)に池田恒興、1581年(天正9年)には信長の5男である織田信房が城主として治めました。

本能寺の変~関ヶ原の戦い

1582年(天正10年)6月に明智光秀が謀反を起こし、信長が本能寺に斃(たお)れると、城主・信房も二条城で兄の信忠と共に非業の最期を遂げます。その後、明智光秀は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)によって討たれ、清洲会議で尾張国と伊賀国・伊勢が信長の二男・織田信雄の領有に決定。犬山城は信雄の重臣・中川定成が城主を務めました。

しかしその後、信雄と秀吉の関係は悪化。城主・中川定成が秀吉方に侵攻された伊勢国に援軍として出向くと、その隙に乗じてかつての城主・池田恒興が犬山城を奪取します。世に言う小牧・長久手の戦いの始まりです。犬山城は秀吉方の尾張攻略における橋頭保の役割を果たしました。戦いは9ヵ月に及びますが、信雄と秀吉が和睦すると、犬山城は再び信雄のもとに戻ります。

その後、信雄は秀吉の怒りを買い改易されたのです。犬山城は秀吉の養子である豊臣秀次が領有しますが、秀次が秀吉の不興を買って切腹を命じられると、石川清貞が城主の座に就きました。やがて秀吉が没し、関ヶ原の戦いが勃発。石川清貞は石田三成率いる西軍方に付き、犬山城に籠城しました。

江戸時代

関ヶ原の戦いの後、尾張は家康の四男・松平忠吉が支配。1601年(慶長6年)に、その附家老(つけがろう)として従った小笠原吉次が、犬山城主に就きました。

豊臣方であった前城主の石川清貞から、この小笠原吉次が治めた時代に、犬山城下は整備されます。総構えと呼ばれる、城下町を堀と石垣で囲む城郭が築かれたのもこの頃のこと。木曽川沿いにも石垣と土塀が連なっていました。1・2階部分が築かれたのもこの時代と伝えられています。

松平忠吉が1607年(慶長12年)に28歳の若さでこの世を去ると、家康の九男である徳川義直が尾張を治めます。徳川御三家のひとつ、尾張藩の始まりです。犬山城は、徳川義直の附家老になった徳川家の重臣・平岩親吉が、死去する1611年(慶長16年)まで治めます。

その後、数年の空白を置き、1617年(元和3年)に尾張藩の附家老になった成瀬正成に犬山城が与えられました。気品を漂わせる天守の3・4階部分は、正成の時代に増築されたと考えられています。3階の唐破風(からはふ)や4階の廻縁(まわりえん)をあしらった、3重4階の姿はこの頃に完成。以降、明治に入るまで、犬山城は成瀬家が世襲しました。

版籍奉還と保護運動

歴代の成瀬家当主が居城とした犬山城ですが、9代城主・成瀬正肥の代に明治維新を迎えました。1869年(明治2年)の版籍奉還で、成瀬正肥は尾張藩家老ではなく、犬山藩知事となります。しかし、1871年(明治4年)に廃藩置県が行なわれると犬山藩は犬山県となり、さらに名古屋県に統合。犬山城の廃城が決定します。

それに伴い成瀬家は城を退き、各所に築かれた櫓や城壁など、天守を除く主だった施設が破却されました。住民の働きかけもあり、天守と城門など、一部は取り壊しを免れ愛知県の管理下に置かれますが、1891年(明治24年)に起きた濃尾大地震で天守が半壊。西側北端の付櫓や城門の一部なども倒壊しました。

しかし愛知県では修繕費用を賄えなかったため、修復と保存を条件に1895年(明治28年)、犬山城は旧城主である成瀬正肥に無償で譲渡されます。その後、成瀬家と犬山町民は義援金を募り、天守は無事に修復。これからしばらくの間、犬山城は全国でも類を見ない個人所有の城となります。

その後、1935年(昭和10年)に天守が国宝に認定。戦後の1952年(昭和27年)に国宝に再指定されます。1959年(昭和34年)には伊勢湾台風により甚大な被害を受け、1961年(昭和36年)~1965年(昭和40年)にかけて解体修理が施されました。しかし不幸中の幸いか、このときに行なわれた調査で犬山城はそれまであった(美濃金山からの)天守移築説が否定され、現地創建の日本最古の天守ということが証明されたのです。

多大な維持費や相続の問題もあり、2004年(平成16年)から財団法人犬山城白帝文庫へと城の所有者は変わりましたが、成瀬家の方々を中心に、城の維持・保存が行なわれています。

犬山城の天守の造りと見どころ

犬山城の天守の造りと見どころ

犬山城は、1537年(天文6年)に木曽川に面した丘陵上に造られた平山城です。背後の断崖を天然の要害とし、丘陵から周囲の平地へ、本丸、杉の丸、樅の丸、桐の丸、松の丸を階段状に連ねて配置して、山城の堅固さと平城の利便性を併せ持っていました。

川沿いの丘の上に立つ城の佇まいは美しく、別名・白帝城とも呼ばれています。これは、江戸時代の儒学者・荻生徂徠(おぎゅうそらい)が、長江流域の丘上にある白帝城を詠った李白の詩「早發白帝城」(早に白帝城を発す)を引き称賛したことからです。

犬山遊園駅の北にある犬山橋から、木曽川越しに天守を望む景色が素晴らしいので、見学の際はそちらへも足を運んでみましょう。犬山城の天守は、3重4階地下2階の望楼(ぼうろう)型。2017年(平成29年)時点で現存する5つの天守の中で、最も古い様式です。ここからは、天守の構造の特徴と観光の際のポイントについてご紹介していきます。

様式や外観の特徴

犬山城は、二重櫓(やぐら)の上に望楼が載る三重構造となっています。望楼とは櫓の一種で、特に遠くを見渡すための櫓のこと。犬山城は1・2階部分にあたる二重櫓の上に、あとから望楼が増築されています。このような櫓の上に、望楼を別構造で載せる様式が望楼型です。

望楼型は初期望楼と後期望楼に分けられ、望楼部分が小さく、屋根の逓減率(ていげんりつ)が大きい犬山城は、主に関ヶ原の戦い以前に造られた初期望楼型に分類されます。

天守を正面から見た際に、望楼の下にある中央が弓なり状にせり上がった唐破風(からはふ)ということも特徴のひとつ。破風とは、城や神社などの建築物に多く用いられる装飾で、城の象徴となる天守の最上重は必ず破風で飾られています。犬山城は最上部にある直線的な入母屋破風と、その下にある曲線的な唐破風とのコントラストが印象深く、まさしく城の象徴と言えるでしょう。

さらに、犬山城の唐破風は城内では屋根裏部屋にあたり、採光のための窓が設けられている他、先に建てられた二重櫓と増築された望楼との親和性を高めることにも一役買っているのです。

外壁は、初重は下見板張となっており、二重目から上層は漆喰塗籠(しっくいぬりごめ)。最上階は柱をそのまま見せた真壁造(しんかべづくり)となっています。川辺の丘の上に白漆喰の美しい城が建つという絶好のロケーションこそ、犬山城が白帝城とも呼ばれる最大の所以でしょう。

穴倉と階段

天守の中へと目を移してみましょう。犬山城の天守は地上4階・地下2階で構成されています。石垣を開口した入口は、両扉形式で片側に脇戸を持つ厳重な造り。そこから地下1階と2階の穴倉に入ります。見学の際は天守を支える石垣や梁の太さに注目です。

天守内部の規模と敵に対する防備が考慮された階段は、かなりの急角度。穴倉中段には踊り場が設けられており、ここで体を90度振らなければ1階へ上がることはできません。これは、侵入者に対する備えになっているのと同時に、一気に上がるには階段があまりに高くなるので、その高低差を解消するための工夫です。階段ひとつを取っても敵を想定して造られていることからも、当時の空気を感じられます。

石落の間と付櫓

1階にある上段の間は、周囲より床が一段高く、畳が敷き詰められ、床の間と違棚(ちがいだな)が設けられた書院造りの部屋。ここは城主の居間とされていますが、築城当初にはなく、江戸時代になってから造られた部屋だと考えられています。

上段の間の北側は万一に備えて警護する武士の詰所となっており、東側は納戸の間です。これらの部屋を囲む回り廊下の板の間は武者走りと呼ばれ、鎧を着て武器を持った武者が自由に走り回れるような、幅の広い通路になっているのが特徴。城内を歩いていると、ミシミシと床板のきしむ音が聞こえ、その床板に目をやれば、そこかしこに隙間があることが確認できます。

1階西側にあるのは、石落(いしおとし)の間。窓が開き戸となっているため、視界を大きく開くことが可能です。ここは、侵入者めがけて石を落としたり、周囲の敵を鉄砲で狙ったりなど、天守の防備を司っていました。

犬山城ではもう1ヵ所、城の防備を担う場所を見学できます。それが、天守1階とつながっている付櫓(つけやぐら)です。天守の東側に位置し、入口が敵兵に破られそうな際には、側面から攻撃を仕掛けることが可能となっていました。

4階の廻縁と華頭窓

武具の間がある2階と屋根裏部屋にあたる3階を抜けた4階は、外周を一周できる廻縁(まわりえん)が特徴。ここは見学の際には絶対に外せない絶景ポイントで、眼下の木曽川の流れや、広大な濃尾平野が一望できます。晴れた日には、遠く岐阜城や名古屋城まで見渡すことが可能です。

廻縁は雨水を屋根へ導くため外側に向かって傾斜しているので、外周には高欄(こうらん)という転落防止用の手摺が備えられています。しかし、その高さは大人の腰よりも低いため、高い所が苦手な人は少し怖いかもしれません。警備の人が常駐するなど見学の安全面は考慮されていますが、十分注意しましょう。

廻縁への出入口の両脇には、華頭窓(かとうまど)が配されています。これは天守の格式を上げるために壁上に貼りつけられた装飾で、実用性はありません。

望楼の内部には真っ赤な絨毯が敷かれています。これは、七代城主の成瀬正壽(まさなが)がオランダ商館長と親しかったことから入手したと言われており、幕末当時としては大変貴重な物でした。また、壁には歴代の城主の肖像画や写真が飾られています。肖像画から写真へ、写真も白黒からカラーへと、2004年(平成16年)まで個人所有だった犬山城ならではの歴史が感じられるでしょう。

このように、犬山城の最上重にあたる望楼は、内外ともに格式を重んじた豪奢な造りとなっています。これは、望楼が増設された時期に戦国時代が終わり、城に求められるものが軍事的な実用性ではなく、城主の権威を誇示するための象徴性へと移り変わっていったからでしょう。

犬山城の天守は、戦国時代の名残りと同時に、時代の流れと共に変化した日本の城の在り方を現代に伝えているのです。

犬山城内の見どころ

犬山城内の見どころ

丘陵上に立つ犬山城は、その地形を活かした平山城であり、入口からは天守が見えづらい構造をしています。その城内では天守までの道すがら、敵兵の侵攻に備えた様々な防御の工夫の跡を見ることが可能です。ここでは、天守に至るまでの城内の見どころをご紹介します。

天守までの坂道、空堀

戦国時代に造られた城の役割は、敵からの防御。どの城も敵兵が簡単に本丸までたどり着けないように造られています。犬山城もまた表門へと続く道が曲がりくねり、敵兵が直進できない造り。

入口から天守へと続く道を歩き出すと、最初に姿を現すのが中御門跡。ここが登城道の最初の門です。石畳が敷かれた登城道の右手は、当時の松の丸にあたり、現在は三光稲荷(さんこういなり)神社が鎮座しています。

そこから左に目をやると見えるのが空堀(からぼり)です。明治時代の廃藩置県により廃城となった犬山城。天守を除くほとんどの櫓や城門が取り壊された中、空堀は当時のままの状態で現存している数少ない史跡になります。城下町と一体となった総構えの構造である犬山城は、かつては外郭を水堀で囲んでいました。水堀を突破してなお攻め込んでくる敵兵の行く手を阻むために造られたのが、この空堀になります。

黒門跡と石垣

緩やかに傾斜を増す登城道に、途中から石段が出てきます。この辺りから先が二の丸である桐の丸、樅の丸、杉の丸にあたる場所ですが、当時の面影はあまりありません。

そんな中、当時のまま残っているのが黒門(くろもん)の礎石。黒門は桐の丸と樅の丸を抜ける登城道の入口にあたり、厳重な防御が求められた場所です。現在見られるのは礎石ひとつのみですが、黒門そのものは県内丹羽郡大口町の徳林寺の山門として移築されました。

さらに天守へ向かって進むと、一直線の石段の先に大きな石垣と、登城道最後の門である岩坂門跡が見えてきます。犬山城の石垣は野面積(のづらづみ)で積み上げられた物。加工しない自然のままの石を積んでいるため、石の形が不揃いで、隙間も多いですが、水はけに優れています。

ここにある石垣は小銃櫓台跡で、後年になって再建された物。形も大きさも様々な石が組み合わされた姿は、ダイナミックで迫力があり、下から見上げるアングルで記念撮影する人も多いです。岩坂門跡の脇には天守へ入るためのチケット売り場があるので、素通りしないようにしましょう。

天守まで残すところは本丸への門となる本丸門のみ。こちらも1965年(昭和40年)に再建された門ですが、かつての本丸門は鉄門と呼ばれ、外側が鉄板で覆われていました。

神木「大杉様」

天守の東側には「大杉様」と呼ばれる、櫓に囲まれた杉の木があります。樹齢約650年で築城以前からあると言われ、元々は天守と同じくらいの高さ。台風の際には城の風よけとなり、身代わりに雷に打たれるなど、長年にわたってご神木としてあがめられていましたが、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風で落雷を受け、1965年(昭和40年)には枯れてしまいました。

以降、地元住民がしめ縄をして大切に祀っています。私たちが今の時代に素晴らしい天守を見られるのは、この大杉様のおかげかもしれません。見学の際にはぜひ、立ち寄りたいポイントです。

犬山城へのアクセス

犬山城へのアクセス

犬山城がある愛知県犬山市は県の最北端に位置し、犬山城の北を流れている木曽川は愛知県と岐阜県の県境です。犬山城へのアクセスは、名古屋鉄道(以下、名鉄)または自動車で最寄りの駅や駐車場へ到着したあと、5~20分程、徒歩での移動となります。

犬山城へのアクセス方法:電車の場合

名鉄名古屋駅から出発する場合、名鉄犬山線で快速特急または特急を利用すると約25分で犬山駅に到着。犬山駅からは徒歩約20分となります。犬山駅西口から西へ直進し、本町の交差点を右折すると、犬山城下町のメインストリートとなる本町通りを観光しながら犬山城まで行けるため、おすすめのルートです。

また、同じ名鉄犬山線で、犬山駅のひとつ先の駅である犬山遊園駅からは、犬山城まで徒歩約15分。こちらは木曽川沿いの遊歩道を、徐々に近付く犬山城を眺めながら歩くことができます。写真撮影しながら犬山城を目指すのもいいでしょう。

犬山城へのアクセス方法:自動車の場合

名神高速道路・小牧ICより約25分。犬山城の駐車場は全部で3つあります。

犬山城まで徒歩約5分の第1駐車場は収容台数140台。料金は普通車1回500円で、営業時間は平日8時30分~16時30分、土日祝日は8時開場となります。犬山城まで徒歩約15分にある24時間営業の第2駐車場は収容台数80台で、料金は無料です。ただし、12月15日~2月15日の期間は利用できません。こちらも24時間営業の第3駐車場は、犬山城まで徒歩約20分の犬山市役所。収容台数は150台で、料金は普通車1時間200円です。

犬山城の開場時間

犬山城は12月29~31日の定休日を除き、毎日9~17時まで見学することが可能です。ただし、入場は16時30分までなので、注意しましょう。

犬山城の入場料

入場料は一般が550円、小・中学生は110円となります。また、身体障害者手帳の所持者、療育手帳の所持者、精神障害者保健福祉手帳の所持者と、その付添者ひとりまでは入場無料です。車いす利用者に限り付添者2人まで無料。

また、犬山城と一緒に回りたい城下町の施設や、「博物館明治村」「リトルワールド」「日本庭園有楽苑」などの観光施設の入場料金がお得になるセット券も販売されています。どのセット券も発行日より3ヵ月有効なので、犬山城をじっくり見学して時間が足りなくなっても、また次の機会に別施設を利用できてお得です。

【施設情報】

合わせて観たい史跡や見どころ

合わせて観たい史跡や見どころ

観光客が増えてきている犬山城ですが、周辺エリアが過度に観光地化されていないのも魅力。城の南側に広がる旧城下町は、太平洋戦争で大きな被害を受けなかったこともあり、ほぼ当時のままの区割りで町が残っています。

また、周辺には歴史と文化に触れられる観光スポットも多くあるので、古き時代の名残りを訪ねに足を伸ばしてみるのもいいでしょう。ここでは犬山城観光の際に足を運んでみたいスポットと、その楽しみ方をご紹介します。

城下町

犬山城の南に広がる町はかつての城下町です。太平洋戦争時に戦火を浴びなかったことや、道路幅の拡張が行なわれなかったため、かつての町並みをたどることができます。

所々にある鍵型に折れ曲がった道やT字路は、敵の足を遅らせるための物。城下町の名残りを感じさせます。犬山城の入口から南北に延びる本町通りは旧商人町で、ここを中心に魚屋町や鍛冶屋町が広がっていました。その町名は残っており、各所に町名の由来を説明した看板が立っています。

本町通りには古い建物を改装した民芸品店や茶屋などが数多く立ち並んでおり、お買い物やグルメを楽しむのに最適です。

旧磯部家住宅

本町通り沿いにある江戸期の商人の邸宅で、国の登録有形文化財です。江戸時代は「柏屋」の屋号で呉服商が営まれていました。2階建ての主屋は幕末に建てられた物で、なだらかに丸く膨らんだ「起り屋根(むくりやね)」という独特の形状をした屋根が特徴。犬山市内ではここだけに残っている物です。

間口は狭いのですが内部は広く、仏間や座敷、裏座敷と細長く続くウナギの寝床のような構造。建物の細部までこだわったあしらいに、当時の商人の暮らしぶりが伝わってきます。敷地の裏手には明治期に造られた、軒に蛇腹柄を配した重厚な土蔵と裏土蔵が建っており、天気の良い乾燥した日には、銅網戸越しに、内部の見学をすることが可能です。

【施設情報】

  • 施設名:旧磯部家住宅
  • 所在地:〒484-0083 愛知県犬山市大字犬山字東古券72
  • 電話番号:0568-65-3444

三光稲荷神社

犬山城の丘の麓にある歴史の深い神社。成瀬家の守護神として、犬山城の南西に広がる「犬山丸の内緑地公園」がある場所で奉られていました。宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、猿田彦大神(さるたひこのかみ)、大宮女大神(おおみやのめのかみ)が奉られており、商売繁盛、男女良縁、家内安全、交通安全などにご利益があると言われています。

幾重にも連なる鳥居が印象的で、鳥居をくぐり抜けると見えてくる絵馬掛けは圧巻です。縁結びの願いをつづったハート型をしたピンク色の可愛い絵馬がズラリと並んでいます。

【施設情報】

針綱神社(はりつなじんじゃ)

熱田神宮や津島神社などと並ぶ尾張五社のひとつ。905年(延喜5年)、醍醐天皇の時代に編集された「延喜式(えんぎしき)」の神名帳(じんみょうちょう)にも記載があるなど、長い歴史を誇る神社です。

主祭神の尾治針名根連命(おわりはりなねむらじのみこと)を始めとした10柱の神が祀られており、安産や厄除け、長寿に霊験あらたかとして広く崇敬されています。また、精巧なからくり人形の乗った車山(やま)が出ることで全国的にも知られる「犬山祭」は、針綱神社の御例祭です。

【施設情報】

犬山祭(ユネスコ無形文化遺産)

針綱神社の例祭で、毎年4月の第1土曜日と翌日曜日に行なわれます。犬山城下の13の町から、それぞれ重さ5t以上もある13台の車山(やま)が登場。三層になった車山にはそれぞれ精巧なからくり人形が仕掛けられており、市内を曳き回しながら針綱神社を目指します。

片手で逆立ちする唐子や浦島太郎の白髪翁への面変わりなど、趣向を凝らしたからくりは必見です。もうひとつの見どころは「どんでん」と呼ばれる車山の方向転換。掛け声と共に巨大な車山を担ぎ上げる姿は実に勇壮です。夜はそれぞれの車山に365個の提灯を灯され通りを巡行。幻想的な雰囲気を醸し出します。

犬山祭は国の重要無形民俗文化財に指定されており、2016年(平成28年)の12月には、ユネスコの無形文化遺産にも登録されました。

日本庭園 有楽苑(如庵)

犬山城のすぐ東にある名鉄犬山ホテルの敷地内にある日本庭園・有楽苑(うらくえん)は、犬山観光には欠かせないスポットのひとつ。その名は織田信長の弟で、大名であり茶人としても高名な織田有楽斎に由来。

手入れの行き届いた美しい園内には、有楽斎の隠居所であり重要文化財に指定されている旧正伝院(しょうでんいん)書院の他、元庵と弘庵といった趣きのある茶室が建てられています

中でもぜひ見学したいのは、国宝茶室・三名席のひとつである如庵(じょあん)です。1618年(元和4年)に京都建仁寺の正伝院に建てられた物を、1972年(昭和47年)に移築。古暦を腰張りにした壁や格子状に竹を張った有楽窓など独創的なあしらいが、しみじみとした味わいを感じさせます。

通常、如庵は非公開なのですが、毎月1日だけ一般向けに公開。事前申込みが必要なので、まずは公式HPを確認しましょう。

【施設情報】

  • 施設名:日本庭園 有楽苑
  • 所在地:〒484-0081 愛知県犬山市御門先1
  • 電話番号:0568-61-4608

城とまちミュージアム(犬山市文化史料館)/からくり展示館

犬山市の文化や歴史をより深く知るのであれば、本町通り沿いにある城とまちミュージアムに足を運んでみてはいかがでしょう。館内では江戸時代の犬山城下を再現した巨大ジオラマを展示。当時の犬山祭の様子や、人々の暮らしが再現されています。また、犬山城を治めた成瀬家由来の貴重な美術工芸品も多数展示されており、こちらも見応え十分です。

城のまちミュージアムの向かいには、別館のからくり展示館があります。犬山祭の車山に乗るからくり人形を多数展示。車山に乗る実際の人形たちも見ることができます。土・日・祝日にはからくりの実演も実施しており、その複雑な動きを間近で見学することが可能です。

城とまちミュージアムとからくり展示館は入館券が共通で、どちらかで入館券を購入すると、どちらも入場できます。

【施設情報】

木曽川うかい

約1,300年前から続くと言われる伝統漁法、鵜飼(うかい)を楽しめる犬山の夏の風物詩です。屋形船に乗りながら、鵜匠が縄を付けた鵜を巧みに操りながら、アユなどの魚を獲る様子を見学できます。

鵜匠(うしょう)が一度に操るのは10~12羽の海鵜。鵜が水中に潜り、魚を捕まえて水面に上がってくると、手縄を引き、魚をはき出させて再び鵜を川へ放ちます。かがり火が灯る中、昔ながらのいでたちで鵜を駆る様は、何とも郷愁を誘う光景。

かがり火でアユを誘うため、鵜飼漁は夜に行なわれるのが基本ですが、木曽川うかいでは毎週火・木・土・日曜限定で、日中も鵜飼を楽しむことが可能です。

【施設情報】

  • 施設名:木曽川うかい
  • 所在地:〒484-0081 愛知県犬山市犬山北白山平2
  • 電話番号:0568-61-2727

※この記事は、2018年4月時点の情報に基づいて作成されています。

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